第22話 生い立ち
甚兵衛はこの際はっきりと百雲斎から事実を聞こうと思った。もし紅之介が葵姫に言い寄っているならば今すぐにでも対処せねばならぬと。甚兵衛はわざと困った顔をした。
「しかし困ったことがある。百雲斎殿もうわさを聞いておろう。あの若い2人だけで出かけていくのはどうじゃ? 大丈夫だと信じておられると思うが、もし紅之介によこしまな心があったなら?」
甚兵衛は心配している懸念をはっきり口に出した。しかし百雲斎は即座に、
「それには心配いりませぬ。」
ときっぱりと答えた。しかしそれだけでは甚兵衛の心配は消えない。
「しかし男は男だ。役目にいくら忠実であってもあの美しい姫をみれば。」
その言葉に百雲斎はもっともだとうなずいた。そして急に辺りを見渡して気配を探り、他に誰も聞いていないのを確かめた。よほど人に伏せている秘密があるようだ。そしておもむろに甚兵衛の耳に口を近づけ、声を潜めて言った。
「心配御無用。紅之介は女でござる。」
「何と…」
甚兵衛は驚きでそれ以上、声が出なかった。それは思いもしなかったことだった。百雲斎はその仔細を語り始めた。
「それはこういうことでございましてな・・・」
―――――――――――――――――
紅之介の両親、
二神家は一子相伝の神一刀流を代々伝えていた。それは厳しい修行を必要とするため、男子しか受け継ぐことができないとされていた。不幸なことに2人の間には継承すべき男子は生まれなかった。だが女子が一人だけが生まれたのだ。その子は
5年後、もはや男子は授からぬと思った陣之介は紅に神一刀流を継がそうとした。それには紅を男子にしならねばならなかった。
「紅よ。お前はこれから紅之介として生きるのだ。」
父にそう言われても紅はきょとんとした。それがどんなことか、全くわかっていなかった。だがその時から彼女、いや彼の苦難が始まったのだ。血を吐くような厳しい修行が毎日課せられた。
「苦しいよう! 痛いよう!」
紅之介が泣き叫ぼうが陣之介の心が揺らぐことはなかった。もはや父でなく師となったのだ。甘えは許されるはずはなく、ただ情け容赦なく厳しく紅之介を鍛え上げた。母の佐世は紅之介の身を気遣ったが、何もしてやれなかった。ただ見守るだけだった。
やがて紅之介はそれを受け入れた。今まで女らしく育てられたものはすべて捨てて、男になったのだ。それで苦しい修行を乗り越えていった。その甲斐もあって18になるころには神一刀流の継承者にふさわしい剣の腕を持つようになった。そして自分が女であったことも忘れてしまった。
そんなある日、陣之介は紅之介に言った。
「お前を一人前の剣士として果し合いを申し込む。私を越えてこそ、神一刀流を受け継ぐことができよう。」
これは継承者として通り抜けねばならぬ道だった。新しい継承者が生まれるたび、神一刀流は強くなる・・・これが神一刀流が最強である所以でもあった。
陣之介と紅之介は鬱蒼と茂った森の中で刀を抜いた。手加減なしの真剣勝負である。
「参るぞ!」
陣之介が駆け寄って刀を振り下ろしてきた。紅之介は刀で受けとめると、それを返して横に払った。その刀の動きは鋭かったが、陣之介はそれを見通したかのようにさっと避けた。今度は紅之介が向かって行った。刀を右や左に素早く動かして陣之介に打ちかかるが、さすがは神一刀流の当主、ことごとくはね返していった。そして隙を見てまた刀を打ち込んでいく。両者の戦いは木々の間という狭い空間で白熱していった。
「なかなかやるな!」
「父上こそ!」
緊迫した激しい打ち合いに次第に両者の息が上がってきた。そして最後の一撃の時が来た。陣之介が奥義を繰り出して紅之介を仕留めようとしてきたのだ。それを紅之介は必死にかわし、木々の後ろに隠れた。だが陣之介の刀はその木さえも真っ二つにした。そしてその刀の切っ先は紅之介の喉にぴたりと当たった。陣之介が寸止めで刀を止めたのだ。だが彼が勝ったわけではなかった。その前に紅之介の刀が、これもまた寸止めで陣之介に当てられていた。両者はそれを確かめてお互いに刀を引いた。
「見事だ!」
陣之介はおおきくうなずいた。紅之介の腕を認めたということだった。
「これでお前は神一刀流を継ぐことができよう。奥義はすべて見せた。これを我がものとするため自ら精進するのだ。これからは・・・」
そう言いかけた時、陣之介は胸を押さえて倒れた。
「父上!」
紅之介はあわてて陣之介を抱き起した。陣之介は途切れながらも紅之介に言った。
「我が神一刀流のため、お前を犠牲にしてしまった。すまぬ。
そこでこと切れた。陣之介の思いはそうであったのかもしれない。その父の思いに、
「父上・・・」
と人前では出さぬ涙を流した。陣之介は前々から心の臓の病があった。それを隠して紅之介の鍛錬を行っていたのだ。神一刀流のために。たとえ寿命を縮めようと・・・。それを知ったのは通夜の晩だった。母の佐世が教えてくれたのだ。
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