第79話 葉っぱで買い物ができる世界(とは?)

 ロッカー・ルームへと引き上げた。

 スコアラーは、今日の私の無様な姿も記録しただろうか?

 設計の狂ったアリの巣を。


 ロッカー・ルームのスチール製のベンチに、妻が座っていた。死んでしまったことを忘れてしまうくらい、自然にそこにいるのだ。

 私はあまり慌てなかった。何か話したいことがあるのだろうとしか思った。

 天国から降りて来たのか、地獄から這いあがってきたのかは分からないが。

「あんたのチームのピッチング・コーチはね」

 妻は言った。

宇宙人インベーダーよ」

 そうか、と思った。血がチリソースになったような気分だった。

「あたしね、死後の世界で、宇宙人に会ったの。ハンサムだけどまるで実体がないのよ? でね、言ってたのよ。死んだあと暇だったから、ついつい話聞いちゃった」

「一体何の話なんだ?」

「『侵略は、もう完了した』って」

 彼女は私の質問に構わず、言葉を続けた。

「地球には、征服を目的とした何人もの宇宙人が潜んでいるの。野球関係者にも、結構紛れているらしいわよ」

「だから、一体……」

「あー、眠くなってきた。どこも退屈よね。死んだ後も、別に対してなにもかわんないもん。住んでいる人間が違うだけ」

 妻には、私の声は聞こえていないらしい。もっとも、生きていた頃からこんなものだったかもしれないが。

「『1+1=2』はどこにもないみたいで、それだけが嬉しいかな。お金のかわりに、葉っぱを使って買い物をするのよ。タヌキみたいで、かわいいわよね。詩もすっかりやめちゃったわ」

 彼女は生きているときと比べ、ずいぶんとすっきりした、清潔な言葉を使った。

 これはもしや、死者からのメッセージなんてやつじゃないだろうな?

 今までの散々な状況に比べて、ずいぶんと『物語的』だ。

 妻に近づき、抱きしめた。彼女は頬の傷痕を撫でた。そうすると私が喜んだからだ。

「もういいよ」

 私は妻の目にキスをした。傷なんかどうでもいい。今はただ、こうしていられたら。

 妻は既にいなかった。試合は、終了していた。


 チームは逆転勝ちをおさめた。8回9回と、大量得点を上げたようだ。

 負けもつかず、200敗にも届かなかった。

 199勝、199敗。

 要は、何もしなかったのと同じ。

 不思議と、胸を締め付ける想いや、怒りは消えていた。自分が投げている間に逆転をしていたら、もちろん勝ちは付いていただろうが。

 それはどうでもよかった。解放されたのだ。数字の支配。アレコレから。

 それが、嬉しかった。


 引退セレモ二―のスピーチをするため、グラウンドに呼び出された。まず、今日の試合のヒーローインタビューが行われていた。

 決勝ホームランを打った若手選手が、「偉大な先輩の引退試合を勝利で送り出せてよかったです」と優等生的コメントをしていた。

 申し訳ない。私は『偉大な先輩』なんかじゃない。悪妻を亡くしたばかりの老いぼれだ。


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