第27話

 悲鳴が聞こえた。気がした。

 ジンは本から視線をあげて眉を寄せた。

「ヒメさん?」

 確かにあれはヒメの声だ。

 今朝、一緒に検査キットのところまで行こうと誘ったが、ヒメは気まずそうに視線を逸らしてウィリアムと行ってしまった。

 昨日、あそこまでしたのに結局なにもできなかったことが恥ずかしいのか、それとも後悔しているのか。帰ってきたらまたちゃんと話をする必要がある。

 部屋にいても仕方ないので、ホテル内の調査キットの確認をしていく。どの数値も昨日よりやや高いが一般的な数値を逸脱はしていない。

 時間を潰すためにホテルの三階にある図書室に赴いた。ワンフロアを貸し切って本ばかり置いた贅沢な空間には壁いっぱいに本棚が並び、古今東西の本が詰められて好きなだけ読むことが出来る。ホテルから持ち出さない限り、好きにしていいそうだ。中央にはピアノがあり、これも好きに触れることができるそうだ。

 このホテルは、ある大手企業が税金対策として運営しているため儲けを気にしていない。コンセプトが世間の喧騒から逃げたい人に向けた隠れ家。ひたすらにただのんびりするだけの、今時珍しく貴重な場所だ。

 窓から差し込む太陽の日差しを受けながら、部屋の端っこにあるソファに座って、数冊の本と一緒に昨日資料に改めて目を通す。

 ホテルの建物は海外にあったものを日本に運び込んできたものだそうだ。当時は華族が別荘として使い、そのあと今の持ち主が所持している。意外なことだが、このホテルはそこそこの有名らしく、予約制で客足が途絶えたことはないようだ。

 気になるのは一年前に、このホテルに泊まった客が一人、自殺している。

 若い女はふらりと朝に散歩に行くと告げたあと、夕方まで戻らず、近くの湖でたゆたっているのを従業員が発見した。遺書もあり、女性が恋人と別れて精神的に追い詰められたことも警察が調査して片付いている。ただそのあとから定期的に何か黒い影を見ると報告があがっているので、UGNが今回調査に乗り出したという次第だ。

 ありがたいことに資料にはホテルが出来た当初の見取り図、海外でのこの洋館の経緯についても詳細が載っていた。

 海外にあったとき、この建物は「クノッソス」――帰らずの迷宮。

 当時の持ち主の名はバーバリー・エリザベス。

 彼女は

 

 ぼろん

 軽やかなピアノの音にジンは目を細めて文字から顔をあげた。あげさせられたというほうが正しい。

 自分の左腕をひっぱってくる、なにかの力を覚える。

 レネゲイドウィルスなら、触れれば痛みがあるはずだ。

 ぼろん

 再びピアノの音がする。

 まるで誘うように音が響く。

 どっちを見るべきか思案する。このまま誘いにのるなら振り返るべきか

「遊ぼう」

 軽やかな声とともにひっぱられて後ろを振り返った。

 楽しそうに微笑む女の子がジンを見上げる。その瞳はどこまでも果てのない闇の――穴があいている。

「いいよ」

 ジンは優しく答えて、少女の手に触れた。

 とたんにばちりと痛みがあった。

「あっ」

 ようやく気がついたらしいが、なにもかも遅い。遅すぎる。

 触れたところからどろりと溶けると思ったときには、すかっと空気のように掴めなくなった。

 あははは

 女の子の笑い声が響いてくるなかピアノが悲鳴をあげた。

 乱暴に鍵盤を叩かれてむちゃくちゃな音をあげて、ジンに向かってくる。

 咄嗟に床に倒れるようにして避けた。

 壁にぶつかったピアノは無残な姿で、それでも狂ったように音を発している。

 と、自分を見る無数の目の気配を覚えた。

 けれどそれは空気のように軽く、つかみ所がない。

「ヒメさん、だから悲鳴をあげたのかなぁ」

 幽霊が嫌いだと昨日口にしていたヒメのことを思い出してジンは納得した。

 ほの暗い水の底からのぞき込むような目、目、目。

 ジンは体を起こして斧に手を伸ばそうとしたとき、痛みではない熱に気がついた。

 腕が根本から切られた。

 ほとんど反射的に傷口を押えて後ろに飛ぶ。リザレクト――血のなかのウィルスが集まり、再生していくときの不愉快さを味わいながら前を見る。ジンの切り取った腕を黒い、何かが貪っている。

 食べておいしいのだろうか。あんなもの

 それはジンの腕を食べたあと、すぐに吐き出した。

 あからさまにまずいといいたげな態度に苦笑いが零れる。

 腕を瞬時に再生して、ズボンのベルトにつるしてるい斧は持つ。

 問題は、触れることができるかということだ。

 こいつはジンに触れることができる。攻撃も通じてくるが、どうも自分が認めないものは拒絶する力があるらしい。否、実態を持たないようにして干渉を避けている。

 領域を支配するオルクスか。それとも科学物質による精神干渉の得意なソラリスか。

 どっちにしろ、このままだと一方的に攻撃を受ける羽目に陥るのは確かだ、なんとかして反撃する必要がある。

 そういえば、ウィリアムは鬼を倒したと口に

「いゃああああああああ」

「ふにゃーん」

「あ」

 ジンの目の前で、ヒメとウィリアムが天井から落ちてきた。

「いったぁ、なんで失敗するのよ! 空間転移の演算間違えた? ホテル、ほぼ歩いて体で位置は覚えてるのに? うそでしょー。いたぁ」

「ふにゃーん、ふにゃーん、目がまわりますにゃーん」

 お尻から落ちたヒメが目をまわしたウィリアムを腕に抱えたまま悪態をつくのに、ジンは屈みこんだ。

「ヒメさん、ウィリアム、無事ですか」

「ジンさんっ! え、ここどこ」

「図書室です」

「うっそー。部屋に転移しようとして失敗した? アタシ、一日で力の使い方下手になった? やだ、え、もしかして対抗種の人とキスして力弱った?」

「残念ですけど、対抗種にそこまでの力はないと思います。原因はアレですよ」

「あれ?」

 ジンが指さしたそれを見てヒメは悲鳴をあげることすら忘れた様子で固まった。

 黒い顔のない影が無数にこちらを見ている。

「あれが領域に干渉して力のコントロールを妨害してるみたいです」

「っ、っ、ジンさん、ジンさん、やばい、やばい。あれ幽霊? やだ。ほんと、こわい」

 ヒメは震えながらジンの懐にしがみついて、すぐにそのことに気が付いて目を見開いた。

「ジンさん、血がついてる、これ」

「腕を一本もっていかれました」

 さらっと説明されたヒメが絶句している。

「もう再生はしているから問題ないですよ」

「再生してるからってだめでしょ、それ!」

 怯えていたと思ったら心配して怒るヒメの表情はコマみたいにくるくるとよく変わるとジンは感心する。さすがに食べられたことは黙っておいたほうがよさそうだ。

「っ、こいつら、よくも」

「僕たちの力は通じないようですよ」

「領域支配なんてオルクスでしょ。だったらこっちはその上よ! おい、このまっくろくろすけもどきの幽霊どもがっ」

 獰猛な犬が牙を剥くように威勢のよい啖呵を切ったヒメが無数にいる幽霊たちを睨み付けると、片腕をあげた。

「お前らの罪の重さを知れ」

 がちゃんと鉄の音とともに二枚の皿がヒメの左右に現われて、傾く。

 とたんに真っ黒い幽霊の一部が霧散した。

「……バロールは磁場力はこういう場でも有効なんですね」

 ジンが納得した声で呟いた。

 バロールが重力を操るといわれているのは、強力な磁場の核である魔眼を持つからだ。磁場は一方的な強い力の流れによる干渉を意味する。それは時間すら操る――と研究者たちは口にしていた。

 オルクスの領域支配は、一方的に干渉するバロールとは相性がよくない。

 磁場による空間干渉は力と力の押し合いになる。そうなると単純に能力者同士の力量が関わる。

「っ、きもちわるっ」

 ヒメが息も荒く、ふらつくのをジンが肩を抱いて支えた。

 磁場からなる力場のぶつかりあいなんてやれば、脳が焼き切れることだってざらだ。今の状態だとしゃべるのだって辛いはずだ。

 すでに限界近いヒメから鼻血を零れた。脳の演算処理能力が完全に追いついておらず、負荷の強さに耐え切れていない。いくらオーヴァードでも、この状態では本当に死ぬ可能性がある。

「ヒメさん、干渉しすぎると危ないですよ」

「~~っ、けど、あいつらジンさんにひどいことしたしっ」

 駄々っ子みたいにヒメが息も荒く言い返す。ヒメの周りにある天秤が、ぐらぐらと激しく揺れ動いている。

「……っ、ジンさん、今なら、空間干渉してるからジンさんの物理攻撃も当たるはず! さっさと、本体を見つけて、叩かないと……うえっ。やだ、なにこれ!」

 ヒメが顔を険しくさせて震えながら、まっすぐに一点を見る。

「あれが鬼?」

 揺れる黒い影のなかにぽつんとただずむ少女。

 ジンが斧を投げたのに少女はあはははと甲高い声をあげた。と、ぎぃと鉄の悲鳴があがる。見ると、ヒメの魔眼である皿が大きく左へと傾き、ひびがはいり、双方の皿が砕け散った。

 ヒメがうえっと声を漏らし、えづいて嘔吐する。何も食べてないことが幸いしたのか口から唾液と胃酸だけが溢れるばかりだ。

 一瞬、遅かった。

 投げた斧は壁に突き刺さり、少女には当たらなかった。

 黒い鬼が哄笑響かせ、迫ってくるなか飛び出したのは茶色の毛玉だった。

「にゃーん! ちょっとおめめぐるぐるしてましたけど、復活! 支配ならウィリアムもできます。というか、この土地はウィリアムのものです。おまえみたいなよそ者はだめです、にゃあ!」

 ウィリアムの小さな体が光ったと思ったとき、足下から落ちた。

 世界が暗転する。

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