2人目のマリオネット 〜8年間の沈黙〜

しいらし ゆう

第1話 俺たちの事務所

 都会の喧騒とは程遠い、都内の郊外。周りの建物より一回り古いビルのエントランスを抜けて、またこれも古くてよく揺れるエレベーターに乗る。エレベーターを降りて左手に曲がり突き当たった所に、俺たちの事務所はある。


 俺の名前は池谷慎也、アラサー29歳。未熟ながら弁護士をしている。

「おい池谷、この子どうよ。昨日バーで知り合ったんだけどさ、可愛くないか?」

 と、仕事時間中にも関わらず携帯画面を見せてくるのが橋本健介先生だ。ウチはこんな感じで緩い事務所である。

「うーん、あんまタイプじゃ無いっすね」

「嘘だろ?めっちゃ可愛いじゃんか。もしかしてお前、まだ大学生の元カノの事引きずってんのか?確か浮気されたんだっけ?」

「ひ、引きずってません!もう何年前の話だと思ってるんですか!?」

「もう7、8年ぐらい前だっけ?まあでもそれ以来彼女いないんでしょ?」

 そう言って橋本先生は笑う。女子力が高く、口が達者な彼は何かとモテてしまうことが多い。弁護士としては尊敬するべきことは多いが、彼の浮ついた態度には日々悩まされている。女好きな性格はきっともう治らないだろう。

「池谷は顔も性格も悪く無いし、モテると思うんだけどなぁ。なんでまだ童貞なんだ?」

「よ、余計なお世話ですよ、先生」

「なんでモテないんだろうかねえ」

 橋本先生はオフィスチェアに深く腰掛けながら、ぐるぐる回転している。もう仕事をするつもりはないのだろうか。

「や、やっぱりコミニュケーション能力がないからじゃないですか?」

「それに関しては、ここで俺らがどうにかしてやる」

 俺は高校の頃から軽度だが吃音症に悩んでいる。俺の場合は、最初の文字を何回も繰り返してしまう連発という症状が主だ。それを自覚してからは人と喋るのが一層怖くなったし、実際上手くいかないことも増えていった。この事務所に来た理由の1つに、彼らが吃音に理解があったからということもある。

 だが友人にせよ恋愛にせよ、俺には必要のないものだ。最近は吃音も昔ほど気にならなくなってきたが、やっぱり1人でいるのが何気に気楽でいい。この仕事もそれなりに充実しているし、今さら新しい出会いなどは御免だ。

「はいこれ、新しい案件。また離婚協定だ」

「ま、また離婚ですか!?」

「ははは。ま、頑張れよ」

「ちょっと、橋本先生!離婚調停はもう12件目ですよ。もっとまともな案件回してくださいよ」

「離婚の仕事はまともじゃないって?そんなこと言ったらクライアントに怒られるぞ」

 橋本先生は俺に不敵な笑みを浮かべた。また俺をからかっているに違いない。だが彼の正論にはまるで歯が立たない。言い返す勇気を見失ってしまった。

「ま、そういうことだ。頑張れよ」

 俺の肩をポンポンと叩いて、またニヤッと口角を上げた。

「はぁ……」

 橋本法律事務所に来てもう4年は経つ。弁護士としてのキャリアもそれと同じだ。経験不足で事務所の足を引っ張ることはよくあった。おかげでこの頃は先生が面倒臭がる離婚関連の仕事ばかりを押し付けられる始末だ。仕事が貰えるだけマシなのかもしれないが。

「池谷先生、お茶です」

 この事務所で俺に優しく振る舞ってくれるのは事務の田所めぐみさんだけだ。ちなみに田所さんと橋本先生は元々夫婦で、1年半前に別れた。当時、事務所に屋根が吹き飛ぶんじゃないかと思うほど、とんでもなく揉めたのを思い出す。

「あ、ど、どうも」

「また離婚だそうですね」

「今回でバツ12です」

「ふふ。懲りないですね」

 といった具合に、しょうもない冗談を織り交ぜながら仕事をこなす。

「めぐみちゃん、俺にもコーヒー!」

「はぁ!?人に物を頼むときはそれ相応の言い方があるんですよ?自分で入れて下さい」

「あ、はい、はい……」

 そう言って橋本先生は自分でコップを取りに行った。今や彼は完全に田所さんの尻に敷かれている。きっと結婚生活もこんな感じだったのだろう。今でもたまにこんな夫婦喧嘩のせいでギクシャクするが、見飽きた今ではもう何も思わなくなった。それより、なぜ当事者2人が同じ職場で働くことに躊躇いがないのかが気になって仕方がない。気まずくはないのか。

「池谷!」

「は、はい!」

「離婚の前田さんのご主人は12時に来るからよろしくね〜」

「了解です」

 時計を見た。あと30分しかない。冷や汗と同時にため息が出る。だがやるしかない。俺は急いでペラペラと紙をめくり始めた。

「あ、そう言えば」

 前のデスクからひょっこり顔を出して、俺のことを細い目で見つめる。

「前田さん、双子のお子さんいらっしゃるから」

「え!?も、もしかして親権も争う感じですか……?」

 橋本先生は何も言わずにデスクに顔を引っ込めた。図星だ。呆れた顔で書類に向き合い直し、ひたすら読み通す。

 旦那さんは前田隆二さん、39歳、公務員。奥さんは前田なつみさん、29歳、で結婚後に会社を辞めて主婦。2人は結婚7年目で、6歳の双子がいる。旦那さん側は親権と財産の全額を要求、対して奥さんは親権と財産の折半、そして住居を要求か。これはかなり揉めそうな案件だな……。離婚の原因は奥さんの不倫。それなら旦那側は有利に進められなくもないが、こればかりはどうなるかはわからない。


……………………………………………………


「お待たせしました。12番の方どうぞ〜」

「はい」

「どうぞ、お座りください」

 派遣会社の窓口で働いている有村結衣の窓口に、1人の落ち込んだ様子の女性がやってきた。

「えっと、インターネットの方でお申し込み頂いた大石咲さんでお間違い無いでしょうか」

 彼女はぐったりとうなずいた。有村はどうも彼女の様子が気にかかった。いつものお客さんとは何か違う雰囲気を持っていた。

「あの、大丈夫ですか?体調の方が優れないとか……?」

「いえ、それは大丈夫です」

 派遣会社に相談に来る人の中には、職を失ってしまった方も大勢いる。彼女の雰囲気からも、そんなバックグラウンドが想像できた。

 有村は背筋を伸ばし、手渡された履歴書に目をやった。それには有村も少し驚かされた。

「え、小学校で先生をされていたんですか?」

「いえ。実は今もまだ正式には辞めれていなくて……」

 教師は基本的に公務員であるから、そういった人はあまり派遣会社に縁がない職業でもあった。

「まだ辞められていないんですか?」

「はい。でも次の仕事が決まれば、きっぱり教師を辞めれるかなと思いまして」

「は、はい。わかりました」

 有村はコンピュータにそのことを打ち込んだ。こういったケースは珍しく、勤務10年目の有村も首をかしげた。

「子供たち、みんな可愛かったなぁ……」

 大石は天井を見上げながらそうひっそりと呟いた。その嘆きは有村の耳にも届いていた。聞いていない振りもできたが、彼女は困っている人を放って置けない性格であった。

「なぜ先生をお辞めになるんですか?何かトラブルでもあったんですか?」

 大石の目はもう赤くなっていた。有村は彼女の目をしっかりと見つめた。

「パワハラとセクハラです。もう耐えれなくって……。でも母親が入院中でお金がかかるんです。教師はすぐに転勤もできないし、我慢するしかなくて……」

 人をここまでボロボロにするとは、相当酷い仕打ちを受けていたに違いなかった。さまざまなファクターに取り囲まれ、現実から逃げ出せなくなったのだろう。

「次の職場では、いい労働環境であることを保証します。大石さん、安心してください」

 有村は身を乗り出して、彼女に優しい言葉をかけた。それが彼女の仕事であって、やり甲斐でもあった。

「子供が大好きなんです。できれば、子供たちと接することができるような仕事がいいです」

「先生はもうお辞めになるんですか?」

「怖いっていうか、なんなのか。もう先生をやる気力がないっていうか……」

「なるほど……」

 有村は下唇を噛み締めた。

「わかりました。お任せください。派遣先をお探しします。まだお若いですし、もしかしたら正社員になれるかもしれません」

「ホントですか?ありがとうございます!」

 大石はその日初めて笑顔を見せた。有村はそれをじっくりと目に焼きつけた。それは届きそうもない幸せに初めて手を伸ばした、彼女の精一杯のもがきだった。有村はその想いを受け取って、彼女のために新しい職場を与えてあげなければならなかった。

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