三好一華先輩というひと

それは、十二月に入ってからのことだった。


――あれ、皓也だよね。

いつものように部活が終わって帰ろうとすると、たまたま昇降口から出てくる皓也の姿が視界に入った。卓球部は体育館のはずなのに、忘れ物でもしたのかな。

――ちょっと待て。あれってもしや、三好先輩……?


 皓也と一緒にいるのは三好一華先輩という吹奏楽部の部長だった。確か皓也と同じクラスだと聞いた記憶がある。前期の生徒会長も務め、テストでは皓也の良きライバルだそうだ。しかも、色白でぱっちりとした二重の目という美貌である。客観的に見てかなりモテる部類に入るだろう。

 その三好先輩と皓也が、親し気に話している。何の用なのだろう。彼女は少しうつむき気味でマフラーに顔をうずめるようにしている。三好先輩が皓也に何かを渡した。


――封筒……?

皓也は驚いたように目を見開いて何か話している。三好先輩はうなずいている。皓也がさらに何か言う。三好先輩の顔がぱっと明るくなる――。

 脳に電流が走ったような気がして、すべてがつながった。気づくと俺は弾かれたようにその場から駆け出していた。校門を出て、とにかく走る。息が上がってきたけれど、俺はペースを落とさなかった。


 ほらね、やっぱり俺のことなんて好きじゃなかったじゃん。

 あんなに優しくて成績が良いんだから、皓也のことを好きになるひとがいたって何の不思議もないだろう。ちょっと安心し過ぎていた。この日々は永遠には続かないことなどわかっていたはずなのに。


 なんで、俺は走っているんだろう。

 俺は、いったい何に動揺しているんだ。

 今までがおかしかったんだよ。俺は能天気バカだから、皓也の時間を奪っていることに気づかなかったんだ。


 自分でも納得しているはずなのに、裏切られたような気持ちだった。なんとなく皓也の家にも行きにくくなって、久しぶりに自分の布団で眠った。


「陸玖、お前どうしたんだよ。得意なのに全然ダンクシュート入ってなかったじゃねえか」

「え? ダンクシュートってなんだっけ」

「……お前、大丈夫か?」


 部活の休憩時間、辰紀は給水しながらこちらに顔だけ向けて言った。皓也が三好先輩に告白されていたところを見てから、俺はずっとこんな調子だった。

 今日もずっと上の空で、シュート練習ではどれも一本も入らなかった。それどころかパス練習ではあらぬ方向にボールが吹っ飛んで先輩の顔に当たったり、ドリブルで隣のテニスコートの方へ転がっていって試合中の同級生が転んだり。そのせいで、村瀬先生は怒鳴りっぱなしだった。


「大丈夫だよ」

 そう言って俺は顔に笑みを貼り付けた。

「なあ陸玖、一緒に帰ろうぜ」

「いいけど……」


 結局俺のせいで練習はめちゃくちゃになり――その後のゲームでは敵の方にシュートを入れようとして決まってしまい――一年は最後に外周を五周命じられた。村瀬先生は頭から湯気が出るのではないかというほどの怒りようだった……。

 久しぶりに辰紀と一緒に帰った気がする。俺は友達が少ない方ではないが、あまり誰かと一緒に帰ることはなかった。いつもなら、帰ったらすぐに皓也の家に行くから。俺は、なんてくだらない意地を張っているんだろう。


「陸玖、前に言ってた先輩と喧嘩した?」

「……!」


 喧嘩したわけじゃ、ないけど。なんでわかったんだろ。


「なんだっけ、その先輩」

「……王皓也」

「そうそう、その王先輩。――って、テストで上位常連のひとじゃん! なんでお前」

「だから幼馴染だって言っただろ」

「すげえな、そんなひとと幼馴染なんて」


 なにが。皓也は成績が良いだけが取り柄なんかじゃないのに。簡単にすごいなんて言うなよ。


「そんなことない」

「そういえばあれだよな、あのひと夏体のとき卓球の市大会で入賞してなかったっけ」

「知らない」


 なんで知ってるんだよ。俺知らなかったよ。入賞なんて、一言も言ってくれなかった。なんで、辰紀ばっかり皓也のこと知ってんの。

――俺しか、皓也のすごいところ知らないと思ってたのに。そんなに友達も多い方じゃないって言ってたし。


「で、なんで王先輩と喧嘩したんだよ」

「喧嘩なんてしてない」

「じゃあなんで――」

「あいつに彼女ができたんだ!」


 叫ぶと、辰紀は言葉を失った。


「え……? なんで素直に祝ってやらねえ?」


 素直に祝ってやらなきゃいけないのは当たり前だ。皓也の魅力に気づいたひとがいるならそれは祝うべきことだ。喜ぶべきことだ。でも、なぜか喜べない。その理由が、わからない。


「わかんない」

「じゃあ、やっぱりお前王先輩のこと――」

「やめろ!」


 なんで辰紀は何でもかんでも好きにしたがるんだ。俺と皓也は男だ、どう考えてもありえないのにこれほど言われるとあきれるのを通り越して特殊な性癖でもあるのかと疑ってしまう。


 ――いや、あったらあったでいいのだが、というかそういうことにしておかなければならないが、どちらにせよ他人を巻き込むのはやめてほしい。


「お前いい加減にしろよ、自分が男好きだとしてもひとを巻き込むな」

「ええー、何言ってんの。俺は根っからの女好きだよ。はあ、彼女欲しいなあ」

「またそんなこと言って」

「逆にお前彼女欲しくないわけ? 陸玖だったら、黙ってりゃモテそうなのに」


 彼女なんて考えたこともなかった。別に、皓也がいればいいや――って、そうだ。皓也には彼女がいるんだった。


「はぁ、もう嫌だ……」


 皓也に彼女ができて素直に喜べないのが嫌だ。

 小さい子供みたいに意地を張っている自分も嫌だ。

 それが何でかわからないのも嫌だ。

 もう嫌だよ。なんで、俺ばっかり皓也のことこんなに考えてるんだろ。あいつはいつも落ち着き払っているのに。――違う。一度だけ、皓也の感情に触れたことはあった。あの、小さい地震が起きたとき。


 三好先輩は知らない皓也。俺だけが知ってる、皓也。

 そう思うと、三好先輩に勝ったような気がした――って、なんだよそれ。勝ったも負けたもないし、三好先輩が皓也の彼女だし。別に俺、皓也のこと好きとかじゃないし。だから三好先輩に勝つ必要なんてないし。


「おい、どこ行くんだよ。お前の家ここだろ」

 上の空で歩いていたら、いつの間にか家の前の道に着いていた。

「あ、ほんとだ。じゃあね」

 軽く辰紀に手を振って、俺は玄関の鍵を開けた。皓也の家の方を見ないようにしながら。


 自室でぼうっとしていると、窓をコンコンと叩く音がして心臓を鷲掴みにされたかのように胸がぎゅうっとした。――俺の家の窓を叩くのは、一人しかいないから。

「……皓…也」

 重い足取りで窓際まで足を運び、鍵を開けた。


「ねえ陸玖、最近俺の家来ないけどどうしたの?」

 俺はうつむいて黙り込んだ。無視してしまうようで悪いと思ったけれど、気まずくて何も言えなかった。


「プリン蒸したよ。陸玖、卵好――」

「そんなの、彼女に作ってやればいいだろ!」


 皓也は目を見開いた。まるで、なんで知っているんだと言わんばかりに。


「三好先輩だろ、知ってるよ。あのひとかわいいもんね。皓也お菓子作り得意なんだから、三好先輩に作ってやればいいじゃん。なんで、あんなに良い彼女がいるのに俺なんかに構うんだよ!」

「そ…れは……っ」

「皓也は、三好先輩が好きなんでしょ。だったら、俺なんてもう放っておいてよ。全部、三好先輩にやってあげなよ。無理して構ってくれなくたっていいよ。もう、俺のことどうでもいいんでしょ。……皓也の一番は、三好先輩なんでしょ……!」


 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんなこと、全然思ってない。今まで、皓也は俺にすごく優しかった。何もかもが温かかった。皓也にはそんなに友達がいないってことも知ってる。だから、こんなに構ってくれるのも、俺だけだった。皓也にとっての特別は、俺だったのだ。――三好先輩という彼女ができるまでは。


 嫌だよ。三好先輩なんかにじゃなくて、お菓子を作ってくれるのも勉強教えてくれるのも俺にだけがいい。抱きついて泣くことができるのも、俺にだけがいい。なんだか、いまさら他のひとに皓也を取られたみたいだ。


「……っ違う……陸玖は、どうでも良くなんかない……」

 ものすごく、歯切れが悪い。はっきり言ってよ。どうでも良くないって言うけど、三好先輩が好きっていうのは否定しないんだ。ほらね。違う違うっていうふりをしてるけどやっぱり皓也にとっての一番は三好先輩なんだ。皓也の特別は、三好先輩なんだ。


 じゃあ、俺は?

 俺は、何なの?

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