あたたかいもの
三十八度五分。
納涼祭からちょうど一週間、八月に入ったばかりである。朝から喉が変な感じだったが、このくらい大丈夫だろうと放っておいた。尋常でないほどの寒気がしてきた時にはもう手遅れだったらしく、熱を測ったらこれだ。
「うう、寒っ……ゲホッゲホッ」
今日は父さんも母さんも仕事で夜遅くまで帰ってこない。部活は夏休みでもほとんど毎日あるので、母さんはバスケ部の顧問の先生に連絡だけしてさっさと家を出て行ってしまった。
「風邪ひいた。ヤバいかも」
スマホで皓也に滅多には送らないメッセージを送ってしまった。言ったところで治るわけでもないのに。
俺はタンスから毛布を引っ張り出して頭からかぶった。寒い、がたがた震えるほど寒いのに体の芯は燃えるように熱い。喉に何かが引っかかっているような感じがして、呼吸するたびにひりひりと痛む。
「っ……ゲホッ…ゲホッゲホッゲホッ」
咳をすると、喉に刺されるような鋭い痛みが走った。でも、自分の意志で咳を止めることはできない。俺は涙目になりながらゲホゲホと咳き込んだ。
そのうちに熱が上がってきたのか意識がもうろうとしてきて、いつしか俺は眠りに落ちていた。
「……く。陸玖、大丈夫?」
肩に手が置かれ、どこからか声が聞こえた。うっすらと目を開けると心配そうな皓也の顔が俺の目を覗き込んでいる。
「こ…や……」
来て、くれたんだ。別に、わざわざ来てほしくてメールを送ったわけではない。しかし、皓也の顔を一目見たとたんに安心感で全身から力が抜けた。
「こ…う、や……」
もう一度、彼の名前を呼ぶ。すると皓也はもともと細い目をもっと細くして微笑んだ。
「そんなに嬉しいの」
「ふふ」
唇の隙間から笑みがこぼれる。来て、くれたんだ。
「大丈夫? 風邪ひいたってメッセージ来たけど……」
皓也は心配そうな顔になって言った。
「大…丈夫……じゃ、ない……」
喉ががさがさしてうまく声が出ない。少しでも気を抜けば咳き込みそうになり、そのたびにあの引っかかれるような痛みを思い出す。
「うわあ、すごい熱」
皓也は俺の額に手を当てて顔をしかめた。燃えるように熱い額に、彼のひんやりとした手は心地よかった。
「ちょっと待ってて、今タオル持ってくるから」
皓也はそう言って立ちあがり、部屋を出て行った。皓也の手が離れたとたんに、また額は熱に侵食される。またしても眠ってしまいそうだ。
しばらくすると、皓也が洗面器を両手で持って部屋に戻ってきた。氷が浮いた洗面器にはタオルが沈んでいる。
「きもちい……」
ざぶざぶと水音がして、頬に水滴が飛ぶ。皓也はタオルをぎゅっと絞り、丁寧にたたんで俺の額に乗せた。
「何か食べられそう?」
「ん……なんか、あったかいもの……」
「あったかいもの……。――ん、分かった。ちょっと、待ってて」
皓也は少し考えていたが、何かを思いついたらしく腰を上げた。
「寒い?」
立ち上がりながら皓也はこちらを向いて訊いた。
「……少し」
夏なのに布団を被って、それでもまだぞくりと寒気がする。なのに、パジャマには汗でじっとりと湿っていた。
「そっか……。暖かくして寝てて」
皓也は乱れた布団を直して俺の頭をポンポンと撫で、今度こそ立ち上がって部屋を出て行った。風邪というのは疲れるらしい。途端にまぶたが重くなってきて、俺はいつしか寝入っていた。
ふっと目を覚ますと、何かの良い匂いがしてきた。――皓也、何作ってくれたんだろう。一時間ほど眠っていたのだろうか、枕元の時計を見ると午後の三時だった。
「陸玖、できたよ」
部屋のドアがガチャリと開いて、皓也がお盆を手に入ってきた。ほかほかと湯気を立てるお椀は、出汁の優しい匂いを漂わせている。
お椀の中身は卵が入ったお粥だった。食欲なんてこれっぽっちも感じなかったのに、皓也の作ったおかゆを前にすると不思議と口の中に唾が沸いた。
「あ…りがと……。おいしそう……」
俺はそう言って木のさじを手に取る。少な目にすくって口へ運ぶと、出汁と卵の優しい味がした。
「おいしい……」
おかゆを飲み下して思わずつぶやく。二口目をすくおうとしたが、手に力が入らずにさじがお盆の上に落ちた。
「あ…ごめん……」
拾おうとするのを制して、皓也は軽く息を吹きかけてそのさじでおかゆをすくった。
「口、開けて」
言われるがままに口を開けると、口元におかゆのすくわれたさじが差し出された。
「え……」
「いいから食べ、て」
皓也は少し下を向きながら言った。俺は反射的にに差し出されたさじを口に含む。俺は慌てて自分で食べるからいいよ、と言った。しかし、皓也はいいから、と最後までおかゆを食べさせてくれた。
襟足が隠れるくらいの髪から覗く耳が少し赤くなっていたのはなぜだろう。
「――おいしかったよ」
俺はぼそりとつぶやいた。ほんとうに、おいしかったのだ。俺が覚えている母さんのおかゆよりも、体に沁みるずっと優しい味だった。
「……
皓也は耳まで赤くなって、聞こえないほどの中国語で小さくつぶやいた。おそらくありがとう、という意味だろう。彼は動揺したときなどに、ぽろっと中国語をこぼすことがある。俺は中国語は全然分からないが、なんとなく意味を推測できるようにはなった。
それから皓也は食器をお盆にのせて部屋を出ていった。水音が聞こえてきたので、おそらく洗い物をしているのだろう。
――なんで皓也は、こんなことまでしてくれるんだろう。
ふと疑問が浮かんだが、目を閉じるとまたしても俺は眠りに引き込まれていって、その疑問はよくわからなくなった。
「陸玖」
皓也の声で俺はうっすらと目を開けた。
「あ、起きた。そろそろ帰る。長居しちゃってごめんね」
おかゆを食べたせいなのかさっきよりも熱上がった気がする。頭がズキズキと痛んだ。
「ん……こ…やッゲホッ」
ゲホゲホと咳き込んだはずみに皓也の方に体が向いてしまった。皓也の手のひらに背中を撫でられ、俺は思わず彼のシャツをつかんだ。
「…ッゲホッゴホッ……ごめ…ゲホッ……んッ」
「大丈夫だよ、無理してしゃべらなくていいから」
皓也は咳が収まるまで、ずっと背中を撫でてくれていた。
「ゆっくり休んでてね。
皓也はそう言って、立ち上がろうとした。
「…嫌だ、行くな……」
ひとりになるのが嫌だった。俺は皓也のシャツの裾を力の入らない手で引っ張る。
「え……え?」
皓也は困惑の表情になってこちらを向いた。
「こ…や。行かないでよ……」
すがるように俺は言った。皓也は言われるがままに、また床にすとんと腰を下ろす。
「う……ん。――寝てなよ、ここにいるから」
「うん……」
目を閉じても、俺はすぐには眠れなかった。
「――ランウォーメンフーダォ――イーシェンワーンアーン――」
目を閉じたまま横になっていると、無意識なのだろうか皓也が中国語の歌を口ずさんでいるのが聞こえた。ゆったりとした速度で、ふんわり柔らかい響きの歌。歌っている皓也の顔を見てみたくて俺はうっすらと目を開けた。
「あぁ……ごめんね、起こしちゃった」
「なんて曲?」
「『晩安曲』。おやすみの歌。日本で言うとそうだなあ……蛍の光、みたいな感じの」
「――続けて」
「え?」
「いいから……そのまま、歌って……」
「――ソンソーウージェツォンツォン――ディーイーティエン……」
日本語とは全く違う、はっとするほど柔らかい雰囲気。そこだけ切り取られて別の世界になったような錯覚を感じた。
「ジーデェアファウアイニェンダ――チンニージェンツァーン――」
ああ、なんて美しいんだろう。言葉が違うからだろうか見知った皓也の声とは違い、全く知らない人の歌声に聞こえてくる。
「インガイワンジィェダ――モゥザイリィゥリェン―――ランウォーメンフーダォ――」
皓也はゆったりとそこまで歌って、最初のメロディーに戻った。歌詞は微妙に違うものの相変わらず柔らかい雰囲気だった。
「ワンナァーン ワーアンナァーン――」
サビの部分だろう二回繰り返される「ワンアン」には、すべてを受け入れるような包容力を感じた。――まるで、皓也そのものように。
「ザイシュォーイーシェン――ミンティエーンチェーン――」
最後の一音は、「おやすみの歌」にふさわしく空気に溶けるように消えていった。
「ねえ陸玖。眠れないの?」
「ううん……皓也の声が、きれいだったから」
すると皓也は、少し顔を赤らめてそんなことないよ、とつぶやいた。俺が目を閉じると、皓也はまたさっきの歌を口ずさみはじめた。温かい手が俺の頭を撫でている。
柔らかい歌声に包まれて、俺はいつの間にか意識を失っていた。
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