透明人間になれる少年の物語

お小遣い月3万

透明少年

 些細なことで福島君とケンカになり、いつも三人で帰っている通学路を一人で歩いていた。


 団地と駐車場に挟まれた一本道を歩いていると、後ろの方から福島君と大谷君の喋っている声が聞えた。

 後ろを振り返ると二人が楽しそうにボクの方に向かって歩いて来ている。どうやら彼等はボクのことに気づいていない様子だった。

 なぜか二人が楽しそうに喋っているのを見ているとイライラして、イジワルをしたい気持ちになった。ボクは悪い人間なのかもしれない。人を傷つける。悪い人間だとわかっていてもイライラした。


 透明人間になったらダメよ、とママに言われていたけど、車の陰に隠れて透明になった。透明になるとボクの存在は透けた。透けるとボクの存在が見えなくなる。


 黒光りしているランドセルを降ろし、学校規定の白色の帽子、着ていた半ズボンとTシャツ、パンツや靴まで脱ぎ、裸になった。服は透明にならないからいちいち脱がなくてはいけなかった。


 脱いだ服とランドセルは車の下に隠し、彼等が来るのを待った。彼等はボクが待ち受けていることにも気づかず、トコトコとボクの方に一歩ずつ近づいてきた。


 彼等がボクを通り過ぎるとバレないように息を潜め、二人の後をついて行った。

 二人の白色の帽子がクラゲのように規則正しく歩行と一緒にユラユラと動く。二人が話している会話の内容を聞くため耳をすませた。

 福島君はボクのことを話していて、それはどうやらボクの悪口だった。

 彼の話す一言、一言が怒ったハリセンボンを投げつけられたかのように胸が痛んだ。


 彼の話しを聞いているうちに、ボクの怒りにダイナマイトのような火力の強い火がつき、どうしても殴らないと気がすまなくなった。手加減なんてする気にはなれなかった。拳をギュッと強く握ると福島君の帽子を思いっきり、カチ割るように殴った。

 石を殴ったような痛み。骨が折れたんじゃないかと思ったけど、恨みを晴らした充実感を味わうことができた。


 殴られた福島君は急にきた激痛に頭を抱えてしゃがみこみ、「う~」と苦しそうに唸った。


 あんなに強く殴って大丈夫だったのだろうか? 

 もしボクのせいで福島君が死んでしまったら。そんなことを考えると充実感が後悔に変化し、殴る前の時間に戻してほしいと思った。

 ボクはその場を立ち去り、服を置いた車までの数メートルの距離を戻った。


「大丈夫?」

 と心配そうに大谷君が福島君に尋ねているのが聞えた。


「大丈夫なわけないだろう!」

 と福島君が力一杯の声を出して怒鳴った。


「お前、殴っただろう?」


 振り返って二人の様子を見ると、福島君が大谷君の胸倉を掴んでいた。


「そんなことしてないよ」と大谷君が言った。


「ウソつけ」

 福島君が拳を握って、大谷君の頬を殴った。


 殴られた大谷君は女の子みたいなポーズで倒れこみ、なにがなんだかわからない様子で、頬に手をあてていた。


 福島君の怒りはそれだけでは収まらなかった。倒れている大谷君の脇腹に、もう一発蹴りを入れた。

 大谷君はクシャクシャな紙のように顔を歪めた。


「なにをするんだよ」

 そう言って大谷君は苦しそうに立ち上がり、福島君に飛び掛った。


 ボクは彼等を止めることもできずに、ただ恐怖を感じていた。

 恐怖は一瞬で和らぎ、逃げようと思った。

 車の下に置いてあった服やランドセル等を手にとり、全力疾走で走って学校まで来た道を戻った。

 

 この時にボクのことを見ていた人は服が浮いていると思って驚いたことだろう。

 そして色んな人にこの現象を語り、バカにされるだろう。そんなことを思うと「ごめんなさい」と謝りたい気持ちになったけど、この場所から一刻も早く逃げたかった。


 彼等が見えなくなると服を着て帽子を被り、ランドセルを背負って普通の小学生に戻った。

 そして遠回りになるけど違う道からトボトボと家に帰った。イヤな気持ちだった。


 ボクが住んでいるアパートの三階に上がると、胸から汚れてヨレヨレになった黒の紐を取り出し、先端についているカギで家の扉を開けた。


 大概の鍵っ子がそうであるように家の中には誰もいない。家にママがいてくれたらどれだけボクは救われただろう。もしママがいたらボクはママの胸に飛び込んで泣くのに。泣いたらイヤな感じも目玉から零れ落ち、何もなかったことになるのに。


 ボクの家族はママ一人だけだった。ボクが五歳の時にパパが家に帰って来なくなった。パパが家に帰ってこないことをママは『大人の事情』と言った。


 ボクは大人の事情が大嫌いだった。そんなもの世の中からなくなればいいのに。そうなればパパとママの三人で楽しく暮らせるはずなのに。だけど大人の事情が世の中からなくならないことをボクは知っていた。大人の事情は説明するのがイヤだから使う言葉であることぐらいボクも知っているよ。


 パパがいたら、ボクはパパの筋肉質の足にしがみついたり、色んな話をしたり、そして笑い合ったりするのに。二人で笑い合えば、ママも笑って、ボクは幸せな気持ちになるのに。昔みたいに三人でいたら、オジサンだって家に来なくもなるだろうし。

 そしたらボクはイライラせずにすんで、今日みたいに福島君を殴ってイヤな思いもすることもなくなるのに。


 テレビのない奥の部屋に入り、前の部屋と区切られている襖を閉めた。その部屋でボクは呆然と立ち尽くし、思いついたかのように床の上に寝転がった。


 こんな日はパパに会いたいよ。

 福島君、殴ってごめんね。

 だけど、福島君がボクの悪口を言ったから悪いんだよ、もし福島君がボクの悪口を言わなかったらこんなことにはなっていなかったはずなのに。 


 そんなことを思って、言い訳をしている自分がイヤになった。イヤになったら何もかもイヤになった。

 

 ずっとボクは床の上に寝転がっていて、時計のカチカチという寂しい音を聞いていた。

 どんなに時間が経ったかわからないけど、ドアが開く音がして、ボクは襖を開けて玄関に向かって走った。

 そして玄関に立っているオジサンを見て、足を止めた。イヤな感じ。

 ママはオジサンの後ろに立っていた。なんでまたオジサンがボクの家にやってくるんだよ。

 だけどママの顔を見て安心した。ママはイヤな感じを吸いとってくれる効果があった。


「おかえり」とボクがオジサンの後ろにいるママに言うと、「ただいま」とオジサンが言った。


 オジサンになんかに「おかえり」って言ってないのに、返事をするな。


 その後にママが「ただいま」と言った。


「すぐにご飯を作るからね」

 とママ。


 ボクは小さく頷いた。


 ママが家の中に入るのを待って、同じ歩行で玄関の隣にあるキッチンの前に立った。

 オジサンは居間として使っている手前の部屋に入り込み、ボクがいつも座っているテーブルの前に座った。


 ママが持っていたスーパーの袋をキッチンの上に置き、中を覗きこみながら今日のオカズになる物を取り出した。ボクがその一連の姿を見ていると、ママはボクの方を向いて、「座ってテレビでも見ときなさい」と言った。

 その言葉はオジサンが座っているテーブルの前に行きなさいという事を意味していた。

ボクは横に首を振り、ママの後姿を見つめた。


 コンコンコンとか、チンチンチンとかいう音をさせながら、ママが料理を作り始めた。ママの料理を作る音が好きだった。手前の部屋からはオジサンがつけたテレビの音が聞えた。オジサンが見ているテレビの音が嫌いだった。勝手に人の家のテレビを見るな。


 ママが料理を作り終わると、皿に盛ったオカズを僕に渡して、「テーブルの上に持って行って」と言った。

 ボクは働き蟻のように、何度かキッチンとテーブルとの数メートルの距離を往復した。


 全部の皿をテーブルの上に置くとママがテーブルの前に座った。小さなテーブルで、一辺が一人分しかなかったけど、無理矢理ママの隣に座った。

 

「おかしな子」とママが言った。


 テレビでは見たくもないニュース番組が流れていた。ボクはテレビも見ずにご飯を口の中に運んだ。


 オジサンが臭そうな口を開いて、ボクに喋りかけてきた。

「今日は学校どうだった?」


 オジサンは家に来るたびにこんな質問を繰り返した。ボクは首を横に振って「あんまり」と答え、ご飯とオカズを口の中に運ぶという単純作業を繰り返した。

 これ以上オジサンには学校でのことを聞かれたくなかったし、オジサンに喋りかけられるのもイヤだった。


 だけどオジサンはしつこくボクに質問してきた。

「あんまりって?」


 ボクはあからさまにイヤな顔をして「つまらなかったってことだよ」と答えた。


「このコロッケおいしいわね」とママが会話を中断させるように言葉を発した。


 ママの言葉にポクリと頷いた。


 だけどオジサンはママの言ったことなどお構いなしで、ボクに質問を繰り返した。


「ケンカでもしたか?」


 ボクはほとほとオジサンのしつこさがイヤになり、オジサンの話を聞いていないフリをしてつまらないニュース番組を見つめた。


「カズヤ、オジサンが話をしているんだから、ちゃんと聞かないとダメよ」


 ママがオジサンの肩を持っていることもイヤで、胸が苦しくなった。


「ケンカはダメだぞ」とオジサン。


 どうしてこんなにもあからさまに嫌がっているのに気づかないのだろうか。そのことにもボクは苛立った。


「勘違いしないでよ。ボクはケンカなんてしてないよ」

 オジサンにイヤな事をぶり返されてムカついた。だから怒鳴るようにして言った。


「カズヤ!」とママが怒鳴った。「そんな口の言い方ないでしょう」


 なぜママがボクのことを叱るのかについても、ボクは苛立ち、悲しくなった。


 オジサンがボクに喋りかけなかったら、ボクはママに叱られることはなかったのに。

 静かにご飯を食べ終えると、ママに言われて全部の食器を台所に運んだ。


「先にお風呂に入りなさい」

 とママに言われたので、「うん」と頷き、脱衣所に行き、服を脱いだ。


 他の家のお風呂がどんなお風呂なのか知らないけど、ボクの家のお風呂は虫箱のように窮屈だった。

 オジサンの来た日は家の中が住みにくい。だから窮屈なお風呂場がボクの空間だった。


 シャワーを少し浴び、空の湯船の中に入り、蛇口を捻った。ジャーっと流れるお湯を手で切ったり、顔にかけたりしながら考えた。

 福島君のこと、大谷君のこと、オジサンのこと。


 オジサンのことを考えてイヤな気持ちになり、福島君のことを考えて後悔し、ボクのせいで殴られた大谷君のことを考えて申し訳ない気持ちになった。

 頭の中でそんなことをグルグルグルグルと考えていたら、いつの間にか湯船が肩まで溜まっていた。蛇口を閉めて、湯を止めた。


 湯船から上がると威力の弱いシャワーを浴びて髪や体を洗った。いつもならそれであがるのだけど、オジサンが家の中にいると思うと憂鬱な気持ちになり、また湯船の中に入ってグルグルグルグル。


 手がフヤけた頃にママの声が遠くの方から聞えた。


「カズヤ。お風呂から上がってきなさい」


 大声で「うん」と返事を返し、お風呂から上がった。


 脱衣所に設置されている洗濯機の上にはバスタオルとパジャマが置かれていた。

 ママが用意してくれたのであろう。そのタオルで体を拭き、パジャマを着た。


 部屋に入るとママが僕の顔を見て、

「上がってきたよ。先に入って」とオジサンに言った。


「服、用意しといて」とオジサン。


 ここはお前の家じゃない。


 オジサンは立ち上がり、ボクと入れ替わりでお風呂に入った。


 ボクはキッチンに行き、半透明のプラスティックのコップを手にとって蛇口の水を注いだ。

 小さな歯ブラシにカライ歯磨き粉をつけ、歯を磨いた。

 歯を磨き終わるとコップの水を口の中に入れ、クチュクチュ、ぺ。

 歯ブラシを元の場所に戻し、コップを手で洗ってから元の場所に戻した。


 ボクはママのいるテーブルの前に座った。ママが僕の一連の仕草を見つめていた。


「カズヤ」

 ママがボクの名前を呼んだ。


「なに?」

 ママの目を見つめた。真剣な目だった。


「オジサンと仲良くできないの?」


 ボクは言葉が出なかった。


「オジサンと仲良くしてくれる?」


 頷くしかなかった。なんだかわからないけど泣きそうだった。

 オジサンなんて嫌いだったし、それに、ずっと心の奥の方でオジサンを受け入れるとパパを否定しているような気がしていた。

 パパを否定しているということは三人で過した時間、これからもし、パパが家に帰って来た時、三人で過す時間を否定するような気がした。


 泣いたらダメだと思い、テーブルの上の一点に集中させた。

 泣いたらママはなんて思うだろうか。きっとイヤな思いをするだろう。

 ママがイヤな思いをするのはイヤだ。ボクはどうしたらいいかわからなかった。


「本当にオジサンと仲良くしてくれるの?」


「うん」


「ありがとう」とママが嬉しそうに言った。


 ボクは足の指をクネクネさせた。


「もう寝るね」

 ボクは呟いた。


「そうね」

 ママが言った。


 ママなんて嫌いだ。そう思った。だけど嫌いじゃないんだ。嫌いじゃないけど、嫌いなんだ。 


 立ち上がって奥の部屋に行った。僕にはかなり重たい布団を押入れから取り出し、ママが布団を取りに来た時のために押入れから離れて布団をひいた。


「おやすみ」

 そう言って、部屋と部屋を区切る襖を閉めて、電気を消した。


 電気を消しても部屋は真っ暗闇にならなかった。隣の部屋や、外の街灯から光が漏れているせいだ。ボクは布団の中に潜りこみ、枕を抱き締めて声を殺すように泣いた。


 パパのことを思い出した。昔のママのことを思い出した。三人で過した日々のことを思い出したら涙が溢れて止まらなかった。


 戻りたい。戻りたいよ。戻りたい。戻れないの? なんで? 大人の事情。


 オジサンがお風呂から上がってくるのには気づいた。ママの声がして、オジサンと会話している。

 オジサンなんていなければいいのに。そんなことを考えていたらボーっとしてきて、考えていることや聞えている音が重なりあって眠っているか眠っていないのか曖昧になった。

 たぶん眠ったのだろう。


 何時間眠ったのかわからないけど、遠くの方で音がした。聞きなれない音だ。ボクはその音を辿るように目を開けた。


 よくよくその音を聞いていると声だった。声は隣の部屋から聞えた。

 部屋を見渡すと、いつも隣で寝ているママがいない。オジサンが来た時は、オジサンと一緒に隣の部屋でママは眠った。


 一人ぼっちになったような気がして寂しくなった。オジサンはボクからママを奪う。オジサンなんて嫌いだ。オジサンとなんて仲良くできるわけがない。


 声は言葉ではなく、ア、ア、アと不思議な音をさせていた。ボクはその声を辿るようにして、区切られている襖を少しだけ開け、隣の部屋を覗きこんだ。


 隣の部屋では薄暗闇の中、オジサンがママの上に乗っかり、クネクネと波のように布団が動いていた。


 オジサンがママを盗んでいくような気がした。ママがボクから離れていくような気がした。オジサンに対してボクは苛立った。


 イライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライラ。


 

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