恋愛小説

彼方灯火

第1話 開演の日

 マンションの前の庭園で、少年は少女が来るのを待っていた。庭園といっても、さして広大な空間ではない。植木に四方が覆われ、二三のベンチが設置された簡素な空間で、似たようなエリアがいくつか設けられている。背後に駐車場があり、そのさらに後ろにマンションがあった。ここは標高が高いから、駐車場の縁まで行けばその先に広がる森を見下ろすことができる。左手に唯一の道路。この辺りは、かつて山だった場所を切り開いて作られている。


 高校の授業が終わって、少年は少女よりも一足先にいつもの場所にやって来た。少女というのは幼馴染みのことで、彼と同じ高校に通っている。ただしクラスは異なる。授業が終わるとこの場所にやって来て、他愛のない時間を過ごすのが二人の日常だった。他愛のない時間を過ごしている最中は、それを他愛のないものだと思うことはない。高級品に共通する特徴といえる。


 空は灰色に染まっている。頭のすぐ上に雲が浮かんでいた。少なくとも、彼にはそういうふうに見える。空気は比較的澄んでいるように思えた。すぐ傍を道路が走っているが、この場所は一本裏道に入った所に位置していて、都市的な要素よりも、森の方が勢力がずっと大きいから、そちらの方の影響を受けやすい。


 鞄から本を取り出して、それを開く。


 小説。


 誰かを待っている時間というものは、案外貴重なものではないかと少年は考えている。彼にとっては、それは日常の中に組み込まれた当たり前だが、その日常の中においても、今のこの時間以外には存在しない。授業の時間になっても現れない教師を待つということはあるが、それは自分一人で待っているわけではない。信号機が青になるのを待つのと同じだ。


 誰かのために、自分一人で待っている。


 誰かを待っていると、自分に負い目がないか、確認したくなる。


 自分のせいで、相手が来ないかもしれない、と思うようになる。


 そして、それが、単なる思い込みであることを認識し、来ないはずはないと自分に言い聞かせて、自然な体を装って再び待つ姿勢をとることになる。


 その、繰り返し。


 小説のページを捲る。


 風が吹いて、前髪が目もとにかかった。なんとなくくすぐったくて、顔を振ってそれを退かす。本のページがあらぬ方向に勝手に捲れるのを、片方の手で押さえる。


 足もとを駆け回る、木の葉。


 目だけで、風の行く先を追う。


 なんとなく、感じていた、気配。


 すぐ傍に、人の影。


 少年は顔を上げる。


 大きめのブレザーをはためかせ、少女がそこに立っていた。


「待った?」彼女が言った。


「いいや、あまり」少年は答える。「とりあえず、寒い」


「何、とりあえずって」


「別に」


 少女は少年の隣に座る。もともとスペースがあったから、彼が場所を空ける必要はなかった。


 待ち合わせの相手がやって来ても、少年は本を読むのをやめない。やめる必要がないと考えている。もちろん、やめろと言われればやめるつもりだった。そのくらいの気遣いは心得ている。


 少女は背負っていた鞄を自分の膝の上に載せ、チャックを開けてその中に手を入れる。


「クッキーを作ってきた」彼女が言った。「食べる?」


 少女が持っているタッパーを目だけで見て、少年は答える。


「うん」


 少女が差し出したクッキーを受け取って、少年はそれを食べる。感想を訊かれたから、美味しい、とだけ返した。それで少女はにこにこ笑っている。見慣れた表情だから特別感慨深いとは思わないが、彼女の表情を見ていると、なんとなく喜ばしいような気がしないでもなかった。


 少女が手を伸ばしてきて、本を読んでいる彼の手にそっと触れる。


 冷たさと、温かさ。


 相反するからこそ引き合うのかもしれない。


「数学のテストが返ってきたけど、散々だった」少女が話した。「ちゃんと勉強したつもりなんだけどなあ……。私って、勉強の才能、ないのかも」


「勉強は、才能じゃない」


「先生も言ってたよ、そんなこと」そう言って、少女は頬を膨らませる。「でもさ、絶対才能も関係あると思うんだ。だって、全然勉強してないのに、できる人だっているんだから。ほんと、不公平だよね、世の中って」


「その分、ほかの才能があるんだ、きっと」


「ほかって、たとえば?」


「料理の才能とか」少年は、手に持っていた囓りかけのクッキーを振って、示す。「これとか、美味しいから」


 彼の言葉を聞いて、少女は笑う。小説を読んでいる振りをして、少年は目だけでそれを見た。


「まあ、どうでもいいか、そんなこと」少女が呟く。


「どうでもいい」


 目を閉じて、少女が身体を寄せてくる。


 接触。


 バランスをとるために、彼も少しだけ、重心を、横に。


 それで、安定。


 空気は依然として冷たいままだ。もうすぐ冬になる。湿った空気が山の方から吹いてきて、足もとに散らかった落ち葉をまたかさかさと揺らした。


「今度さ、どこか行こうよ」少女が言った。


「どこに?」少年は尋ねる。


「どこでもいいけど、どこか」


 少年は小さく頷く。


「どこがいい?」少女は閉じていた目を開け、少年に顔を近づけた。「私ね、沖縄に行きたい」


「遠い」


「でも、ちょうどいい季節だよ、きっと」


「何が?」


「観光するのに」


「北海道でもいいような気がする」


「寒いよ」


「どうせなら、寒い方がいい」

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