第22話 もう子供じゃありません
「ブラッドさん」
朝食を終え、神殿の自室に戻ったレイチェルが声をかけた。
「食事はどうしているんでしょう?」
自分の血を吸ったのは一回だけ……あれで足りるのかしら?
ブラッドは棚からグラスを取り出し、そこへ赤い液体を注いだ。
「……腹が空いたら、適当に魔獣を刈るよ」
「獲物は人間じゃなくてもいいんですか?」
「いや、人間が一番うまいんだけど……」
ちらりとこちらを見る。ため息?
「殺さないように摂取が難しいから、避けてる」
そうね、自分から血を提供してくれる人を見つけないと、騒動の元だわ……
「私の血はどうでしょう?」
レイチェルがそう口にすると、ブラッドが手にしていたグラスがガシャンと落ちた。染みを作ったのは赤い液体だけれど、血ではない。多分、ワインだろう。ブラッドにまじまじと凝視され、レイチェルは首を傾げてしまった。
もの凄く驚いている? じっとこちらを凝視したまま動かないわ。もしかして、必要ないとか? それとも、以前口にした私の血が美味しくなかったのかしら……
レイチェルがおずおずと言った。
「あの……嫌なら無理にとは」
「いやいやいやいや、そーいう勘違いはいらないから!」
ブラッドがすかさずそう叫んだ。
勘違い?
気が付くとブラッドが目の前にいて、ぐっと引き寄せられている。移動が素早い。瞬間移動したかのようだ。いや実際、霧になって瞬時に移動したのだろう。
「その……ヴァンパイア・キスだよな? いいのか?」
もの凄く嬉しそうである。ぐっと抱きしめられるようにして顔を寄せられ、レイチェルの鼓動が早くなった。キスができそうな程の距離だ。
あ、あの、とっても近いわ。もうちょっと離れ、は無理よね。首から吸血するんですもの。思わず身を引こうとして、レイチェルはそれを止めた。
こうしてみると、ブラッドの容姿は恐ろしく蠱惑的だ。人にはない魔性の魅力とでも言うのだろうか、血のように赤い瞳も唇も、危険をはらんで美しい。抗えない不可思議な引力だった。触れれば皮膚が切れ、血を流しそうなその感触が、かえって魅力的である。
そ、そんなにお腹がすいていたのかしら? もの凄くがっついているように見えるわ。
「ええ、いいですよ? 貧血をおこさない、程度、なら」
そろりとそう口にするも、次の瞬間、レイチェルは目を見開いた。ブラッドの顔が首筋に埋められた途端、甘美な刺激が体を駆け抜けたからだ。
あ、んん……
そ、そうだ、忘れてた。ヴァンパイア・キスってもの凄く気持ちいい……。これだと普通にブラッドさんに首筋にキスされているのと変わらない。こ、これで噛み付いてるの?
「ほんっと可愛い」
とろりとしたレイチェルの思考に、そんな言葉が滑り込んでくる。
ぽわんと虚空を見返せば、赤い輝きが目に飛び込んでくる。赤い、血のようなブラッドの瞳だ。普通なら恐ろしく感じるはずのそれすらも今は甘い。思考まで麻痺しているかのよう。見下ろされている? ふっと唇に甘い感触が……
ついばむようなそれが、深くなりかけた瞬間、熱い何かが舌に絡まりかけたその時、ドアをノックされてレイチェルは飛び上がりそうになった。実際はまったく動けなかったのだけれど。とろとろとした夢の中にいるみたい。
レイチェルがぽわんと天井を見ていると、覆い被さっていたブラッドが身を起こした。
「ちっ……いいところで……」
ブラッドさん、舌打ちは止めた方が……そうか、私、ソファに押し倒されていたのね……天井を見ながら、そんなことをぼんやり考える。体にうまく力が入らない……
――安易にヴァンパイアに血をやろうなんてするなよ? もし、ヴァンパイアが殺す気で吸血しても、逃げられないからな?
これだと、確かにそうかも……心臓がドキドキ言っている……
緩慢な動作で身を起こし、レイチェルはブラッドの背を追った。
レイチェルの部屋にやってきたのは、三人の女性だった。どの人も妙齢の美しい人……何の用だろう? 身に着けている服が聖職衣ではなくドレスなので、どこぞのご令嬢なのか、それとも聖女なのかの見分けが付かない。ソファに腰掛け、美女の一人が言う。
「その……血の提供をしにきました」
血の提供……わざわざ神官様が派遣してくれたのかしら? 聞くと、全員志願したという。
「血を提供してくれるのなら、献血パックにしてくれ」
帰れとブラッドは素っ気ない。でも……
レイチェルが言い添えた。
「あのう、私一人では、足りないのではありませんか? せっかくなので、彼女達からも血を分けてもらったらどうでしょう?」
親切な人達の申し出だと、この時のレイチェルは安易にそう考えた。
だって、知らなかったから……ヴァンパイア・キスが一体どういった意味をはらんでいるのか、なんて……女性がそれを望む場合、なにを目的としているのか、なんて……
でも、無知は罪よね。ごめんなさい、ブラッドさん。この時の私はきっと酷いことをしていたんだわ。だから、感じた胸の痛みはその報い、罰だったのかも……
ブラッドが困惑気味にレイチェルを見た。
「分けてもらったらって……」
美女の一人が勢いづいて言う。
「そ、そうですよ。ほ、ほら! 直接吸血した方が新鮮ですわ!」
「全員健康体です。きっとお気に召すかと……」
「遠慮せず、どうぞ」
ブラッドが疲れたように言う。
「レイチェル、君は、気にならねーのか? 俺が他の女を吸血しても……」
「え? はい」
レイチェルは軽く答えたものの、ブラッドの反応に戸惑った。酷く傷ついたような、落胆したような表情で、どくんと心臓が嫌な音をたてる。
どうしたのかしら? お腹がすいているのなら無理せず、親切な方に分けて貰った方がいいと思ったのだけれど、違ったのかしら? ブラッドさんの表情が暗い……
レイチェルは狼狽えた。なにか不味いことを言ったのだと理解出来ても、どのへんが不味かったのか分からない。
「……分かった、来いよ」
ようようブラッドがそう言うと、三人の女達がきゃあと歓声を上げた。
いいことをした、はず、そう思ったのだけれど……まさかこの後、死ぬほど後悔する羽目になるなんて思いもしなかった。今回も前回も、噛み付かれたのは自分だったから、分からなかった。知らなかった……噛み付かれた女性がどうなるのか、なんて……
ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう。嫌なのに、目が離せない。これだとどう見ても、ブラッドさんが他の女性と睦み合っているみたいに見える。体をあんなに密着させて……
でも、舌が張り付いたみたいに動かない。
やめてと言いたいのに言えなくて……
他の女性が発する甘い声が嫌でも耳に滑り込んでくる。心がぎしりと嫌な音を立てた。
「次、私よ!」
一人目の人が倒れると、綺麗な女の人がブラッドさんに喜んで抱きついて……嫌よ嫌……三人目の女性が倒れてもその場を動けなくて、がくがくと震える体を必死で支えて気がする。
「レイチェル?」
名を呼ばれて、びくりと震える。顔を上げれば、困惑するブラッドと目が合って……
口が赤い。そうよ、ね。吸血したんだものね。
「なんで泣くんだよ? 君がやれって……」
「だ、だって……嫌……」
「嫌? なんだよ、今更……」
ブラッドが乱暴に口元をぬぐう。明らかに不機嫌そうだ。
「相手を殺さないヴァンパイア・キスは求愛だっての! そんくらい知ってるだろ!」
叩きつけるようなブラッドの言葉に、レイチェルはびくりとなった。こんな風に声を荒げた彼を初めて見た気がする。
彼は、そうだわ……一度も私に対して怒ったことなんてなかった……
「噛み付いた相手を殺すか生かすかで、意味が違ってくるんだよ! 殺す場合は獲物! 殺さない場合は求愛! けど、神殿の女を殺すわけにもいかねーし、どうしたって今回のようなケースは、求愛になっちまう! ほんっと勘弁してくれよ。女が自ら血を提供なんてする場合は、抱いてって言っているも同然なのに、なんでよりにもよって君が……君がやれって言うからやけくそで……」
ふっとブラッドの言葉が途切れる。
赤い瞳がレイチェルの金色の瞳と交差した。
「……まさか、知らなかった? ヴァンパイア・キスは性愛に通じるって……」
涙が止まらない。何かを言おうとしても言葉にならなくて、レイチェルは背を向け駆け出した。
「ちょ、待て!」
隣の部屋に入って、ガチャリと鍵を掛けると、どんどんと扉を叩く音がする。
「待て、悪い。知らないなんて思わなくて、これっくらい俺達にとっては常識だから……レイチェル、レイチェル、ここを開けてくれ、頼む!」
必死の声に心が痛んだけれど涙は止まらなくて、体は動かなかった。
ブラッドさんなら鍵を外さなくても、扉を開けなくても、入ってこようと思えばきっと出来る。でも、やらないんですね……私の意志を尊重して……
どれくらいこうしていただろうか。なんとか気持ちが落ち着いた頃、のろのろと鍵を開けると、勢いよく扉が開いた。
そこには、ほっとしたようなブラッドの顔があって……
何故だろう? 彼の顔を目にした途端、止まった筈の涙が一つ二つとまた溢れた。安堵感のようなものと胸の痛みがごちゃ混ぜになって、自分でも自分の感情がよく分からない。
ブラッドの大きな両手が、レイチェルの頬を包み込んだ。
「ほんっと悪い。ほ、ほら、君が吸血していいなんて言った後にあれだったから、なんでだよって、腹が立って、つい、見せつけるような真似を……。ちょっとでも好きにってくれたんだって舞い上がった後だったからよけいに。そ、そうだよな、君はまだ子供だから、他意はなかったって考えた方が良かったんだ」
「……子供、じゃ、ないです……ちゃんと成人、してます」
涙は止まらないけど……
「そうだな、子供じゃない。頼む、泣かないでくれよ……」
抱きしめられて温かい。
「今度は普通に噛み付いて追い返すよ。ヴァンパイア・キスなしで噛み付けば、魔獣に噛み付かれるのとさして変わらない。二度と近寄らないはずだ」
「……痛いのは駄目です。そのまま帰してあげて下さい」
「分かった、そうする」
再度抱きしめられて、レイチェルはゆっくり目を閉じた。
温かい……不思議なほど安心している自分がいる。揺り籠に包まれているような感覚だ。ごめんなさい、ブラッドさん……レイチェルは最後にそう呟いていた。
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