第9話
エイデンとの婚約解消が正式に認められた翌日、サンドラは自身を囲んでくる学生たちをかわしながらいつもの中庭へと向かった。
「マチルダ様ー!」
呼びかけて、サンドラは笑顔でマチルダへと駆け寄る。すると、読んでいた本から顔を上げたマチルダの目が微かに見開かれた。
「……その見た目、久々ね」
「はい。今日は朝時間がなかったので、ほぼすっぴんで来ました」
「ふうん……ま、そんなあんたもいいわよね」
マチルダの言葉に、サンドラは飾り気のない笑みを浮かべて「はい!」と頷く。
「私もそう思います。お化粧したり、髪をアレンジしたりするのも好きだけど、そうじゃない私も好きです」
今日は久々に髪を後ろで結い上げただけの装いで学院にきたが、今の地味な自分も、サンドラは嫌いじゃなかった。この方が可愛いとは思わないが、これはこれでいいじゃないと思えた。
それに、マチルダもそう言ってくれるような気がしたのだ。
「……ちょっと、あんたなにニヤニヤしてんのよ、気持ち悪いわね」
「マチルダ様だったら今の私でも良いって言ってくれるだろうなって予想が当たったのがうれしくて」
「なに意味わかんない予想してんのよ。そんなの当たり前でしょ。人間なんて、自分の好きな格好してるのが一番なんだから」
そう言うマチルダは、いつも通り派手で美しいマチルダだ。マチルダはいつも化粧や髪のセットを怠らない。
けれど、彼女は身だしなみに興味のない他の女性たちを見下したり、馬鹿にしたりすることは一度もなかった。人それぞれ好きなことや興味のあることがあって、マチルダの場合はそれが自分を飾り立てることだった──ただそれだけなのだという。
「なんにせよ、あんたのあの『第二のマチルダ様』とかいうわけわかんない演技をこれからは見なくて済むと思うとホッとするわ。見てる分には面白いんだけど、私の真似だと思うと複雑なのよね……私あんなんじゃないし……」
「似てませんでしたかね?」
「似てないわよ」
ジトっとした目で睨まれても、サンドラは怖くなかった。マチルダが噂のような、高飛車で嫌な女ではないと知っているからだ。
最初はマチルダのような気の強い女を目指して振る舞おうとしていたが、気付けばサンドラは普段の自分のまま、自分の意思をちゃんと示せるようになっていた。
もちろん、そうできるようになったきっかけはマチルダだ。サンドラはマチルダとの出会いに感謝している。もしかしたら、運命だったのではないかとすら思った。
マチルダが腰掛けるベンチの隣にサンドラも座り、にこにことマチルダの横顔を見つめる。
友達……というと馴れ馴れしい気もするが、サンドラはマチルダに感謝していたし、彼女のことが大好きになっていた。噂通り気は強いが、それでも悪い人じゃない。あの日泣いていたサンドラに声をかけて助けてくれたことを思えば、どちらかというと困っている人を放って置けないタイプなのだろう。
サンドラが変わらずにこにこしていると、マチルダは小さくため息を吐いて本を閉じた。
「……ま、婚約解消おめでとう、とは言っておいてあげるわ。とりあえずね」
「はい。ありがとうございます」
「……あいつ、婚約解消の理由を自分のせいだってちゃんと周りに説明してるらしいわね。……だからって、あんたが許す必要もないとは思うけど」
マチルダの言葉にサンドラは小さく頷き、力なく笑う。
多少揉めたが、あちらが先に婚約解消を持ちかけてきたこともあり、サンドラとエイデンの婚約は両家合意のもと解消となった。一月もかからなかったのは、エイデンが自分の両親を説得してくれたからなのかもしれない。
……あの日、頭を下げて謝罪したエイデンを見たときはサンドラも少し胸が苦しくなった。
正直、サンドラは今でもこの選択が正しかったのかはわからない。許してあげればよかったのではないかと、そんな考えが頭をよぎることも時々ある。
けれど、エイデンへの懐疑心を持ったまま彼と結婚して、苦しむなんてごめんだった。サンドラの知らないエイデンが、サンドラはどうしても怖かったのだ。
この選択をいつか後悔する日が来るのかもしれない。
でもこれは、サンドラが自分で決めたことだ。エイデンが望んで、それにサンドラが従ったわけではない──そう考えるだけで、幾分か清々しい気分になれた。
「……あんた、これからどうするの?」
「え?」
「もうすぐ卒業なのに婚約者がいなくなるなんて、
「ああ……実は、そっちはそっちでちょっと揉めてて……」
「は? どういうこと?」
サンドラは眉を下げ、おずおずと口を開く。
「私にはユーリスお義兄様という従兄弟がいて、私にとっては本物の兄のような存在なのです……あと数年後に、そのユーリスお義兄様がうちの養子となって、ルーン伯爵家を継ぐ予定だったのですが……」
「ですが?」
「……そのユーリスお義兄様が、私と結婚すると言い出して……」
マチルダの大きな赤い瞳が丸くなった。かと思うと、ケラケラと楽しげに笑い声を上げはじめる。
大笑いするマチルダに一瞬唖然としたのち、サンドラはムッと頬を膨らませた。
「笑い事じゃないですよ、マチルダ様! 私は本当に悩んでるんですから!」
「っ……だってあんた、婚約解消した途端に従兄弟からプロポーズされるって面白すぎるでしょ」
「ユーリスお義兄様が結婚しようと言い出したのは、ここでエイデンと口論になった日の夜です」
「あら、結構前ね。まああっちからしたら養子になるのが婿に変わるだけだし、あんたのこともともと気に入ってたなら丁度よかったのかしらね。あんたの家族もあまり反対してないんじゃない?」
マチルダの言う通り、両親はサンドラとユーリスの結婚に乗り気だ。ユーリスがサンドラに結婚しようと言ったときは『名案だ』と喜んでいた。
事実、信頼している甥っ子が娘の新しい婚約者になってくれたら、両親にとってはありがたい話だろう。後継のことだって、もともと養子にくる予定だったユーリスが婿になって継げばいいだけだ。
確かに、サンドラとユーリスが結婚すればすべて丸く収まる──ただ、ずっと兄のように思っていた人と結婚することに、サンドラは途方もない戸惑いを覚えていた。
「なによ、随分不満そうね? ユーリス・アズライトはかなりの美男子って聞いたけど」
「ええ……確かにユーリスお義兄様はとても素敵な方です……」
でも、サンドラにとってユーリスは本物の兄のような人だった。優しくて、頼りになって、いつだってサンドラの味方でいてくれて……
(もちろんユーリスお義兄様のことは大好きだけど、突然結婚なんて言われても……)
突如かっと熱くなった頬をサンドラは両手で押さえた。
ユーリスは、誰よりもサンドラを愛していると言った。その青い瞳は確かに真摯だったとも思う。
けれど、突然そんなことを言われても「はい、結婚します」なんて返事ができるわけがない。ユーリスのことはもちろん好きだが、幼い頃からエイデンと婚約していたサンドラはユーリスを男性として見たことがなかった。
「その反応、満更でもなさそうね」
「そ、そんなことはありません! 小さな頃から兄だと思っていた人に突然結婚を申し込まれるなんて……私、どうしていいのかわからなくて……」
「うーん、それもそうね……」
サンドラが反論すると、マチルダは顎に手を当てて考えはじめる。
「そのユーリスって人のこと嫌いなの?」
「いいえ」
「じゃあ、好き? 男としてじゃなくて、人として」
「……好きですね」
サンドラの答えを聞いたマチルダは、あっけらかんとした声で「ならいいじゃない」と言う。
「人として好きなら、そのうち男としても好きになれるわよ、きっと」
「そういうものですか?」
「そうじゃない? 人として好きになれない男なんかと結婚したら大変でしょ」
「確かに……」
納得しつつも、本当に自分でいいのだろうかとサンドラの気持ちが揺れる。
ユーリスは優秀な美男子で、社交界の令嬢たちからよく秋波を送られていた。正式にルーン伯爵家の養子になるまでは……と縁談の話は断り続けていたようだが、ユーリスの相手なんて探せばすぐ見つかるだろう。
正直、『なんで私?』という戸惑いが大きい。ユーリスだって、今までサンドラのことを妹だと思っていたはずなのに。
「難しい顔しちゃって」
「だって……」
「別にまだ決まった話じゃないんでしょ? ゆっくり考えなさいよ。あんたの家族なんだから、あんたが嫌がってること無理強いなんてしないでしょ」
「……はい」
「ま、私はあんたはその人と結婚すればいいんじゃないかと思うけどね」
マチルダの言葉に、サンドラは目を瞬かせる。
見透かしたような目をしたマチルダは、大人っぽい表情を浮かべてくすりと笑った。
「だって、確かに困ってはいるみたいだけど、本気で嫌ってわけじゃなさそうだもの」
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