21 帰宅

 伊勢崎邸を後にして、俺は自宅のマンションに戻ってきた。


「はあ、疲れたー……」


 自宅の見慣れた景色を見たせいか、緊張の糸がぷっつりと切れた気がする。


 そもそも自分はご立派な人間でもないのに、伊勢崎さんの手前、年長者兼保護者として気を張っていたのだろう。俺はその場に座りこみたい誘惑に耐えながら、浴室へと向かう。


 まずは風呂だよ。とにかく風呂に入りたかった。


 昨晩は伊勢崎さんに『洗浄クリーン』で体を清潔にしてもらったけれど、やはり風呂に入らないと心身ともにリフレッシュした気分にはならない。


 そうして給湯器のボタンを押してきた後、俺は自室のカーペットに寝転びながら『収納ストレージ』から異世界で得た戦利品である硬貨を取り出した。


 金色に光る硬貨が二十数枚。これは金……なのだろうか。


 まあ仮に金だとすれば、こっちで売ってしまえば結構な儲けになるんだろうなとは思う。しかし金を買い取ってもらうには当たり前だが身分証が必要だし、そのうえ課税対象だ。


 こんな怪しい異世界の金貨をやたらめったら売りに出して大丈夫なものかと不安にもなる。


 そもそも異世界に行けるようになった俺は、この先なにをやりたいのだろう。昨日からの非日常体験で、そのことを考えるのが後回しになっていたことに今更ながら気づいた。


 俺のやりたいことってなんだろう――


『ピコン』


 考えに没頭しようとしたその時、スマホの通知が鳴った。


 チャットアプリのLANEのアイコンにマークがついている。どうやら上司からの業務連絡のようだ。


 面倒だと思ったけれど、見ないわけにもいかないのでさっさとチェックする。


「うげえ……」


 スマホの画面を埋め尽くさんばかりの大量の文字。それは業務連絡というよりも、俺が定時に帰ったことに対する嫌味が大半を占めていた。


 むしろよくぞそこまで嫌味に情熱を注げるなと思わなくもないけれど、上司のように残業してまで会社に貢献してナンボな人間にとって、俺のようにそこそこの仕事をして早々に帰る人間はよっぽどおかしく見えるのだろう。


 とはいえ、考えを改めるつもりもないけどね。お気楽に仕事をして、ゆったりと自分の時間を楽しむ。それが俺の人生の目標みたいなものなのだから。


 そうしていつものように上司のメッセージに適当に返信をしようと文面を考えてる最中、ふと、とある思いがふつふつと湧いてきた。それが思わず口から漏れる。


「そうだ。会社を辞めよう」


 口に出してしまえば、それがストンと胸に落ちた。そうか、俺のしたいことってこれだったのかあ……。


 異世界でなにができるかはまだわからない。けれども時空魔法をつかいこなせば、稼ぎ口のひとつやふたつはあるだろう。定時に帰るだけでも文句を言われるような仕事を続けていく必要はないはずだ。


 しかしそのためにも、一つ確認しなければならないことがあった。


 俺は一人でも異世界にいけるのかということだ。今のところ伊勢崎さんのイメージした場所に移動するという方法でしか『次元転移テレポート』をしたことがない。


 けれどだからといって、俺の個人的な金策に伊勢崎さんを付き合わすわけにもいかない。彼女はお金持ちだし。


 さっそく俺は、つい一時間ほど前までいた荒野を思い浮かべる。


 赤茶色の大地、ゴツゴツした岩場、吹きさらしの風――イメージすると、まるで目の前に存在するかのような現実感があった。もちろん以前は思い浮かべるだけでここまでリアルに感じたことはない。


 これならいけそうだ。とにかく一度試してみよう。


 俺は魔力を発動させながら、イメージした荒野に行きたいと強く念じる。


次元転移テレポート



 次の瞬間、俺は荒野に立っていた。うっかり靴を履き忘れてしまっていたので、いきなり靴下が砂まみれだ。


 どうやらこちらの時刻も夜らしい。やたら明るい月が荒野を照らしているのだが、こんなところにぽつんと立っているのはかなり心細いものを感じる。


 なんだか怖くなってきたので、さっさと帰ることにしよう。トラブルに巻き込まれてはかなわない。


 俺は自宅を思い浮かべながら再度『次元転移テレポート』を試みて――



 すぐに自宅へと戻ってこれた。


 どうやら『次元転移テレポート』のテストは成功のようだ。これなら安心して退職できる。


 ――そう思った瞬間、なんとも心の重荷が降りたような安堵感を覚えた。俺は自分が思っていた以上に会社を辞めたかったのかもしれない。


『お風呂が沸きました。お風呂が沸きました』


 風呂場からメッセージが聞こえてくる。俺は土がべったりついた靴下を脱ぎ捨てると、ウキウキ気分で浴室に入っていったのだった。


 ちなみに上司のLANEは既読スルーした。

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