酒田 雄二【暗転】.2


 何事もないフリをして、きっちり仕事を終わらせた。

 体が無意識に動くくらい仕事を叩き込まれていて良かった。

 余計なことは考えないようにしていても、鳩尾のあたりにグルグルと何かが渦を巻いているようで気持ち悪い。悪寒と動悸が止まらない。

 早く帰ろう、帰りたい。横になりたい。どうしようもない気持ちが、体に重たくのしかかっていた。


 撤退作業を終えてハイエースに荷物を積み込みながら、ガワさんが珍しく心配そうにこちらを覗き込んだ。

「なあ、おい雄二。マジさっきから大丈夫かお前、えらい顔色悪ぃぞ。なんか飯食って帰るか? 奢るからよ」

「……い、いや、今日は大丈夫ッス。誘ってくれたのに、すみません。あんま食欲ねっす」

「……そうか。まぁ……んじゃ、お前今日は直帰していいよ。片付けと日報は俺やっとくから気にしないで休め」

「ホント、すみません」

「いいって事よ。あ、そうだ。これやるよ。さっき機材屋のジジイが寄越したやつ。夜勤の差し入れに酒買ってくるのどうしようもねぇけどよ、こういう時に役に立つぜ。酒飲んでさっさと寝て忘れちまえ、気を付けて帰んなよ」

 重たいコンビニのビニール袋を俺に押し付けて、ガワさんは後ろ手を振って車に乗り込んだ。何だかんだでかっこいい人だ。

 俺はガワさんの車が見えなくなるまで見送って、いや正確にはぐるぐるの頭でぼんやりと突っ立って、テールランプが見えなくなる頃、袋から無意識にストロングのロング缶を取り出して流し込んだ。

 一人になりたい事を察してくれるガワさんの気遣いは有難かったが、最寄りの駅じゃないうえに終電の終わった時間だ。得体の知れないざわつきで落ち着かない体はタクシーに乗れる気もしなくて、缶酎ハイを片手に歩くことにした。





 フワッ、と向かい風が俺を押した。

 こんな夜中でも駅前の線路沿いは止めどなく車が流れて、方々から他人の声や足音、誰かが生きている音がする。

 気付くと目の奥が熱くなるほど、泣いていた。

 酒を飲みながら泣く男が見苦しい等と考える余裕はなく、ただ深夜の風に慰められるようにぼろぼろと涙を零して歩いた。


 血だらけのカードケースを思い出す。

 確かに数日前まで恋人だった愛ちゃんが、小さなカードケースに収まっていた。誰かが向けたカメラに笑いかける彼女の笑顔に、俺は何を思えば良かったのだろう。

 写真を見つけてからずっと動悸が激しくて、首を絞められているかのように苦しい。酸素が足りない気がする。

 気管を広げるように無理矢理流し込んだ酎ハイの炭酸が痛い。


 カードケースの持ち主である「金崎政行」こそが、今日電車に飛び込んだ男で間違いないのだろう。そして単純に考えれば金崎は、愛ちゃんの夫、か。

 ……何も知らずに付き合っていた俺の恋人は既婚者だった?

 だとすると、愛ちゃんが抱いていた子供は、二人の子だろうか。

 そりゃあ、きっとそうだろう。他人の子供の写真を大切にカードケースに入れておく訳がない。

 じゃあ愛ちゃんが俺と一緒にいる間、子供はどこに居たのだろう。愛ちゃんは本当はどんな生活をしていたのだろう。

 どんな答えだとしても辛いが、嫌な想像だけがぐるぐると廻る。


 例えば俺が不倫相手だったとして、愛ちゃんは何故そんなことをしたのか。

 不倫に走る理由なんて、ドラマで見るような馬鹿げた理由しか知らない。

 ましてや、子供のいる女性の不倫は尚更理解ができない。

 有名な会社に勤めて妻と子の写真をいつも持ち歩くような夫が居て、不満だったのは一体何だったのだろうか。


 信じたくないし、信じられない。

 俺の知っている愛ちゃんはとても優しい人だから。

 でも少しだけ合点のいく事もある。

 愛ちゃんが自分の事を多く語らない理由、愛ちゃんにとって俺が不倫相手だったなら、俺に話せる事なんてただの一つも無かったのかもしれない。

 ショックで吐き気がしたが、吐瀉物はアルコールでもう一度胃に押し戻し、外の冷たい空気を吸い込む。

 簡単に酒の巡る頭でも分かる。本当に不倫なら、最悪だ。

 傍にいても気付けないような、想像力の足りない自分を責めるべきか、何も伝えなかった彼女を責めるべきか迷う。

 迷っている時点で、どこまでいっても彼女を完全に悪者にできない自分が、惨めで仕方が無い。

 俺は何も知らなかった癖に、愛ちゃんが好きだった。


「待てよ、あれ……?」

 でも、金崎政行は、どうして死んだ?

 愛ちゃんは俺と別れて、その後金崎は飛び降りた。

 ガワさんから聞いた金崎の死ぬ間際に放った「あいつが悪い」という言葉を思い出して、ゾッとした。

 自分が知らずのうちに加害者になって居たかも知れない可能性に気付いてしまった。


 ──俺、か?

 もし俺との関係が金崎に知られていたとしたら。

 愛ちゃんが急に別れを切り出した原因がそれだとしたら。

 金崎の自殺の理由も……いや、そんなの全て推測の域を出ない妄想だ、大丈夫、違う、俺は関係ない。でも。

 暑くないのに汗で張り付くTシャツの首元で噴き出して垂れてくる汗を拭う。


 でも、金崎が死んだということは同時に愛ちゃんは旦那さんを亡くして、あれ、そうだ。子供、子供はどうなったのだろう。

 あの子は父親を亡くしたたのか、金崎は妻と子供を残して自ら死を選んでしまった? 俺のせいで? 俺のせいで、愛ちゃんが、子供が、家族を亡くしていたら。

 俺があの日愛ちゃんに告白したせいで、好きになったせいで、彼らの未来を奪ってしまっていたら。

 慌ててスマホを取り出し、震える指でアドレス帳から愛ちゃんを探しだしてかける。

『お掛けになった電話番号は電源が入っていないか……』

「……クソ」

 愛ちゃんとは、別れようとメッセージがきた日から一度も連絡が取れない。

 時間や日を変えながら何度も連絡をとろうと試みたけれど、結局一度も繋がらずメッセージも既読にならなかった。

 思わず口をついた「クソ」は状況に対するものであった筈なのに、凶器に変わって俺に向かってくる。

 クソ、クソだ。俺がクソだ。そうだ俺だ、……俺が?


 夜中の帰路にも慣れている筈なのに、視界の端で揺れる街頭まで敵になってしまったような不安感が、肌寒い風と共にTシャツの中を悪寒になってすり抜けて行く。

 次の酎ハイを取り出して震える指でプルタブを起こす。

 すっかり軽くなったコンビニ袋の中で、重なった空き缶がガラガラとだらしない音楽を奏でた。





 当然、誰もいない安アパートの俺の部屋。

 愛ちゃんが着たシャツ、一緒にみた映画のDVD、抱き合ったベッド。

 鮮やかで綺麗な思い出の全てが、罪の記録に変わっていくのかもしれない。

 一生知らずに生きていく事もできたのに、偶然でも気付いてしまったからどうしよう。そのままでは居られない。ハッキリさせなくちゃいけない。


 ……酷く疲れた。

 風呂場に向かって浴槽にお湯を張る。

 じっとりと全身を包む汗がベタついて、不快だ。風呂に入って寝て起きたら何か変わって居るのではないか、と無駄な期待をしながら左手に持つ缶に残った酒を飲み干す。

 心臓がバクバク鳴るのは、アルコールのせいだ。普段飲まないから身体が驚いているだけ、これは不安じゃない。怖くない、誰も傷付いていない、これは悪夢だ、朝になれば全てが元通り。全部、最悪な、夢。

 思ってもいない事を思い込んでも落ち着く筈もなく、ポケットに手を入れると、今朝の水族館の入場券が指に触る。


 ウニなら何て言うだろう。

 引くだろうか。いや怒るか、話くらいは聞いてくれるかな。笑ってくれなくても、許してくれるだろうか。

 いや、アイツの事だから、きっと怒るだろうな。俺の馬鹿さに呆れるかな。カタが付くまで口を利いてもらえないかもしれない、永遠に解決しないのに。でも。

「……ウニに会いてぇ」

 充電の少なくなったスマホを取り出して、ウニの連絡先を開く。

 ウニの声が聞きたい、このままだと不安に殺されるような気がして、キレられても呆れられてもいいから、すぐに助けて欲しかった。話を聞いてくれるだけでいい。


 電話をかけようとすると浴室から給湯器のアナウンスが鳴る。

 『お風呂が沸きました、水道の蛇口を締めてください』と無機質で嫌な声色がしつこく繰り返すのが癇に障って、電話をかけるのを諦めた。

 寝不足と、酒と、考えすぎでグラグラになった頭で、ウニにメッセージを打つ。

 早く会いたい、話したい、助けてくれ。

 何度か打っては消して、悩んだ挙げ句に送信をタップしながらスマホを放り投げた。いや、こんな時間だ。明日話そう、すぐ会える。大丈夫だ。


【ウニ、お前がいてくれて本当良かった】




 適当に張ったお湯がいつもより熱い、思ったよりも体は冷えていたらしい。

 身体がドロドロと溶けるように浴槽に沈んでいく。

 湯気の中に花が咲くように愛ちゃんとの思い出がぐるぐると回転しながら溢れた。一緒にいた時間、思い出すのは笑顔で、気持ちの良い天気で、雨で、俺より小さな手のひら、光る眼、柔らかな髪、唇、傷痕、体温。……あぁ。

 忘れられないだろうな、忘れたくないな、なんて思う事も許されないんだから救われない。俺は大罪を犯した。


 何でこんなことになったんだ。

 俺は本当に不倫相手だったのか、大掛かりなドッキリだとしたら暫く機嫌が悪くなるだろうから早くネタバレが欲しい。そうじゃないなら、理由が知りたい。

 なぁ、愛ちゃん。

 君が話せなかった話や、話したかった事があったなら、知りたかった。もし本当に不倫だったのなら、その理由を。最低なら最低だっていいから、本当のことを。

 俺は何一つ気付かず、もしかしたら救えもしなくて、最悪の結果を運び、誰かの幸せや、最後には命まで奪っていたのかもしれない。


 目を瞑ると線路の溝にこびりついた血液が鮮明に蘇った。

 赤黒く肉片の挟まったカードケース、写真の中で笑う愛ちゃんと小さな子供。

 ああ、金崎政行は何故飛び込んだ。あいつが悪いって、あいつのせいって、誰が悪かったんだ。悪いのは誰だと言っていたのか。

 愛ちゃんは今幸せだろうか。

 幸せになって欲しいけれど、俺のせいで彼女は幸せになれない。

 せめて子供だけでも、と思うけれど、俺のせいできっと全員幸せになれない。

 俺も幸せになっちゃいけない。可愛い人と子供を授かって幸せだった筈の金崎は、俺の所為で死んだのだから。


 事実がどうなのかは分からない。知らない。全部俺のタチの悪い妄想かもしれない。分からないから耐えられない。まともに考える頭なんて働いていない。それでも今まで感じたことの無い絶望が、頭痛に変わって襲ってくる。

 部屋のどこかで、さっき投げたスマホが震えている音がする。

 ……ウニかな。

 こんな時間にまだ起きてる「親友」という唯一光のような存在にほんの少しだけ心のざわつきが穏やかになる。

 起きてるならやっぱり今から会えないかな。風呂から上がったらとりあえず電話をかけようかな。


 湯気が落ちてくるのと同時にポタリと浴槽に赤い花が咲く。

「あ、やべ、鼻血……」

 目の前がぐるんと回転してプツリと糸を切るように真っ暗になった。

 ああ、沈む。


 浴槽の底が無くなってしまった。

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