第87話 ココロがあれば
「俺はここで逃げない。理由を挙げろと言われたら、少なくとも三つは浮かぶな」
俺は何も無い部屋の壁に背を預け、隣で膝を抱えて背を丸めるアイナを見る。
「一つ目は、もうイクテシアは俺を見逃してくれないだろうから。ここまで踏み込んだ以上、白旗を振った所で消されるだろうさ。ついさっき、向こうのありがたい警告を蹴り飛ばしたばかりだしな」
アイナは俯いたままだが、俺はそのまま続ける。
「二つ目は、それが俺の役割だからだ。会った時に言ったと思うけど、俺達は深層機関に利用されている能力者を助けるために動いている。今回の件だって自分から飛び込んだ訳だし、自分が怪我した程度で、命を狙われている人を見捨てる事は出来ない」
命を助けるためには命をかける必要がある。今回アイナの逃亡に協力する立場になって、それを実感した。
覚悟なんて高尚なものじゃないが、戦う決心は付けたつもりだ。
「三つ目は、お前と同じだ」
「私と……?」
「お前と同じで、俺はもうアイナの事を他人とは思えない。ただ役割として任されたからじゃなく、俺自身の意思で助けたいと思ってるんだ」
上目でこちらを見るアイナと目が合った。不安そうに揺れる瞳に、俺は自信を持って答える。
「仲良くなった相手を助けるなんて、命をかける理由には十分だと思ってるけど?」
「それは……
アイナは訴えかけるように言葉を繋いでいた。
「きっと芹田くんには、私なんかよりもっと大事な人を助けるために命を張る日が来ると思う。だから……」
「やめろよそんな。まるで自分の命が無価値だなんて言い方、俺は好きじゃないぞ」
「無価値とは言ってないよ。研究材料としての価値はまだあるかもしれないし。でも……そもそも今の私はもう、『命』とは呼べないから」
「命とは、呼べない……?」
妙な言い方が引っ掛かった。問い返した俺の瞳に、アイナの微笑が映る。
「私はもう、人間じゃないんだ」
消え入りそうな微笑みは、地下街ではしゃいでた時の笑顔とは真逆のものだった。
「……それは、お前もサイボーグ手術によるイクテシアの『能力拡張技術』を受けてるって話か?」
「ううん、そうじゃない。私はそれとは別の研究に使われてたの」
「別の研究?」
「――アンドロイド・イデア。何でも知ってそうな幽霊の人なら分かるかな」
幽霊の人と呼ばれた『ゴーストタウン』は、僅かな沈黙の後、何か心当たりを見つけたように語り出した。
『「プロジェクトA.I.」……次世代のサイボーグ技術を有するイクテシアが新たに立ち上げたプロジェクトの事だね。その目的は、
「能力者の、機械化!?」
『僕も詳しい事は分からないけど、そんな資料も見かけたんだよ。体の一部を機械化する事で能力に変化をもたらした拡張技術を能力者の全身に施した場合、能力にどのような変化が起きるか。それを調べるためのプロジェクトだったはずだ』
「研究者の人達が言うには、体のパーツをひとつずつ機械に置き換えていって、最終的に
『ゴーストタウン』の言葉を引き継いだアイナは、力なく開閉する両手に視線を落とす。
「まず最初に脳みそから。次に両手両足、腰や胴体、筋肉に骨、そして内蔵も一つずつ。ゆっくり時間をかけて全身が機械になっていったの。相性が合わないとかでたくさんの人が死んじゃった中、私は初めての成功例として生き残ったの」
「それじゃあ、アイナの体は……」
「うん。今ではもう、人間だった頃のパーツは脳の二パーセントだけ。そこ以外は全て機械なんだ」
「……っ!」
すぐには信じられなかった。俺達とそっくりのアイナが、体の一部どころか大部分を機械化されていたなんて。
同時に、そんな実験まで平気で進めるイクテシアという組織に、より強い憤りを覚えた。
「全ての部品が入れ替わった物は、入れ替わる前の物と『同じ物』だと言えるのか。昔の思考実験にそんなのがあるって博士が言ってたっけ。私にはもう、自分が人間だった事の私と『同じ私』なのかも分からない。自分が
彼女はもう、その現実を受け入れてしまっている。きっと俺と変わらない歳なのに、理不尽な運命に巻き込まれた事を悟っている。だけど、全てを諦めてしまった訳では無いはずだ。
遠慮がちに目を向けるアイナを見ていれば、それはすぐに分かった。その機械の瞳に、れっきとした『感情』が宿っているのだから。
「……アイナは人間だよ。体のほとんどが機械だなんて関係無い。たった二時間一緒にいただけの俺でも、それは断言できる」
人間じゃない自分に命をかける必要は無い、とアイナは言いたいのだろう。だが、そんな遠慮は彼女がするべき事じゃない。
機械の体を持つ彼女が感じる引け目も責任も、本来は全てイクテシアが背負うべきもの。彼女が何かを諦める理由にしてはいけないんだ。
「体が何で出来ていようが、アイナには感情があって、心がある。地下街であんなに楽しそうにしてたお前の笑顔は噓だったのか?」
「そんな事、ない……あの時は本当に楽しかったし、嬉しかった」
「ならいいじゃねえか。脳が機械になっても、心があるなら人間だ」
世の中、脳も心臓もあるのに心の無い人間は多い。イクテシアなんかがまさにそうだろう。人の心が無いヤツもいる中で、アイナは自分よりも俺の心配をしてくれた。そんな彼女が人間じゃないなんて言われる筋合いは無いはずだ。
人間の定義だとかどこからが機械だとか、そんな理論的な話は今はどうだっていい。
「だから、自分が人間じゃないとか言わないでくれよ。会った事のない俺が言うのもなんだけど、お前を逃がしてくれた博士だってきっとそう思ってるさ」
「……うん。そうだよね。ありがとう」
一度顔を伏せたアイナはキャップを被り直し、それから再び俺へ向き直った。
「私の全てを聞いても、芹田くんはまだ協力してくれるんだ?」
「当たり前だ。二人で博士と合流して、絶対無事に逃がしてみせる」
「……そっか。じゃあ最後に、もう一つだけ」
俺に続いて立ち上がったアイナは、ようやく取り戻した笑みと共にそっと胸へ手を当てる。
「
「本当の?」
「
どうやら、一人で逃げようという自棄にも思える目論みはもう消えたらしい。
握手を求めて手を差し出す彼女は、さっきよりもずっと良い顔をしていた。
「ああ。一緒に逃げるぞ、真季那」
笑みをもって応えた俺は、彼女の手を取って走り出した。
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