雪はまるで冬の嘘のよう
海棠桔梗
第一部
第1話 きみとの出会い
「……うそだろ?」
僕は思わずそうつぶやいて、茫然とその場に立ち尽くした。
居酒屋でのバイトを終えて帰ってきたのは良いけれど、鍵が……アパートの鍵が、ない。
いつも入れているはずの場所であるカバンの内ポケットに見当たらず、カバンの中は全て、そして服のポケットの中も全て探したけれど……、残念ながら鍵はどこにもない。
東京よりもずっと早く訪れたこの地の冬の空からは無情にも冷たい雨がパラパラと降り出してきて、このままアパートの外で立ち尽くしていたら凍え死んでしまいそうだ。
まだ雪じゃないだけマシだけど……。
「はぁ……」
僕は深いため息を吐き下ろした。
鍵がなければ部屋に入ることは出来ない。この寒空の下どこで夜を明かさなければならないってことだ。真夏ならともかくこんな手もかじかむような寒さの中、野宿なんて出来るはずもない。
しばらく思案した結果、僕はファミレスで朝を待つことにした。
インターネットカフェという選択肢もあるけれど、いまいる場所からは圧倒的にファミレスの方が近い。くたくたに疲れて冷え切った身体を一秒でも早く暖かい場所で休ませたい。
僕は重い身体を引きずるように、ファミレスへと向かった――。
そんなこんなで、ただいま深夜……と言うか、未明の午前3時のファミレス。
眠いのなんのって……。
けれど、ここで夜を明けさせてもらうのだからそんなに堂々と眠るわけにもいかず、眠い目をこすりながらドリンクバーの特に美味しくもないコーヒーを飲み続けている。さすがにそろそろ胃がおかしくなりそうだ。
鍵をなくした挙げ句、体も壊しそうだなんて……。本当に踏んだり蹴ったりだ。
コーヒーを飲みながら、僕はアパートの鍵を落とした可能性のある場所に思いを巡らせていた。
思い当たるのは、昨日の夕方の出来事ぐらいか。
――あのとき僕は大学の講義を終えて、バイト先へと向かうべく大学を出て全速力で走っているところだった。
いつも終業時間になればすぐに終わる講義なのに、なぜかいつもより時間を延長して終わったおかげで、バイトに遅れてしまいそうだった。
結構ギリギリな時間にシフトを入れてる日に限ってこんなことになるなんて、ほんとついてない。
学業が本業だとバイト先も分かってくれてるから遅れても怒られたりはしないけど、店長の機嫌が明らかに悪くなるから出来るだけ遅れたくなかった。
間に合うか間に合わないかと言う、本当にギリギリの時間。とにかく全力疾走するしかない。
肩にかけているテキストの入ったトートバッグが邪魔だ。これがなければもっとスピードが出せる気がするのに、走れば走るほど肩からずり落ちそうになって、そのたびにスピードが落ちた。焦りと共にイライラが募る。
この建物の角を曲がればもう少しで駅に着く。バイト先の居酒屋は駅の向こう側だ。
僕はスピードを緩めることなく、その建物の角を曲がった、その時だった――。
「……きゃっ!!」
「う、わっ……!?」
誰かに僕の肩がけのトートバッグがぶつかり、同時にドサッと大きな音がした。
「わっ、すみません! 大丈夫ですかっ!?」
僕がバッグをぶつけてしまった相手は、その場に座り込んでしまっていた。
髪の長い、綺麗な女の人だった。
「ごめんなさいっ、ケガはありませんか!?」
「あ、……大丈夫、です」
地面には僕のトートバッグから飛び出してしまったペンケースと、相手の女性が手に持っていたであろう紙の束や封筒が散らばってしまっている。
僕は手を差し出して、まずは彼女を立ち上がるのを手助けする。
「本当にごめんなさい……!」
「あ、いえ、あの、私も、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたから注意が散漫になってて……」
「いや、僕の方が悪いんです! 速度を緩めずに角を曲がったから! ほんと、ごめんなさい!!」
見たところ、彼女には目につくようなケガは無いようだけど……。
「あの、どこか痛いところとかはありませんか!?」
「あ、大丈夫です、ほんとに。えっと……ちょっとびっくりして尻餅をついただけなので……」
どうやら僕のトートバッグが彼女の腕に当たって、それでびっくりして、と言うことらしかった。
いずれにしても僕のせいであることは間違いがない。
僕は地面に落ちて散らばってしまった物を拾い集め、彼女に手渡した。その時に一瞬だけ、彼女の手が僕の指先に触れる。
まるで漫画みたいな展開だな、と頭のほんの片隅だけが冷静で、その他のほとんどの部分が全然冷静じゃなかった。触れてしまったことに異常に緊張して、指先が震え始めるぐらいだ。
女性に免疫がなさ過ぎて、自分でも呆れる。
「あ、すみません、拾っていただいて……」
「い、いえっ、悪いのは僕の方なのでっ」
心臓がうるさいのはきっと、全速力で走っていたからだ。きっとそうだ。
「本当にケガはないですか? どこか痛いところとか?」
「大丈夫です。本当に、驚いただけなので」
彼女は「あ、」と小さくつぶやいたあと、すぐにその場にかがんだ。髪がサラリと流れ、彼女の白く綺麗な首筋が露わになる。
見てはいけないものを見てしまった気がして、僕は慌てて目を背けた。
「……はい、これ」
目を背けている間に立ち上がったらしい彼女が、僕が落としたペンケースを差し出していた。
僕は彼女のものを拾うのに必死で、自分も落としたものがあることをすっかり忘れてしまっていたようだ。
「す、すみません、ありがとうございます……っ」
「あ、いえ、こちらこそ、書類を拾って頂いて……ありがとうございました」
お互い、ペコリとお辞儀をする。
「あの」
「……はい?」
「時間、大丈夫ですか……?」
「……え?」
「急いでたんじゃ……?」
彼女にそう言われて、僕はやっと、さっきまで走っていた理由を思い出した。
「あっ、うわ……っ! そうだった、バイトっ!!」
腕時計を確認すると、あと5分でバイト先に入っていなければいけない時間だった。ここからバイト先まで、どれだけ急いだって5分で着くのはなかなかに難しそうだ。
僕は慌てて彼女に頭を下げた。
「ほんと、ぶつけてしまってすみませんでしたっ!」
「あ、いえ、こちらこそ……。アルバイト、頑張ってくださいね」
「ありがとうございますっ……!!」
僕はお礼を言って頭を下げ、バイト先へと再び走り出した――。
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