死地に咲く氷の華

鵲煉火

入学式

『かつて、日本中を震撼させた史上最悪の三百人殺しと呼ばれる事件から、今年で十年を迎え、警察では……』

付けっぱなしにしていたテレビから聞こえるアナウンサーの声にちらりと目を向けると、再び鏡に向かい身嗜みを整える。

テレビでは相変わらずコメンテーターやら犯罪心理学者とやらが答弁を繰り返している。

「小湊、行ける?」

杏也がテレビのスイッチを切り、玄関へ向かう。

凄惨な事件だったとはいえ、十年も前の事件だ。さほど興味は無いのだろう。

「知ってる?あの事件ってこの近くなんだって」

「未解決事件なんて、ここいらじゃ珍しくないだろ」

それもそうだ。

中には何年も経ってから発覚した事件や、被害者が遺族から解決しなくていいと言われるような人物だったって場合もある。

それが、この街では異様に多い。

警察や騎士団が無能という訳では決してない。

問題は、事件の方にある。

先程のテレビで言っていた史上最悪の三百人殺しだけじゃない。

異能力者や、悪魔や妖怪等の人外、魔王や神様絡みの事件では規制が掛かる事もあるらしい。

それでも駅前や繁華街では遺族が情報提供を求めて看板を掲げている。

事件から何年経っても自分の事に囚われて、年齢よりずっと老け込んで前に進む事も出来ない。

可哀想ではあるが、もしも自分が被害者なら、事件の事など忘れて幸せになってもらいたいと思う。

大切な人なら、尚更。



「おはよー。今日風ちょー強いねー」

学校へと続く坂道の前で昴が後ろから肩を叩いてきた。何も入学式当日にこんな吹き荒れなくてもいいだろうと言うほどに轟々と唸りを上げて吹き荒れる強風の中、小湊は長い髪を抑えて振り向き眉を潜めた。

「まったく。砂がめっちゃ飛んでて嫌になるな」

「早く行こうぜ。外にいるだけで疲れるわ」

杏也が先を歩きながらマフラーに顔を埋める。

春先とは言えまだ冷えるが、さすがに杏也以外にコートにマフラーという完全防備は見当たらなかった。

右手を額の前に遣り風を避け坂道を歩く。

道の両脇に立つ桜並木から散る花びらが渦を巻くのをぼんやりと眺めながら坂を登る。

周りを歩く女子達がきゃあきゃあ騒ぎながら早足で歩くのを横目に何と無く視線を上げる。

風に対する悲鳴が、横を通りすぎる際明らかに声色が変わった。

(相変わらず、杏也はモテるなぁ)

小湊には自分がモテるという自覚がまるで無かった。

周りの年相応な男子に比べて明らかに大人びて整った容姿をしているにも関わらず、である。

それは主に今まで直接的な告白などされた事が無いからだが、女子からの視線や黄色い歓声は感じていてもそれは周りの友人達に対してだと思っていたからだ。

バレンタインのチョコレートも、誕生日のプレゼントも、杏也達に上げるついでの義理だと思っているのだ。

と、足が止まった。

強い風で顔がはっきりと見えた訳ではないのに、何故かその人物が目に止まった。

「はなちゃーん?どしたの?」

昴の声も耳に入って来ない。

強風の中、目の前で桜を見上げるその人の銀色の髪に桜の花びらが絡む。

一瞬だった。顔とか雰囲気とかタイプだとか、そんな物は関係なく、一瞬で恋に落ちた。

なんだろう。胸が早鐘を打つ。そこまで人見知りする方じゃないのにまるで喉が固まってしまったかのように声がでない。

あぁ、今まで信じていなかったけれど、運命って存在するんだ。

一瞬で全てを理解した。俺はずっと、彼に会いたかったんだ。

「あ……えっと、頭に花びら付いてるよ」

漸く出た声は風のせいかガラガラだったけれど。

「…………え?」

その人の髪に絡んだ花びらを手に取ると、驚いたように振り向いた。

「あ……わ……え?ご、ごめんなさ……」

慌てたように髪を手で払うと、頬を染めて口ごもってしまった。

まるで陶磁器のように滑らかな白い肌が赤く染まるのを見ると胸が高鳴った。

「あ……いや、風強いから早く行った方がいいよ」

声を掛けると、俯いたまま目だけで小湊を見上げてきて、銀色の髪の間から綺麗な赤い瞳が覗いた。

(うわ……すげぇカワイイ、ちょっとヤバいかも)

口から心臓が飛び出しそうな程緊張する。

こんなに、胸がドキドキするなんて初めてだ。恥ずかしくてまともに顔が見られない。

「あの……ちょっとだけ鞄持っててもらっていいっすか?あそこ、猫がいて」

そう言われて木の上を見ると、確かに枝に必死にしがみついている小さな猫がいた。助けを求めるように鳴いていたようだが、風で鳴き声が掻き消されていた。

「うわ……ほっといたら飛んじゃうんじゃない?」

昴が心配そうに木の上を見上げながら小湊の後ろにしがみつく。

明らかに風避けにされてるなとは思ったけれど、まぁ昴のやる事だからと放置しておいた。

「どうする?まだ時間は大丈夫だけど」

昴の後ろで杏也が身を屈める。小湊より少し背が高いから風避けとしては頼りないだろうが。

「杏也、鞄持ってて。俺が行くよ」

杏也が強風に目を瞑ったまま手を差し出す。

マフラーを引き上げ顔全体を覆っているためそもそも前が見えていないようだが。

「え、わ、悪いっすよ」

彼が小さな手で慌てたように小湊の袖を引いた。

「君の猫なの?」

叫び出したくなるほどの感情を抑え、冷静を装って尋ねる。

ふるふると小さく首を横に振る姿はまるで小さな子供のようで可愛らしい。

「じゃぁ別に俺が行っても一緒でしょ」

彼の髪に指を絡ませ頭を撫でると、塀の上に手を掛け、反動を付けて飛び乗る。

枝を掴んで猫に手を伸ばすが、恐怖に身がすくんでいるのか警戒しているのか、小湊を一瞥すると目を逸らしてしまう。

風で枝がしなり、一刻も早く助けないと枝ごと吹き飛ばされてしまう。

ミシミシと音がしている。迷っている暇はない。

目に意識を集中させ、ゆっくりと見開く。

猫の頭がぐらぐらと揺れて小湊の方に向く。

焦点の合わない瞳でゆっくりと前足を踏み出した所で、術を解いた。

小湊の手のひらに倒れ込むと、小さく寝息をたてて眠ってしまった。

操るような真似をして申し訳ないとは思ったが、手っ取り早い方法を取らないと互いに危険だったのだ。

「だ……大丈夫っすか?」

前髪を抑えながら少年が声を掛ける。

小柄な体は強風が吹く度に押されてしまい、頼り無さげだった。

必死に風に耐える姿が庇護欲を掻き立てられる。

「あ……ありがとうございます」

枝から直接道路に飛び降りると、彼が深々と頭を下げた。余程心配だったのだろう、安心したように猫を見ていた。

「いいよ。ってか君が教えてくれなかったら気づかなかったろうし。だから感謝するのはこっち」

彼がおずおずと猫を撫でると、猫の耳がピクリと動き、甘えるように頭を手に擦り付けた。

「……ふふっ。可愛いね。きっと君の事が大好きって言ってるんだよ」

それがまるで猫が彼に感謝を伝えているように見えたのと、風が強いのも杏也と昴がいるのも気にならないくらい穏やかで優しい時間が流れていたから思わず変な事を口走ってしまった。

うん、完璧に引いているな。ちゃんと考えてから発言しろ、俺。

彼もどういう反応を返していいのかわからないのか、猫を見つめたままフリーズしてしまっている。

「その子、どうするんだ?」

流石杏也、空気を察して助け船を出してくれた。

「あ……えっと……危ない、っすよね。放っといたら」

風が強いのもあるが、この時間は大学の人や先生等、割りと車が通るのだ。

「あの……一時的に家で預かっても大丈夫でしょうか。近いのですぐ置いて来られますから」

少し考え込むような仕草を見せた後、彼が顔を上げる。

その上目遣いに窺う表情も控えめで、いちいち心臓が早鐘を打ってしまう。

「大丈夫?見ててくれる人いるの?」

「はい、兄が。あの……いいっすか?」

恐る恐る手を伸ばしてくる彼にそっと猫を抱かせると、猫の可愛らしさに顔を緩ませた。

「それじゃあ、失礼します」

坂道を下っていく彼の後ろ姿を目で追うと、昴に袖を引かれる。

「はなちゃん、早く行こ」

「……あぁ」

後ろ髪を引かれる思いで足を踏み出す。

出来れば近いと言っていた家の場所を知りたかったが、ほんの一瞬目を離した隙に見失ってしまった。


やっぱりトイレ混んでるなぁ。

流石に女子トイレ程ではないけれど、強風で乱れた髪を直すため廊下の手洗い場まで人がごった返している。

さて、どうしたものか。

入学式までには空きそうに無い。

事前の学力試験で一位だったから生徒代表として挨拶をしなければならないのに。

人前に出る訳だし、普段以上に容姿に気を遣わないとならないのだが。

ふと、視界の隅で銀色の髪が揺れた。

どうやら小湊に用があるらしく、斜め後ろ辺りで手を出しては引っ込めてを繰り返している。

気配で口をもごもご動かしているのがわかるのだが、つい意地悪な気持ちが沸いてきて気付かない振りをしてしまった。

「…………あ、あの…………すいませ」

漸く絞り出された微かな声は、周囲の喧騒の中でもしっかりと小湊の耳に届いた。

意識を全て彼に集中させているのだから造作もない事だが。

……そろそろ泣き出しそうな気がする。

いや、流石に中学生にもなって、それも男がそんな事で泣く筈も無いのだが、彼の雰囲気はそれほど儚く、愛らしい物だった。

「なぁに?俺に何か用?」

口元に指を当て、笑いそうになるのを堪えながら彼の方に体を向けると、心底安心したように表情が和らいだ。

「これ……よかったら」

頬を赤らめ、俯きながらポーチを差し出す。うさぎをモチーフにした、和柄の物だ。

中を見ると、ブラシと櫛、折り畳みの鏡、ヘアスプレーが入っていた。

「あ、だ、大丈夫っす。ちゃんと除菌シートで拭いてますから」

別にそんな心配はしていないのだが、普段から持ち歩いているのだろうかとか、可愛らしいセンスをしているなとか、うさぎが好きなのだろうかとか、いろいろ考えていたらフリーズしてしまっただけだ。

「貸してくれるの?」

小湊の問い掛けに小さく頷くと、上目遣いに見上げてくる。常にビクビクしていて小動物みたいだ。

「ありがとう。今日風強いから助かったよ」

しまった。避けられはしたが、つい癖で髪を撫でようとしてしまった。

癖と言うか、インキュバスの本能のようなものなのだが、よっぽど驚いたのか、顔をひきつらせている。

「う……あ……いえ……すいません」

「ううん、俺の方こそ、ごめんね。馴れ馴れしかったかな」

「いえっ……あの……ホントにすいません。反射的に」

沈黙が流れる。

よっぽど申し訳無く思っているのか、胸の前で人指し指を擦り合わせている。

「……触られるの苦手?」

そう尋ねると、俯いたまま小さくこくんと頷いた。

しかしわざわざブラシを貸してくれるという事は、人と関わりたくないとか小湊が嫌われているという事では無いのだろう。

「雪耶くーん、ブラシ持ってない?」

髪をブラシで整えていると、廊下の向こうからやってきた女子に話し掛けられた。

「あ、今貸してて……」

「ん、もういいよ。ありがとう」

元々髪が絡まりにくいタイプなので少し櫛を通すだけで充分だった。

ブラシの汚れを軽く払って彼女に差し出すと、怪訝そうに眉をひそめて受け取った。

「よかった。雪耶くん女子力お化けだから絶対持ってると思った」

そう言いながら無造作に髪をとかす彼女に、困惑したように首を傾げる。

「何すか女子力お化けって……。美澄ちゃん、それじゃ髪傷みますよ。やってあげますから貸してください」

普通だ。小湊と話した時とはまるで違う。

彼女とは仲が良いからなのか、リラックスして喋っている。

「ありがとう雪耶くん。……それ、何のスプレー?」

「え?寝癖直しっすよ。風強いから必要かと思って」

そう言って少年、雪耶がヘアスプレーを顔の横で掲げてみせる。

「アンタ天使通り越して神ね」

「褒めてるんすか?」

「褒めてる褒めてる。アタシじゃ思い付かなかったもの」

「たまたまっすよ。美澄ちゃん絶対持ってこないだろうなって思ったから」

絶対、という言葉に二人の付き合いの深さというか、仲の良さを思い知らされる。

それは仕方の無い事なのだろうが、どうしようもなく胸が締め付けられる。

「違うの。持ってこようかとも思ったけど家出た後だったし雪耶くんに頼ろうと思ったの」

「はいはい……。終わりましたよ、美澄ちゃん出来れば自分で何とかしてくださいね。もう中学生だし、こういう事で男子を頼るの良くないと思うっす」

雪耶が彼女の髪を仕上げに軽く整えると、彼女から距離を取った。

確かに良くはないだろうが、これだけ丁寧に髪を整えて貰えるのなら頼みたくなる気持ちもわかる気がする。

「男子?誰が?」

「俺っすけど」

「冗談よ。ちゃんと男の子だと思ってる。じゃぁまた後でね」

彼女がまるで小さい子にするみたいに雪耶の頭を撫でて去っていった。

その時も、雪耶はびくっと小さく震えていたけれど。

「彼女?」

「え?いや、違います。仲良くさせて戴いてますけど、とてもいい友人っす」

「そう……」

仲良くさせて『戴いてる』か。言い方は丁寧だが、壁があるような気がする。

自覚が無いのだろうか。

「小湊ー、クラス分け貼り出されてる」

昇降口の前の掲示板にクラス分けを見に行っていた杏也と昴が戻ってきた。

「おぉ、何組だった?」

「A組。三人とも一緒だったよ。御崎と海月も」

よかった。御崎は兎も角、海月は性格がキツい所があるからクラスに馴染めるか不安だったのだが、一緒なら大丈夫だろう。

「あ、てかさー名前聞くの忘れててさー。聞いていい?」

マフラーでほぼ前が見えていないようだったのにちゃんと杏也は雪耶を認識していたらしい。

「あ、えと……新島……雪耶、っす」

「クラス分けん所結構混んでてさ、見るの大変だと思うけど、大丈夫?」

「あ、はい。空いてから見ますから」

「そう?空くかなぁ、あれ。もう入学式始まるよ?」

確かに。明らかにもうクラスを確認し終わっているだろうに掲示板の前で屯っている連中がいるようだ。

その時、職員室の方から長身の男性が歩いてきた。

「ほら、クラス確認したら早く教室入れ。邪魔になってるから」

風間先生が一声掛けると、掲示板の前にいた生徒達が大人しくその場を去っていく。

風間先生はよく通る綺麗な声をした、若い先生だ。

数日前、入学式の挨拶を依頼された時に会っている。

ふと、風間先生が気怠けな目をこちらに向ける。

「英、だよな?挨拶考えてきたか?」

「あ、はい……えっと……」

ポケットからメモ用紙を取り出して風間先生に手渡す。

「ん。随分と真面目な文章だな。一応リハーサルしておきたいからついてきて」

風間先生は俺にそう言った後、視線を雪耶に向けて手招きした。

「悪い。頼まれてたヤツなんだけどもうちょい掛かるらしい。素材が 手に入らないんだって」

歩きながら、風間先生が雪耶に声を掛ける。

随分と親しそうだが、知り合いなのだろうか。

「そうっすか。あの……」

「テメェで取りに行くってのはナシだからな。いいから大人しく待ってろ」

風間先生が廊下を歩くと、まるで人垣が割れるように道が開く。

それが当然とばかりに堂々と廊下の真ん中を歩く風間先生とは対照的に、申し訳無さそうに縮こまって歩く雪耶と共に空き教室に入る。

「じゃ、どうぞ」

教室の後ろのロッカーに寄り掛かると、風間先生が教卓を手で示す。

確かに事前に礼の仕方とかは教えてもらっているが、随分と適当な気がする。

ただ、教えを請うのも違う気がする。

まずやってみろと、そういう事なのだろう。

「あ、あの……えっと……気楽に……」

雪耶が不器用に口角を上げて笑みを作る。

緊張しているのか、何故かプルプル震えている。

「じゃぁ、新入生代表、英小湊って言ってくれる?」

そう言うと、雪耶が困ったように風間先生に視線を向ける。

本番では無いのだから、出来れば雪耶に言って貰いたいのだが。

幸い、風間先生はその視線を無視した。

教師としてはどうかと思うが、少しありがたかった。

「きっかけが欲しいだけだから、駄目かな?」

小首を傾げると、雪耶が慌てたように首を横に振って扉の横に移動した。

「し……新入生、代表……英……小湊っ……」

…………声、小さい。

一生懸命やってくれたのだろうが本番でこんな事されたら悶死する。

「ごめんなさい、あの……もう一回。ちゃんとやりますから」

「うん、てか時間無いからマジ早くして」

雪耶の練習では無いのだからそんな言い方しなくてもいいのに。まぁ頼んだのは小湊なのだから、申し訳無い気持ちはある。

「……新入生代表、英小湊」

呼吸を整え、ゆっくりと紡がれた声は、まるで鈴を転がすようだった。

「……はい」

雪耶の声を噛み締めると、事前説明の通りに礼をして教卓の前に立つ。

事前に考えておいた挨拶を 言い終わると、また礼をして戻る。

多分上手くできていた筈だ。

「……うん、返事だけもう少し早い方がいいかな。後は完璧」

それは大丈夫だろう。何せリハーサルでは無いのだから。

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