第3話
一週間はあっという間に過ぎた。
春休みはあと数日、けれどそれをなんとか乗り越えたところで学校が始まってしまう。学校は早い日で三時過ぎ、遅い日で四時過ぎに終わる。六時前には帰る貴史を考えると、実質ほんの一、二時間のお留守番だ。
ベビーシッターや家政婦の利用を考えてもみた。けれどどれも毎日利用するには高額で、貴史の給与では手が出せないものばかりだった。
──明日からまた仕事か……
実咲貴には「今度こそ」という約束で、貴史がいない間は外には出ない、インターホンが鳴っても近づかない、お昼は貴史が用意したものを食べる、と改めて言い聞かせておいた。
が、初日がああだっただけに心配の種はつきない。実咲貴を大事に思うのはもちろん、事件や事故にでもあったら……咲良に申し訳が立たないと貴史は常に考えていた。
それに、貴史自身ももう限界が近かった。
この度の有給も快く応じてくれた会社だが、それだけにこれ以上会社に甘えるのにもひどい心苦しさがあった。そもそも真面目な性格だ。自分の時間を削り、会社に頭を下げて、実咲貴の前では笑顔でい続ける。
(もう、無理かもしれない……)
ぼんやりと座り込んだまま、ふと気づけば十時を少しを過ぎていた。
もうとっくに実咲貴は寝てしまっている。
ふいに強い焦燥が込み上げた。
猛烈に外へ出たくなった。どこでも良い、何も考えなくて良い所へ。
そう思うともう堪らなくなって、部屋着のまま厚手のカーディガンを掴んで部屋を飛び出していた。エレベーターがもどかしくて、階段を使ってマンションを飛び出す。マンション前の公園を早足で通りすぎて、何も考えずにいつもの道を、商店街へ抜ける道をひたすらに足早で歩いた。
古い商店街は、ほとんどの商店がシャッターを閉めている時間で、行き交う人もまばらだった。そこをサンダル履きのままずんずんと進む。ほとんど地を見つめたままだった。
何も聞きたくない、もう何もできない。苛立ちとも悲しみともつかない気持ちで胸がいっぱいになる。叫び出したかった。
そんな気持ちをぶつけるように、ほの暗い商店街というトンネルをただひたすらに歩いているときだった。前方に、ぼうっと暖かな光が見えた。
光に吸い寄せられるように、歩みは自然とそちらへ向かった。
外まで聞こえるほどの、男女の談笑の声が、朗らかな笑いが中から聞こえた。
「いらっしゃいませ! って、あれ……貴史さん?」
名前を呼ばれても一瞬誰だかわからなかった。
「来てくれたんですね。嬉しいです。奥のカウンターでよろしいですか?」
カウンターからでてきた人物が自分に近づき、見上げるような男の影が自分の上に落ちてきて、貴史は自分が店のドアを開いて中へ突っ立っているのだと、やっと気づいた。キョロキョロと辺りを見渡す。
店内は古き良き洋食屋、といった雰囲気だった。
煉瓦風の壁紙にランプを中心にした間接照明。カウンターの上部にはワイングラスが吊るされて、本日のお勧めメニューが黒板にカウンター奥の壁に掲げられている。
店は奥行きが深く、縱に四人掛けのテーブルが三つ、真ん中の通路を挟んで平行するようにカウンターが六、七席。テーブルには白地に赤と青のチェックのテーブルクロスが掛けられ、そちらは席が満席だった。
「さあ、どうぞどうぞ」
「あなたは……」
一番奥のカウンター席へと通される。
一修吾。やっと名前を思い出せた。
そうか、彼の店だったのかと思考が繋がる。
満面の笑顔の彼に席へと案内してもらい、椅子まで引いて貰いながらだんだんと頭がクリアになってきた。そうだ、商店街の端でビストロをやってるって言っていた。
確か実咲貴は「いっちゃん」って……
「いっちゃん、さん……?」
「えっ?」
言ってしまってからではもう遅い。メニューを差し出していた修吾がキョトンとした顔をする。
「あ、あ……も、申し訳ない! 娘が、名刺を見て、そう呼んでいたので、つい……っ」
貴史は首筋から顔まで、瞬時に血が上るのが自分でも分かった。そんな貴史を見て、修吾は「ははっ!」と楽しげに笑う。
「良いですよ。呼びにくいでしょう、「にのまえ」は。いっちゃんでも修吾でも好きに呼んでください。ただし、店ではマスターで通ってますけどね」
おおらかな笑みに繋げて、メニューを貴史の前に置くとカウンターへと修吾は戻っていった。
優吾はシャツの袖をまくり、黒いパンツに真っ白い丈の長いギャルソンエプロンを腰でぎゅっと閉めていた。注文は次々と入る。子羊のロースト、ミートフライドポテト、田舎風パテ、サーモンのブルスケッタ等々。そんな中、修吾は狭い厨房で時に頭を下げたり、身をかわしたりしながら他の従業員に指示を出している。
客達は皆楽しそうで、大いに食い、飲んで、機嫌良く笑い合っている。
「お決まりですか?」
ぼんやりとそんな様子を見ていた貴史はカウンターの中から修吾に声を掛けられてはっとした。店の雰囲気や修吾の動きを自然と目で追ってしまって、まだメニューを見てもいなかった。
そんな様子を察知していたかのように、修吾は穏やかに首をかしげた。
「それではこちらのお任せで……。そうですね、今日のオススメからカブと白子のソテーにさつまいもとカリフラワーのポタージュなんかどうです?」
「あ……それで、お願い……します」
どんな料理なのか、どんな味なのかも想像もできなかったが、貴史は頷いた。自分では決めれそうになかった。
「お飲み物は?」
「それじゃ……ビールで」
「承知いたしました」
笑顔でメニューを下げる修吾を見送った後、はっと気づいた。財布を持ってきていない。
しかも部屋着の上にカーディガンを引っ掻けただけのサンダル姿。
貴史は一瞬で現実に引き戻された。
「あ、あの!」
「はい、なんでしょう?」
振り替える修吾の笑顔は眩しい。返す貴史の顔は真っ青だった。
「すみません。財布を、財布を忘れてしまって……だから注文は」
「ああ、そうなんですね」
何事かと思った、と朗らかに笑って、修吾は下がっているワイングラスを避けてカウンターから身を乗り出してきた。やや声を潜めて笑う。
「ご近所さんの誼ということで。今日はこちらに持たせてください」
その申し出に、貴史は思わずカウンターに手をついて立ち上がる。
「いや、いやいやそんな!」
「良いんですよ。良かったらこれを機会に通ってください」
「けど!」
「しーっ! 他のお客さんに聞こえちゃいますから」
腕を伸ばしてきた修吾が、貴史の肩をとんとんと軽く叩いて去っていった。
皆が和やかに楽しく過ごしているこの場で目立ちたくなくて、仕方なく貴史は椅子に腰を落とした。
しばらくしてやってきた料理は、両方とも白い陶器の皿に行儀良く収まっていた。
「お待たせしました。こちらがカブと白子、こちらがさつまいものスープです。温かい内にお召し上がりください」
貴史の目の前に湯気が立つ二皿が置かれた。脇にはキンキンに冷えたビールも。
とたんに、腹が空いていたことを思い出す。
「いただき、ます」
スプーンを持って、まずスープを一口、口に運んだ。
最初に、こっくりと甘いさつまいもの味がした。それからクリームの滑らかな感触とわずかな塩味、奥の方にふんわりと鼻に抜けるカリフラワーの風味。
喉がじんわりと暖まるこの感触は生姜だろうか。
ほんの一匙に様々な味が混じり合い解け合って、複雑な味がした。それがとても味わい深い。
もう一口。
さらにもう一口。
飲めば飲むほど、喉の奥に凝り固まっていた感情を圧し殺すことができなくなっていった。もう我慢できなかった。
俯くと、ぽたりと涙が落ちた。一粒落ちるともう後は止めることなどできなかった。
涙が頬を伝い次から次へとこぼれ落ちていく。
この二年。
自分のためだけに食事をしたことがなかった。
実咲貴の偏食が心配で、その偏食に付き合っている内に食事は単なる栄養補給に過ぎなくなった。朝晩は実咲貴と一緒にナゲットとポテトを食べて、昼御飯はコンビニでおにぎり二つとサラダ。
必要だから食べていた。倒れないようにただ食べていた。倒れたらなにもかも終わりだと思っていた。
素直に美味しいと思える、食事は久しぶりだった。
「っ……」
泣きながらもう一皿にも手を伸ばした。
カブはほっこりと優しい味わいで、白子は濃厚でクリーミーだった。少しの焦げ目が香ばしい。
食べている内に、ずんと腹の奥が温かくなった。冷えていた手足に感覚が戻ってくる。
泣いていたことには気づいていただろうに、修吾は貴史が食べ終えるまで何も言わず放っておいてくれた。
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