PHANTASMAGORIA 現の幻
麻生 凪
暗鬼(現代ドラマ)
夢の果て。
「この果てに見えるものって何かしら」
ありきたりな答えを書きそうになった私は、慌てて解答欄を黒く塗りつぶし、笑ってみせるのです。何かを変えたくても、そのナニカが分からないままだから。サイコロを振った先はいつも、フリダシニモドル。
「いつまでこうしていればいいのでしょうか」
これは君の声なのか、それとも私の
狐疑的に、懐疑的に、猜疑的に、誰もいない舞台の上で、微かに届く月明かりを頼りに、溜息混じりにいくつもの配役を、声色を変えながら演じるのです。
嗚呼、風凪にかわる真夜中の一寸。この夜の果て、夢の果てに、淡い淡い暗闇が揺れる水面で魅せるものは、
不条理なこの世界
私がいったい何をしたというのだ
・・・・
夫婦生活が長くなると、顔を向けない会話が増えてしまいがちだ。ましてや共働きともなれば、すれ違いも多くなる、なおさらだ。顔を向けず、言葉だけを聞いて「ああ」「うん」「へえ」と返事だけをする。慣れてしまうと自然とそうなってしまうのか、今に始まったことではない。
お互いが目を合わせることをしなくなってから、どれ程の月日が経つのかなどは、考えたことさえ無かった。
そう、あの日までは……
♢ ♢ ♢
「今日も遅くなるんだってよ。まったく、今の仕事になってから、定時に帰ったことなんてありゃしないんだから」
夜勤に出かけるところを、母に呼び止められた。
「そう言うなって。こうやって働けるのも、母さんが娘を見てくれるからだって、感謝していたよ。お陰で、やりたかった仕事に就けたとな」
「まぁ、あの子は素直でいい孫だし、困らせることなんて、これっぽっちも無いが」
「そうだろ。お祖母ちゃんが一番好きだって、言っていたよ」
「それは嬉しいことだがな、それとこれとは話が違うよ。こんなこと言いたくはないが、お前が夜勤の日には、いつも帰りが遅いんだよ、何をしているんだか」
「そんなことはないだろ、では、行ってくるよ」
「でもな、たまには外で一緒に食事でもしてきたらどうよ、ゆっくりとな。ああ見えて、
「しっかりしないと、なんだ?」
「……いやいや、なんでもない。行ってらっしゃい」
(意味ありげに、なにを言う……)
妻の行動を疑ったことなどなかったが、言われてみれば確かにそうだった。派遣社員をしていた頃は常に定時に仕事を終えていたから、食事の支度や家事の時間、娘をみてやる時間等は彼女なりに作れていたし、それに夜の営みだって。
今の仕事になってからはどうだ。当初パートでいた時分は然程気にならなかったが、一昨年の今頃、念願の正社員に昇格した途端に、会社の拘束時間がルーズになった。急遽残業を言い渡されたからと、帰宅が夜の10時を回るのも珍しいことではなかった。私も丁度、中間管理職に上がったばかりで、何時の間にやらお互いすれ違いの時間が増えた。妻に触れることさえしなくなった。仕事の忙しさにかまけてコミュニケーションを怠っていた、と言えば簡単な話だ。家の事は母に任せていたし、小学2年生の娘に手が掛かることは無くなった。
まさかなぁ。夜勤のあいだ中、疑念が脳裏を渦巻いた。帰路につく頃には暗鬼が牙を剥き、私は、私が知らない妻の日常を見てみたくなった。
家に着くと気がつけば、妻の洋服箪笥の前に立っていた。両開きの取っ手に指を掛け、おもむろに開ける。見慣れぬ服ばかりが目にとまった。……いやいやそうだ、外回りの仕事だ、仕方あるまい。動揺を制し、無理やり自身を納得させる。考え過ぎだ、何をやっている。
心を落ち着かせ、苦笑いをしながら視線を落とすと、ジュエリーボックスが視界に映った。開けてみた。中にはブランド物の小物が数点入っている。しかし其処には、目を疑いたくなるものまであった。きらびやかな品に追いやられるかのように、結婚指輪が、奥の隅っこにじっと佇んでいた。
何故、此処にある……。自分の薬指を見やった。私は一度たりとも外したことなどないのに、妻はなぜ……。狼狽える私はチェストの引き出しを上から順番に開けていた。ただひとつの目的をもって。その行為が、結果、己の心をどれ程傷つけようとかまやしない。暴走する猜疑を抑えることが出来ずにいた。
いちばん下にそれはあった。蓋付きの収納ボックスがひっそりと隠すように。大小の仕切りに合わせ、色とりどりのそれらは納められていた。黒、赤、パープル、ピンク、花がら。間違わぬ様にと上下ペアで、それはそれは綺麗に並んでいたのだ。
震える手でパープルのショーツを取り出し、あの独特の、滑らかな感触を確かめるかのように、指を這わせながら広げる。
なんて、小さいんだ……。鼠径部以外は前後が繊細なレースの透かし織り。ウエスト部分は左右が二本の紐になっている。カップを折り合わせた同色のブラも広げてみると、こちらも同様にレースの細工が施されていた。
ふと脳裏に、それらをつけた妻の姿が浮かんだ。刹那、私の理性は闇に消え失せた。
妄りがましい紫を纏った妻は、妖艶に微笑し、こちらに顔を向け近づいてくる。膝を曲げながら片足を上げ、ゆっくりと。まるで、一本の白線に沿って歩を進めるかのように、動作に乱れ無く、音も立てずただゆっくり。その視線の先に映るのは、無論、私ではない。振り返ると真っ黒な影が、白い歯だけを見せながらニヤついていた。
私の横を素通りした彼女は黒い男の前に立つと、しなやかに伸びる両手をそいつの肩に乗せ、掌を返し、赭封蝋を垂らした如くメイクした爪先を、肌に滑らせそっと下に落としながら、物欲しそうな目で誘っている。
疑念を孕んだ妄想というものは、斯くも心の均衡を崩壊させてしまうものなのか。もと通りに下着を仕舞えたかなどは覚えていない。いわんや頭を抱え膝を折る私に、そんな意識などあろう筈もない。
その夜、妻には何も聞けなかった。背中を向け眠る妻を横目に、一晩中酒を浴びた。
♢ ♢ ♢
妻は、あの日の私の行動をわかっていたのであろうが、何も聞いてはこなかった。なぜ……
明らかに証拠をその場に残していたし、仕事から帰った妻は、それを目の当たりにしている筈なのだ。が、私にとっての不都合な真実は、闇の中に置去りにされたかのように、顔を合わさぬ会話、すれ違いの生活、これまで通りの日常が其処にはあった。ただひとつ変わったものは、私の心に点った疑念の火。これだけは到底消すことなどできぬ。以後、妻の一挙手一投足に対し、異常なまでの関心をもって観察することとなった。
・・・・
そうだ
過ちを償わせねば
君が地獄で焼かれる前に
了
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