第58話 譲れないもの

 凪が頑張ると宣言した後は、いつも海斗が準備している彼女の制服や風呂の用意も凪が行った。

 なので海斗は特にやる事もなく、すぐに帰って胸にわだかまる不安を押し殺すように勉強した。

 そして翌日となり、凪の弁当を海斗が作るのは変わらず、普段通りの学校生活を終えて彼女の家へと上がる。


「お邪魔します」

「いらっしゃい」


 涼やかな声が聞こえてきたので、晩飯の食材を持ってリビングへ向かう。

 すると、海斗が帰った時と同じ状態の部屋が現れた。


「……」

「今日は頑張った、でしょ?」


 凪の言う通り、洗濯物はきちんと取り込まれ、制服も脱ぎ散らかされていない。

 昨日までなら多少積まれていた本も、今日はすべて本棚に収まっていた。

 元々、凪はやろうと思えば出来るとの事だったので、昨日の宣言通り無理しない程度に頑張ったのだろう。

 自信満々に胸を張る凪は可愛らしいが、最悪の可能性が胸の中で膨らみ、ズキリと胸が痛んだ。

 必死に感情を押し込め、微笑を浮かべる。


「はい。本当にやれば出来るんですねぇ」

「ん。これが私の実力。という訳で、早速ご褒美が欲しい」


 淡く微笑んだ凪が、座っているソファの横を軽く叩いた。

 無邪気に催促する彼女に笑みを零し、手に持った荷物を揺らす。


「ちょっと待ってくださいね。買ってきた食材を冷蔵庫に入れるんで」

「……分かった。早くね」


 しゅん、と肩を落とした凪を一旦置いておき、晩飯の材料を冷蔵庫へしまう。

 すぐに凪の元へ向かい、隣に腰を下ろした。

 ふわりと桃のような甘い匂いが香るものの、今はあまり海斗の心臓が乱されない。


「それじゃあ、いきますよ」

「うん」


 早くして欲しい、という風に期待に目を輝かせる凪の髪へ手を伸ばす。

 部屋の照明を受けて輝く銀髪をゆっくりと撫でれば、空よりも蒼い瞳がとろりと蕩けた。


「ん……」

「今日も頑張りましたね」

「海斗が頭を撫でてくれるから、だよ」


 滑らかでずっと触っていたくなる銀髪を撫でられるのだ。

 凪はご褒美と言ったが、むしろ海斗の方がご褒美な気がする。

 罪悪感という棘が海斗の胸を刺し、嫌でも凪が頭を撫でられる意味を考えさせられた。


(多分、そういう事なんだろうな……)


 少し前から、凪は海斗が掃除をしている姿をジッと見ていた。

 そして修学旅行でクラスメイトへと相談した事で、海斗への感情がより大きくなったのだろう。

 単なる男性ではなく、海斗の間違いでなければ、好意を向ける男として。

 本人が自覚しているのか、それとも自覚していないのかは分からない。

 それでも凪の表情から、友人に褒められて喜ぶ態度ではない事くらい、海斗でも察せられた。


(でも、俺にはその想いに応える資格がない)


 凪が海斗に好意を抱いてくれるのは嬉しい。

 美桜には釣り合わないと一蹴するのではなく、しっかり向き合えと注意された。

 それでも、海斗が凪の隣に居るのに相応しいとは思えない。

 まさかこんなにも早く悩むようになるとは思わず、胸にもやのようなものが溜まっていく。

 しかも、それは今海斗が悩んでいる事と関係しているのだ。

 悩みと胸の靄が頭痛となって海斗をさいなむ。

 どうしたものかと考えていると、凪が無垢な顔で首を傾げた。


「今日の海斗、何か変。調子悪い?」

「……大丈夫ですよ。でも、そろそろ晩飯を作りますね」


 これ以上凪の頭を撫でていれば、彼女にもっと突っ込まれるかもしれない。

 まだ答えは出ていないが、この距離は危険だと判断して一先ず距離を取った。

 すると、キッチンへ向かおうとする海斗の後ろを凪が付いてくる。


「凪さんはくつろいでいいんですよ?」

「ううん、手伝う。手伝って、また撫でてもらう」

「……分かりました」


 期待に満ちた目をした凪の提案を断るという選択肢はなく、苦笑しながら許可してキッチンへ向かうのだった。





 その後の料理は、凪が食材を切って海斗が調理するという役割分担で行う事になった。

 彼女が包丁を使えるのは知っているので、特に問題はなく調理は進む。

 しかし、凪と一緒に料理をする事になるとは思わなかった。


「何だか、一緒に料理するって変な感じだね」


 凪も同じ気持ちだったのだろう。

 端正な顔が苦笑に彩られている。


「ですねぇ。でも、最後は俺に任せてくださいよ」

「うん。流石に海斗の味は真似できないから、そこはお任せ」


 凪に海斗の味を真似されると、いよいよ海斗の立場がなくなる。

 彼女がその気になれば出来そうなので、冗談では済ませられない。

 流石にやるつもりはないようで、ひっそりと安堵の溜息をついて調理を行う。

 その後は手持ち無沙汰ぶさたになった凪が食器の準備を行い、これまでよりも海斗が動く事なく晩飯の準備を終えた。

 そして、晩飯を終えたら再び凪へのご褒美となる。


「んー。幸せぇ……」


 全く警戒する事なく海斗の手を受け入れる凪。

 彼女が喜んでいるのなら、これでいいはずだ。

 それでも、どうしても海斗の胸のもやは晴れない。


「…………俺が居る意味ってあるのか?」

「え?」


 思わず漏れてしまった本音が、凪に聞こえてしまったらしい。

 アイスブルーの瞳が驚愕きょうがくに見開かれた。

 美しい顔が心配と困惑に彩られ、眉を下げて海斗の様子を窺う。


「ど、どういう事?」

「すみません、何でもないです」

「何でもなくなんかない。多分、それが今日の海斗が変だった理由でしょ?」


 何とか誤魔化そうとするが、凪は決して誤魔化されてくれない。

 それどころか、言い逃れは許さないという風に海斗へ詰め寄った。

 ゾッとする程に真剣なアイスブルーの瞳に見つめられ、身動きが出来なくなってしまう。


「話して」

「いや、だから――」

「海斗は私の悩みを沢山聞いてくれた。だから、今度は私の番。お願い、話して」


 頼って欲しいと、悩みを打ち明けて欲しいという、海斗を気遣う声が耳に届く。

 本当は黙っていればいいはずなのに、胸の痛みが海斗の口を開かせた。


「……俺の役目って、凪さんのお世話ですよね」

「うん。だから海斗が毎日ここに来てる」

「でも、昨日とか今日って俺は殆ど何もしてないじゃないですか。なら、俺がここに来る意味はなくなるのかなって」


 特に、今日は海斗一人でやった事がない。

 つまり凪のお世話という、海斗がここに来ている本来の目的から逸脱してしまっているのだ。

 海斗の言葉を聞き、凪が顔に焦りを浮かべて首を振る。


「それは違う。だって、海斗が居ないと私は家事とか料理をしたいと思わなかった」

「そう、ですね。でも、俺は清二さんからお金をもらっているんです。……凪さんに手伝ってもらって、なのにお金も受け取るって変じゃないですか」


 頭を撫でられる為に凪が頑張ったのは、海斗も十分に理解している。海斗が来なければ、凪は再び何もしなくなる事も。

 だが、最早お金が発生してはいけない状態なのだ。

 少なくとも、これまで受け取っていた金額には釣り合っていない。

 そして、金額を減らせば海斗は生活出来なくなってしまう。


(そんな事、絶対に言えない)


 今まで通りにお金をもらいつつも、凪と一緒に家事や料理したいと提案すれば、彼女は許可してくれるかもしれない。

 それどころか、懐事情を話せば凪は海斗を気遣ってお金を出してくれる可能性だってある。

 しかしその二つの選択肢を取ってしまえば、海斗は物乞いと同じだ。

 一人の人間として、清二に鍛えられた者として、それらの選択肢は絶対に取れないし言えない。

 海斗とて、譲れないものはあるのだから。

 幸い、話したくない事を口にする前に、凪も最悪の可能性に思い至ったらしい。

 白い頬が少しずつ青くなっていく。


「で、でも、それで私と海斗、それと清二さんが納得してるなら――」

「……すみません。俺が、この状況でお金を受け取るのを許せないんですよ」


 凪の言い分はよく分かる。清二に凪と二人で頼み込めば、もしかしたら許されるかもしれない。

 清二に海斗達の状況を黙っておくという手もある。

 しかし、そんな甘えを海斗自身が許せなかった。

 凪の提案に胸が温かくなりつつも必死に感情を押し込めて断ると、彼女が瞳を揺らし始める。


「なら、もしかして、海斗は来なくなるの……?」

「この状況が続くなら、そうした方がいいんじゃないかと思います」


 今にも泣きそうに震える声に違うと言いたくなったが、正直に伝えた。

 凪が海斗を異性として意識し、明確に自覚せずとも好意を抱いてくれている。

 その結果、凪が家事や料理を手伝ってくれるのは、状況を抜きにしたら嬉しいのだ。

 なのに凪に甘えてしまうと、海斗はここに居られなくなる。

 好きな人と触れ合いたい。たったそれだけの事が、海斗と凪の関係を壊してしまった。

 どうして上手くいかないのだろうかと頭を抱えたくなるが、それだけは許されないと歯を食いしばって耐える。


「……」


 海斗の言葉を受けて、凪が固まる。

 何を言われてもいいようにジッと待っていると、揺れる蒼の瞳から雫が落ちた。

 まさか泣かれるとは思わず、どくりと心臓が跳ねる。


「な、凪さん」

「……今日は、帰って」

「えっと、それは――」

「明日は日曜日だから、早めに来て欲しい」


 凪の言葉に今すぐクビにされるのかと肝が冷えたが、どうやら違うらしい。

 安堵に胸を撫で下ろすものの、凪の意図がさっぱり分からなかった。

 とはいえ、この状況で問い詰めても何も言ってくれないだろう。

 そう判断し、ソファから立ち上がる。


「……了解です。それじゃあ、お邪魔しました」

「うん。また明日、海斗」


 また明日という言葉が、関係は切れていないのだと実感させてくれた。

 胸が僅かに温かくなるものの、今はそれ以上に不安の方が大きい。

 リビングから玄関に向かうが、いつも見送ってくれるはずの凪は、リビングから出てこなかった。

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