シエラ
ジュマペール
第1話
湾曲した幅の狭い階段を下った酸素の乏しい地下の空間に、その店はあった。マジックミラーの向こう側に見える一から十四までの番号の振られた赤いソファには、女たちがまばらに座っている。うつむいてスマホをいじる女、マジックミラーの鏡としての機能を利用して入念に化粧をする女、「女性はお菓子食べ放題」という店のシステムに素直に身を
一方、マジックミラーのこちら側では、オスの本能をむき出しにした男たちが、女たちを無遠慮に観察している。スマホの操作に没頭している女の手前では、頭皮に自信のなさそうな背広の男が、立ったままでは到底確認できない角度に
私は、フロントで「石川五右衛門」という偽名を使って入会手続きを済ませ、ほんの五分程前にこの空間に立ち入る権利を手に入れたところである。会員番号がたまたま「六六六六」とゾロ目だったのを、なかなか珍しいですよと店員に感心され、返事をする代わりに咳払いをしながら、今日はついているかもしれないとほくそ笑んだ。会員証を手にして、灰色と
実際、スマホの女は、この状況で顔を伏せたままでいるという行動から、文脈を読む力が
私には、九箇月前までは、ホームセンターで共に玄関マットを選ぶような間柄の女がいた。しかし、女は突然合鍵を置いて私の部屋を出て行った。あなたといると
高校時代のことだが、相撲のまわし一丁で
大学時代には、「待ち合わせ場所」と
振り返れば我ながら狂人としか思えないそれらの
事故的な
生活を安定させるために資格を取ろうと思って、通信教育におよそ百万円を振り込んだ、コスモスの揺れる晴れた日の夕方のことである。女性は合鍵を置いて私の部屋を出て行った。
「あなたといると寛げない。胸の奥の方で、ずっと怒っているような気がする。口のにおいが結構きついから、キスするとき息を止めてたの、気づかなかった? すぐにお腹が痛くなるのもイヤ。守ってもらいたいのに、どうしてこっちが守らなきゃいけないのっていつも思ってた。手をつなぐときのあなたの手汗に、嫌悪感しかないことに、最近気付いてしまって。優しい人だとは思うけれど、もうあなたに、異性としての感情はない」
と、嫌いな理由をこれでもかと列挙され、すっかり動転した私は、かすれた声で「ごめん。今まで付き合ってくれてありがとう」と言うのが精一杯だった。
人間恐怖症をこじらせ、しばらくはマスターベーションすらできなくなった。アイドルの写真集もアダルトビデオも
自分の
今この胸の内にある失望が、それを見事に証明している。
マジックミラーの向こう側の赤いソファに座っている女たちの様子を見て、その身の程知らずのおこがましい期待が、
このような失望は人生で
黒いワンピースの肩を
私は店を退出するという案を即座に自ら却下した。周りの男たちが一斉にそわそわし始めたことを空気の振動で感じ取ると、私は壁に設置された女性たちのプロフィールカードのフォルダーまでぎくしゃくと移動し、六番のカードを、スリの見習いのごとく震える手で抜き取った。そして息継ぎをする間も惜しんで、その女性へのメッセージカードを短い鉛筆で震えながら埋め、プロフィールカードと二枚重ねて、これまた震える手で店員に渡したのである。メッセージカードには、「ひとりでカラオケに行く勇気がないので」と書いた。氏名の欄に「石川五右衛門」と書きながら、また間違えたと思った。
女性のプロフィールカードの名前の欄には「シエラ」と書いてあった。外見にふさわしいきれいな名だと思ったが、こちらが偽名ならば、あちらもそうだろう。
そして、店員に指示された小部屋に移動し、フランス人形の到着を待つこととなった。
小部屋は、人が二人ようやく並んで座れる程度の空間である。ハンカチで手汗をぬぐい、口臭予防スプレーを口内に
今やフランス人形と私を
気の利いたセリフは準備が間に合わなかったため、ひとまず世界で最も当たり障りのないカードを切ることに決めた。
「こんにちは。はじめまして」
かろうじて声は震えずに済んだと思う。フランス人形はつまらない男と思っただろうか。怖くて表情をうかがうことすらできない。食道から肛門までの消化器官が、固まって活動を休止している。早くも腹が痛くなってきた。
「こんにちは。座ってもいいですか?」
「どうぞ」
「失礼します」
フランス人形が隣に座った。
「正直に言うと、ぼく今ものすごく緊張しています」
声が震えてしまった。
「ワタシもです」
フランス人形が
もうすでに、フランス人形に恋をし始めている。
「シエラさん、でしたよね」
「ハイ」
「シエラさんが鏡の向こうの部屋に入って来た瞬間、心臓が止まるかと思いました。
「えっ、本当ですか。ウケる。心臓、まだ止めないでください。困ります」
ウケる。この言葉が地球上に存在することは知っていた。しかし、到底自分には縁のない言葉だと思っていた。そんな伝説の言葉が今、
「心臓が止まると言えば、実はぼく、この間、結構な
先日、ただ街を歩いていただけなのに、車道と歩道を分ける段差に足を取られて、左膝の前十字
「ええっ、手術したんですか。ワタシ、痛いの苦手なんです。痛かったですか?」
フランス人形が眉を「ハ」の字にして、私の胸に
バリアは?
バリアを感じない。
バリアが、ない?
物心がついてから初めて、自意識によるストッパーがゆるみ、自分の中でそれまで
「ものすごく痛かったです。その後、何のスイッチがどうして入ったのか分からないのですが、やたらと
「ほんとですか。ヤバくないですか、それ」
「ヤバい」とか「ウケる」とか、これまで、そんな言葉を使う馬鹿な女は、それだけで死刑に処するべきと考えていた。しかし、このフランス人形に「ヤバくないですか」と問われた時、自分の誤りを即座に修正した。
「ヤバいですよね。自分でもそう思います。そして、退院した後もそのヤバい状態が治っていなくて、街を歩いていると、すれ違う女性十人に一人くらいの割合で胸がキュンとなってしまうんですよ」
「マジウケるんですけど」
またウケた。しかも今度は「マジ」と「けど」までついた。丸くて透明な笑い声に鼓膜を撫でられ身をよじりたくなる。調子が良過ぎて今日の帰り道、ビルの屋上から身を投げた人が降ってきて、その巻き
「話は戻って、シエラさんが向こうの部屋に入って来た時のことなのですが」
「ええっ、そこまで戻るんですか。寄り道が長過ぎますよ」
叱られた。
しかし、こんなこそばゆい叱られ方は、初めてである。
「すみません。あの瞬間は、胸がキュンどころではなく、
「ウソばっかり。オモシロい人ですね」
幻聴ではないかと己の耳を疑う。面白い人。本当に自分に向けられた言葉か。前回この言葉を言われたのは一体いつだったか。その記憶に
「本当のことを言っただけです」
「ウソ」
「すみません。嘘です。でも、シエラさんが素敵というのは本当です」
「ウケる」
ウケる。天女の琴の調べか。こんな
「シエラさん。あの、ひとつ
「ハイ」
「その、正直なところ、ぼくは、ありでしょうか、なしでしょうか」
「え? アリ、ナシって何ですか?」
「この後のことです」
「このあとって?」
駄目だ。眉根を寄せられた。いつもの流れだ。結局ここまでか。しかし、こんなに魅力的な、しかも波長の合いそうな女性とは、もう二度と出逢えないような気がする。どうせ斬られるのなら、後悔せぬよう真っ二つに斬られよう。
「ぼく、カラオケが割と好きなんですけれど、一緒に行ってくれる人もいなくて。もしよろしかったら、ぼくとカラオケデートをしてもらえませんかっ」
母親の胎内から外に出たとき以来の勇気をふるって一息に言った。
「いいですよ」
いいですよ、いいですよ、いいですよ、いいですよ、
フランス人形の声の波が、スピンしながら耳の内側の壁を乱れ打つ。脳内はもはや祭りである。
「ただ、一個だけお願いがあるんですけど……」
フランス人形の声に、
「あ、分かります。あれですよね。もちろん了解です。与謝野晶子くらい、ですか?」
店に来る前にネットで予習しておいて正解だった。小遣いのことだろうと察した。いわゆる「援助交際」というものに不可欠な要素である。「与謝野晶子」は、その肖像が紙幣に使われている五千円を意味する。それはそうだ。こんなに素敵な女性が、私のようなものと無条件でデートをしてくれるわけがない。波長が合うなんて、ほんの
「え? ちがいます」
五千円では足りなかったか。
「そうですよね。シエラさんは素敵だから、湯川秀樹ですよね。問題ないです」
ケチな男だと思われたか。慌てて一万円に値上げした。
「そうじゃないんです。デート一回につき、あなたの命を、呼吸五八八万二三五三回分いただきます。ワタシ、こう見えても死神なんですよ」
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