(弍)嘘と真
戻った部屋にはすでに興長がいて、ユキは後ろ手で戸を閉めるとその場にへたり込んでしまった。安心して気が緩む己に情けなく自嘲する。興長は目を見開いて、ユキに駆け寄る。
「カゲユキ! 戻ったか」
「興長さん……」
「随分遅いと心配していたんだ…………なにがあった? ひどい顔色だ」
横になれと、興長が敷いていた布団にユキを向かわせた。桶に湯が溜まり、硬く絞った布を渡される。帰るのを待って準備してくれていたのだろう。えんきりと上着も手早く回収された。
「ありがとうございます」
「妖刀を使いすぎたのか」
「……おえんは、関係ないです」
ユキは無理矢理に口角を持ち上げた。自分でもわかるくらいにひどく歪な笑顔だった。
大人しく横になって、天井を見上げる。心配そうに興長が覗き込むのを、ぼんやりと見た。
「あの、アンドレさんは──?」
「シルバ殿は無事に舟に乗ったよ。舟が岸を離れるのは見たし、きみのおかげで道中襲われることもなかった」
「……舟の上とか、ミヤトで襲われたりはしませんか」
「それは大丈夫だ。本当に万が一の為に、ちゃんと身を護る護符のようなものは渡しているしね。彼を傷つけたら等しく返ってくる応報の術もかけておいた」
そこまで聞いて、ユキはようやく小さく息を吐いた。この人が無事を保証するならきっとそうなのだろう。
「……よかった」
「ミヤトは大きな街だし、汽車に乗って行けば首都にも行けるしね──そうだ、礼金は貰っておいたよ。改めて落ち着いたら僕たちに手紙をくれるそうだ。旅先でも受け取れるようにしているから、僕たちは待つだけで良い」
「手紙……楽しみ、です」
「それで、きみも安心できるだろう」
「はい」
気が緩み、つん、と鼻先が痛んだ。瞼の裏に昨日の光景が蘇る。じわりと涙が込み上げてくる。起きてしまった、起こしてしまったこと。弛んだ心ではとても受け止めきれない。
興長に言うかどうかはほんの少しだけ迷った。幻滅されたくない気持ちもあったが、それでも、誰かに聞いてほしい、どうせ隠せはできないのだという気持ちが大きかった。
気がつけばこぼれる。
「興長さん」
「どうした」
「……さ……櫻葉のこと、ですけど」
「──ああ、聞いているよ。今朝方に病気で、だったか。嫌な偶然があったが、きみが気にすることはない」
「違うんです」
ユキは腕で顔を覆った。暗く閉ざされた視界で、昨日の光景が浮かぶ。飛沫、生臭くて、こびりついて離れない。
「俺が、俺が斬ったからだ」
「…………いいや、それはないだろう」
「俺が斬ったんだ。俺があの人を殺したんです」
「カゲユキ、違う」
「俺は……ひとごろしなんです」
興長の掌が頭に触れる。ごつごつして、乾燥して、父の手を思い出させた。余計に涙が堪えきれなくなりそうで、ユキは唇を強く噛んだ。
「落ち着くんだ、カゲユキ。聞いて」
「斬る必要なんてなかったのに、俺はあの人の腕を落として、身体も斬って、血が流れて」
「必要はあったんだろう。少なくても、きみがそうする理由があったんだろう」
「……わからない」
「…………そうか。きみは、本当に彼を殺したと思っているんだね」
優しい声が、余計に首を絞めてくるようだった。無理に言わなくてもいいということはわかってる。言葉に詰まる。
「聞いてくれ。きみは、あの男の首を落としたのかな。わざわざそこまでしたのかい」
「そんな……そんなことしません」
「その心臓を抉った?」
「しないです、そんなこと!」
「それならひとつだけ。彼の死がきみのせいではないと訂正させてくれないか」
興長の言葉の意味がわからずに、ユキはちらりと興長を見た。優しい視線が上から見下ろしていた。
「俺のせいじゃないって……?」
「そう、きみのせいじゃないんだ。僕はそれを知っていたのに、すまない、きみに嘘をついた。許してくれ、きみを悪戯に混乱させるのもよくないし、あの男のことできみが気に病むものではないと思ったんだ。一般的には
興長は慎重に言葉を選んだ。先の病気云々は咄嗟に口をついて出てしまったのだと。
「櫻葉カズマは病死ではないのはその通りだ。────この依頼を受ける時に、僕には野暮用があると言ったのを覚えているかな」
「……はい」
「領主様から頼まれて、この町の役人にちょっとした用事があってね。僕自身、町には早朝に戻ったんだけど、宿に来る前に役人屋敷に行ってきたんだ。そこで僕は役人から櫻葉が死んだことを聞いた。表向きは病死にされているが、実際は違う」
「違うって────」
「彼は首を斬られて死んでいたのだと、そう聞いた」
「……え」
「だからきみに聞いたんだ。彼の首を斬ったかとね」
「ま、待ってください!」
跳ねるようにユキは身体を起こした。
「どうして、そんなことに」
「彼が咎人だからではないかな」
落ちてきた声に、ユキは息を飲み込んだ。
咎人。
父に当てはめられたそれと同じ短い言葉が、興長の口から出てきた。咎人だから? 咎人だから首を落とされた? 落とされても仕方がない? ユキはめまいを覚える。
父の顔が、記憶の中の櫻葉に重なる。
「咎人、だからって……」
「彼が人の恨みも買う商売をしていたのは確かだ。彼は悪事に手を染めていた──それこそ、今回の話の前からずっとだ。グレーゾーンでのらりくらりとやっていた男が、どこかで越えてはならない一線を越えたんだろう。何処かで役人か、お偉いさんを怒らせたんじゃないのかな。だから闇討ちに遭ったんじゃないかな」
「……それで、首を斬られるんですか? なんの、調べもされることなく? 怪我をしているからこれ幸いと、その怪我の原因さえ調べずに」
声が震えた。
偉い人が気に入らないなら、咎人とされるならば無惨に殺されても仕方がないというのは、相手が悪人だとしてもあまりにひどい。罪人がいて、役人がいて、調べと裁きがあって、初めて沙汰が下される物だと信じていた。
動揺するユキに、興長は困ったように頬を掻く。
「いや、常であれば違うよ。きみの知っている通りだ。ちゃんと役人が冤罪でないか、余罪はないかをしっかり調べるものさ。今回は調べる必要もない、明白な罪であると、そういう裁きなんだろう」
「……今回は、病気で死んだということで片付けられるんですか」
「まあ、闇討ち人のことは公にはなっていない。そういうことになるだろうな。……カゲユキ。こういうこともあるんだよ、世の中には」
「は、はは……ひどい、ですね」
思わず乾いた笑い声をこぼした。
「俺は」
ユキの道は父が死んだことで狂い出した。
あの人の家族か、近しい人を狂わせたのは己だと思うと、手が震える。ユキは少年を助けるために悪人を退治した、或いはそのきっかけを作った。おえんは善いことをしたと言う。興長はユキのせいではないと言う。
たとえ殺したのが第三者でもユキが加担したのは確かなのだ。咎人の子が、咎人を殺す幇助をした。
最後に命を刈り取ったのが誰であれ、ユキのしたことは変わらない。その事実が意識の奥にこびりつく。
「それでもやっぱり、俺が櫻葉カズマを、殺したんだと思います」
「……何故?」
「俺が斬った傷も浅くなかったんです。きっと、その誰かがあの人を殺さなくても」
「まったく、きみも頑固だな。君のせいじゃない。それは斬った妖刀殿が一番わかってるはずだが──」
興長が視線を向ければ、「あたしもそう言ってるだろ? ユキ」とおえんが口を尖らせた。
「わからないんです」
「……今急いで結論を出すことはない。どうしたいかを考えるといいよ」
柔らかく、優しく、興長はユキの頭をくしゃりと撫でた。
「まずはゆっくり休めよ、カゲユキ。きみの行先やこれからを、落ち着いてから考えても遅くはないだろう。世の中について、きみは知らないことが多すぎる」
ユキは頷いた。手を見る。何度も強く洗ったのに、血で汚れているような気がして気持ちが悪かった。
「これに、慣れそうにないです」
「慣れるな、カゲユキ。それに慣れてはいけない」
「わかってます」
「きみが殺したのではないと僕の認識は変わらない。だけど、人を斬ってしまった今の気持ちはずっと忘れないでいてくれ。まだきみには重くて辛いだろうけど、それを忘れたらいよいよ戻れなくなるから」
「……はい」
「さ、妖刀殿に気力を渡せばしばらく起き上がるのも辛かろう。今のうちに食べておいた方がいい。何か買ってくるから安静にな」
ぽん、と頭を撫でられて、ユキは小さく頷いた。えんきりを引き寄せて、胸に抱く。
興長は物言いたげにえんきりを見つめたが、何も言わずに部屋を出ていった。ユキは「おえん」と小さく呼びかけた。
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