第84話 全てを助けられる訳じゃないけれど
飢えと孤独は、心を闇の中へと引きずり込んでいく。
生かすために与えられる最低限の食事、雨水なのか泥水なのか分からない、ピッチャーの中の濁った水。
毎日叩きつけられる暴力も辛かったけど、飢えと孤独はヴィトリアを必要以上に蝕んでいった。多分、あの時に、頭をぶつけて生まれ変わる前の記憶を思い出さなければ、きっと心が壊れていただろう。
物語の中でヴィトリアは確かに悪役となって登場したわけだから、そのうち、フォルハス将軍か長兄であるリカルドが見つけて、助け出す展開を迎えたのだろう。
その時にはすでに手遅れになっていて、心を壊されたヴィトリアは周囲を極度に恐れ、過剰なまでの愛情を欲し、相手を疲弊させ、そうしてヒロインに対しては激しい嫉妬の炎を燃やしたのだろう。
だけど、そうなる前に記憶を蘇らせたヴィオは、あの物置部屋から逃げ出すことに成功した。
別邸の隅、壊れかけた扉の向こう側に広がる世界は、沢山の物で埋め尽くされていながら、必要な物は何一つとしてなくて、壊れた壁からは常に隙間風が吹き込んでいた。
なんであの時、壁の割れ目から自分の手を外に出していたのか、よく覚えていないけれど、もしかしたら外界にいる誰かとの交流を望んでいたのかもしれない。
裏庭に面した誰も通らないような場所だから、手を出しているのを誰かに見つかって怒られる事もない。誰も気付かないのに、何故、手を外に出しているのか。
自分でも分からないまま時が過ぎていく中で、ある日、突然、手のひらの上に何かが乗せられた。その何かを握りしめて引き寄せると、クッキーが手のひらの上にあった。質の良い物ではないけれど、久しぶりの小麦粉と砂糖を混ぜ合わせた味に、口の中が蕩けそうになる。
もう一度手を出すと、またクッキーが乗せられた。それを5回ほど繰り返した後に、
「これで終わりなの、ごめんね」
と言われたので、
「ありがとう」
と、お礼を言った。
汚れたガラスの向こう側を覗くと、洗濯物を抱えた若い女性が本邸の方へと移動していく。
おそらく、休憩の時にもらったお菓子を彼女はわざわざ持って来てくれたのだろう。
低い鼻に小ぶりな唇、栗色の髪の毛の女性は、生真面目そうな表情を浮かべながら、その瞳には憂いと優しさを讃えている。あの日から、度々現れるようになったあの人の、小さな私の手に触れたあの人の指は、あの時の私には確かに支えとなっていた。
「ああ、あの時のあの人だ・・・」
入れ替わりが行われた瀟洒な屋敷の中で、あざ笑うようにこちらを見る貴族籍を持つ侍女たちの後ろの方で、お湯を取り替えたり、着替えを片付けたりと忙しそうに働いている姿を見て心が動かされる。
彼女は病気の弟が居たから、お金をちらつかせながらこちら側へと引きこむのは簡単な事だっただろう。生真面目で黙々と働く人だから、重宝されたに違いない。
公爵家を裏切った侍女たちが王都に戻るときには、もしかしたら一緒に行こうと声をかけられたかもしれない。だけど、彼女はベアトリスの事が心配で、最後まで付き合うつもりでカルダスの領主館に残ったのだろう。
自分が主家を裏切った事も理解している、国を裏切った事も理解している。だから淡々と、自分の死を受け入れている。
「シスターアマリア、ヴィオです」
扉をノックすると、ふくよかなシスターが扉を開けて、優しくヴィオを抱きしめてきた。
「ヴィオ!久しぶりね!あなたに会いたかったのよ!」
自室へ招き入れると、紅茶を用意しながら、ソファに座るヴィオを振り返って言い出した。
「あの二人の事を聞きたいのでしょう?全然問題ないわ!レイチェルさんに至っては、諜報員?嘘でしょう〜?って感じだわ!」
「ですよね〜」
ヘンリーの手紙は確かにレイチェル・Wと書かれていた。しかも、ヘンリーの事も知っているし、ペリグリンの実家で働いている。なぜ、手紙と同名の彼女が誘拐されていたのか?単なる偶然だったのか?それとも、これも何かの作戦だったのか?全くよく分からない。
「ケイショちゃんもよく働いてくれるのよぉ、力持ちだから本当に助かっちゃう!」
「そうですか、だったらよかったです」
テーブルの上に置かれた焼き上がったばかりのクッキーを口に放り込む。
「それでね、ベラの事だけど、こちらの方で預かるという形で問題ないと思うのよ」
ベアトリスの世話をし続けていた侍女のベラとの面談を、修道女長は何度も行っているという話は聞いていた。
「この世に居る全ての女性を救ってやろうなんて決意させてくれたのはあなたのお陰だもの!ベラさんだって助けたいわ!だけど、軍部の出方が私は心配で」
「軍部の方は大丈夫ですけど、メロヴィングの出方も心配なので、ここでベラという侍女は行方不明となって、名前も捨てさせましょう。それから、中部の修道院で再スタートをしてって感じでいいかなと思うんですけど?」
「まあそうね、北と南はスパイが多いから、中部に移動した方が良いかもしれない。だけど、中部は中部で激戦地となる可能性も高いわけだし」
「そこはもう、どこに行っても同じだと思います。その時に弱者を守るのは我々の役目となるですから、その時に動けるように学んでもらいましょう」
「そうよね・・・」
アマリアは大きなため息を一つ、吐き出した。
教会、特に修道女会を巻き込む形で、弱者の為の避難所の設置、教会での備蓄、周辺住民の避難誘導、さらには暴力を受けた女性や子供の保護にも乗り出してもらう事にしたのだが、母性と慈愛と博愛精神を掲げまくって活動してくれる、各部署の責任者たちが上手い事立ち回ってくれているのは有り難かった。
「ねえヴィオ、あなた寝ているの?」
「え?」
「今日はもう寝ていきなさい?やるべき事があるなら明日やればいいのだし」
「いやいや、そんなわけには・・・」
領主館での殺人事件、テレサ女史が殺されて、ベアトリスが行方不明。ペリグリンさんは捕まって、地下の倉庫に押し込められているという。早くムーア将軍を説得してもらわなくちゃ大勢が無駄死にする事になるんだから、早いところ解決しなくちゃいけないんだろうけれど、まずはじめにヴィオが訪れたのがオビドスの修道院だった。
「ふああああああああ」
リラックス効果のあるハーブティーは、徹夜続きの体には予想以上に作用する。
「まあ、夜にペリグリンさんに会いに行けばいいか・・・」
ソファにそのまま寝転がると、アマリアが何も言わずにブランケットをかけてくれた。
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