第58話 諦念の渇望―常闇の魔女―

 

 コツ、コツ、コツ……



 聞こえてきたのは石畳を歩く足音の反響ひびき


 誰か近づいてきたのかと顔を上げて見れば、闇の中に見えるシルエットは女性のもの……



「トーナさん!」



 やって来られたのはメリルさんでした。


 彼女は勢い込んで鉄格子を掴み私の名を呼びました。ですが、私はただ寝台に腰掛けたまま力無く彼女を見上げただけでした。



「メリルさん……もうお身体は宜しいのですか?」



 彼女は病み上がりで、まだ回復してから日が浅い筈です。



「えっ、ええ、トーナさんのお陰ですっかり」



 私の淡々とした対応に面食らったのか、メリルさんは目をぱちくりさせましたが、すぐに勢いを取り戻し鉄格子を握る手に力が篭りました。



「私よりもトーナさんの方が心配です」



 メリルさんは若く、純粋で、真っ直ぐな方なのですね。



「私を治療したばかりにこんな無体な目に合わされてしまって……どうお詫びすればよいか……」

「メリルさんの責任ではありません」



 ここに投獄したのは伯爵で、それをそそのかしたのはガラックさんとオーロソ司祭なのですから。


 彼女にいったい何の咎がありましょう。



「ですが、母は自分可愛いさに口をつぐんでしまいました」



 申し訳なさそうに表情を曇らせるメリルさんに、彼女の純粋な気持ちが伝わってきました。


 貴族である伯爵と対決するなど自殺行為なのです。


 誰もが保身に走るソアラさんと同じ行動を取ったでしょう。


 それなのに、普通の女性であるメリルさんが私の為に憤り、尚且つ危険を犯してまで私に会いに来てくれた……


 お祖母様の言う通りでした。諦めてしまえば分かり合える機会さえ失ってしまう。


 私は最初から私を受け入れてくれる人などいないと決めつけてしまっていたのですね。


 もっと街の人達と積極的に関わるべきでした。



「この仕打ちはあんまりです……トーナさんは何も悪くないのに」

「いいえ……私も悪かったのです」



 私の薬は他の薬師のより優れている。

 私ならどんな病だって治してみせる。

 病気さえ癒れば文句はないでしょう?


 私にはそんなふうに何処か心の奥底に不遜な思い上がりがあったのです。



「私は傲慢でした……」



 お祖母様はいつも仰っていたではないですか。


 医療は理不尽なのだと。

 人はどう足掻いても死を迎えるのだと。


 お祖母様はいつも忠告していたではないですか。


 病ではなく人を診るのだと。

 患者と信頼関係を構築しないといけないのだと。



 私は多くの病気を治癒してきました。

 私はたくさんの患者を診てきました。


 その中で患者の微妙な症状や訴えを読み取り、治療が困難な病や表に見えない隠れた病を癒してきました。


 それこそがお祖母様の言う病ではなく人を診る事なのだと思っていました。


 その意味も確かに含まれていたのでしょう。

 ですが、お祖母様の伝えたかった事はそれだけではなかったのです。


 向き合うべきは人……


 ただ病に苦しんでいるのが、その患者の全てではないのです。


 患者とはただ病を背負った人ではないのです。

 家族も、思想も、嗜好も、生きてきた歴史も、色々なものが積み重なって個を形成しているのです。



「それなのに、私は患者をただ病気を抱えている人としてしかみていませんでした」



 そんな筈はないのに……



「彼らにも営んできた暮らしがあります。それを頭では分かっていながら、目を向ける事はしなかった……」



 メリルさんは私の述懐を黙って聞いてくれました。



「彼らの不安や絶望、怒りや嘆きを無視して医療を行ってはいけなかったのです」



 そして、信頼関係を結ばずに彼らの想いを、感情を理解し癒す事は出来ないのです。



「お祖母様はいつも正しい……」



 病も死も人にとっては抗う事のできない理不尽です。



「だから、私達は患者に寄り添う必要があったのです」



 ですが、患者と信頼関係を築いてこなかった私に、どうして彼らと寄り添う事ができるでしょうか?



「ですがエリーナ様の件はトーナさんとは無関係です。あんなのガラックさんとオーロソ司祭の完全な言い掛かりではないですか!」

「もう良いのです……」

「良くありません!」



 メリルさんを見ていると、私はどうして今まで街との関係を拒絶してしまっていたのか……後悔ばかりです。


 関係を改善する機会はきっとあったのですね。

 愚かにも私はそれを自ら捨ててしまっていた。



「伯爵もどうしてあんな言い分を聞き入れてしまったのか……」



 それは私の方が正しいと認めてしまえば、それを退けガラックさんとオーロソ司祭に任せた己を否定しなければいけませんから。


 伯爵は娘の死という理不尽に耐えきれず、ましてやそれを自分の判断が招いたなど……もう、それを認める余裕を失ってしまったのでしょう。



「絶対にトーナさんを助けますから」

「お止めくださ……どう足掻あがいても私は助かりません」



 今の伯爵は決してこの決定を覆さないでしょう。

 それは自分の全てを否定する行為なのですから。



「で、ですが!」

「もう何をしても無駄なのです。メリルさんが伯爵に楯突けば、処罰を受ける者が一人増えるだけの結果になります」



 今の伯爵に正常な判断は出来ないでしょう。

 私を庇えばメリルさんも無事では済まない。



「あなたは生きてください……」



 それに……



「私は疲れたのです……人から憎まれ、蔑まれ、貶められる事に。そんな人達を恨まずにいようと自分の感情を抑えつけ、自分の心を殺す事に……」



 もう疲れてしまったのです。



「お祖母様の元に行きたい……」



 私は零れ落ちる涙をそのままに、ただお祖母様の姿を思い浮かべました。


 心に浮かんだお祖母様はただただ優しく微笑み、私を温かく見守ってくれていました。

 それはかつてのくらしの記憶を呼び起こし、胸に懐かしさと心寂しさが胸に到来する。




 ああ、お祖母様……今すぐお祖母様……あなたに会いたい……

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