第33話 実演―常闇の魔女―


 ザバッ――



 私はほんの微かな躊躇ためらいも見せずに、自分の傷口に生理食塩水をそそぎました。



 確かに生理食塩水とは、お湯に食塩を溶かしただけの塩水です。


 ですが、先ほどのお湯とは異なり傷を侵食せず、むしろ侵された傷を優しく包み込んで残存していた痛みも取り除いてくれたようでした。



「この通り痛みはまったくありません」

「う……そ……」



 いささかも顔色の変わらない私を見て、ソアラさんは目の前で起きた出来事に衝撃を受けています。


 しかし、どれほど信じ難くとも、これが事実なのです。



「薬学はとても進歩しましたが、同時に医学も発展しているのです」



 まあ、我が国の場合は薬学において他国の追随を許さないくらい進んでおりますが、こと医学に関してはいま一歩の状態なのです。


 それがガラックさんの薬至上主義の温床になり、バロッソ伯爵もその考えを盲信する原因となっているのかもしれません。



薬師くすしが研究を積み重ねて多くの生薬や薬剤の精製法を編み出した様に、医師も臨床で多くの患者を治療する経験の中で様々な医学的な知見を得ているのです」



 私は自分で付けた切り傷に軟膏を塗布しながら説明を続けました。

 痛みもなく、血も止まりましたので、治療に支障はないでしょう。



「そして、ある決められた濃度の塩水を生理食塩水と呼称し、既に医師の間では常識となりつつあります。また、更に医学の進んだ国では直接血管内に生理食塩水を投与する手技もあるそうです」



 ここら辺の医学情報はテナーさんを始め、薬を卸して私と懇意にしてくれている医師達から直接ご教授いただいているので間違いありません。



「この国では普及が進んではおりませんが、今では洗浄の他にも脱水の治療や薬を体内に直接投与するのに生理食塩水を使用する研究も進められているのです」



 気が付けば、こんこんと説明する私の言葉にハル様だけでなくソアラさんも黙って真剣に耳を傾けていました。



「今から傷を洗います」



 その宣言にソアラさんは頷き、反論はありませんでした。


 これならもう大丈夫でしょう……



「傷の洗浄は大切です。これをおろそかにすると傷口が化膿し、最悪の場合は膿から生じた毒が全身に回り死に至る場合もあるのです」



 今まで患者への説明を怠っていた報いでしょうか、どうにも私は説明が上手くないようです。


 それでも、なるべく詳しく解説しながら、メリルさんの腕に巻かれた包帯を解いていきました。



「これは……酷い」



 その下から現れたのは、鋭い牙で穿ったと思われる咬傷とその牙で皮膚を裂いたであろう裂傷でした。


 そして、とてもまずい事に、それら傷の洗浄が不十分であると言わざるを得なかったのです。



「やはり、傷を殆ど洗っていないのですね」

「はい、この子が凄く痛がって……とても見ていられなくて……」



 牙で左前腕部の中ほどから肘部付近まで裂かれ、皮膚脂肪も破れて赤い筋肉が覗いています。


 こんなにも深い創傷に真水を掛けたのです。

 激痛と言う表現でも生易しかったでしょう。



「汚れがだいぶん残っています」



 皮膚がめくれ、そこから赤い肉が覗き、その周辺が黒ずんでいました。

 特に表皮が剥けた根本や皮膚がべろりと垂れた箇所は土が入り込み黒く汚い状態です。


 それらを確認した私は受け用に水桶を置き、生理食塩水を掛けながら優しく丁寧にその傷を洗い始めました。



「まったく痛がっていない……私が洗った時はあんなに暴れたのに」



 傷口に触れているにもかかわらずメリルさんが大人しくしているので、ソアラさんはかなり驚いています。


 さて、創面は綺麗になりました。


 ですが、剝けた表皮やめくれた皮膚は壊死しており再生は見込めません。

 それどころか、これらを放置していると化膿の原因になるのです。



「これから傷の処置を行いますが、それにはどうしても痛みは避けられません」



 ですので、どうしても切り取る必要があるのですが、当然これには痛みが伴います。


 私は鞄から水薬瓶を取り出しました。



 これも実演をしなければならないでしょう……

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