第45話

 母はどんな人かと聞かれたとき、天音あまねはいつも「普通だよ」と答える。

 蓮山翠はすやまみどり、四七歳。

 専業主婦だが週に三日ほど近所のスーパーに日勤パートに出ている。

 家事スキルは普通だと思う。母の料理は好きだし、家は常に綺麗にしていた。

 口癖はルールを守りなさい。これは父もよく言っている。ルールを守ることで、ルールに守ってもらえると、口酸っぱく言われ続けている。

 特徴と言えばそれくらいだ。

 父とは特に仲が悪いわけではないが、典型的な「教育はお前に任せた」という空気があったため、先の「ルールを守る」というもの以外は父から天音に干渉はない。学校のことは母と天音での取り決めで、父へは事後報告になっていた。

 特別厳しかったかと言われれば、そうは思っていない。

 悪いことをすれば怒られるし、良いことをすれば褒められる。天音自身、母に悪印象などない。口酸っぱく色々言ってくるのは娘を心配しているためだと思っている。


 それが突然、崩れ去った。

 目の前で血塗れの母の姿を見たのは随分前のように思えたが、まだ一週間も経っていない。

 その時の光景を、よく覚えている。

 死に顔を、まだ、覚えている。

 生前の、笑った顔も、怒った顔も、覚えている。

 

 振り返る。

 一〇メートルほど後ろを、膝まで届く髪をベールのように纏う全裸の、若返った姿の母が追って来る。

 あれは間違いなく母だ。昔見せてもらった若いころの写真にそっくりだ。何より、天音とそっくりな顔の造詣ぞうけいが、二人が母娘おやこであると言外に物語っている。

 でも、決定的に違う。

 真っ赤な唇をなぞり、舌がぺろりと一周する。

 真っ赤な色が薄まった。口の周りについた血を、舌で舐めとったのだ。

 不快な音を立てながら食べた、人の指。

 右手に垂れた血を、ぺろりと舐めている。

 溶けたアイスクリームを舐めとるような調子で、人を食って汚れた指を、綺麗に舐めている。幼子の食事のように、手についた他人の生命の証を、さも当然のように、口に入れている。

 普通じゃない。あれは母ではない。あれはバケモノだ。もう母じゃない。

 そんなこと、刀弥とうやに言われなくてもわかっている。


 でも、だからって受け入れられるわけではない。


 目の前で母が殺される姿を再び見ろと?そんな残酷なこと、ひどすぎる。

 そんなことを思ってしまう自分はおかしいのだろうか?

 いや、そんなこと、言われたくない。

(朝桐君は、わたしとお母さんのことなんか、何も知らないくせに……)

 目の前を走る同級生男子の背中を見て、思ってしまう。

 同時に、そんなことを考える自分自身、明確な答えを持っているわけではないことに気づく。

 母の死をもう一度許容することなどできない。

 じゃあ、どうする?

 母は、このままではすべてを殺し尽くす。そして食い尽くす。

 それは、目の前の同級生も、天音自身も。

 それだけでなく、今日ここに来ているという、何も事情を知らない小鹿野先生を含めたたくさんの人々まで巻き込んで。

 苦痛の果てに自分が食われる姿を想像する。

 刀弥の体が齧り取られる姿を想像する。

 恐怖に顔を歪めている数多の死体の上に立つ、母の姿を想像する。

 そんなの嫌だ。

 何も知らずに無惨に殺される人々を黙って見ていることなど、当然できない。

 

 わかっている。

 自分には何の力もない。

 自分にできるのは、朝桐刀弥の邪魔をしないこと。

 必死に走り、「あれは母じゃない」と否定し、殺して構わないと言うことが、刀弥に対してできる精一杯だ。

 それはわかっているのだが…。


「朝桐君……ごめん」

「?」


 無意味な謝罪をして、葛藤している罪悪感を紛らわすことしかできない。

 そんな自分に、嫌気が差した。



 

 刀弥は刀弥で、この状況に焦りを感じていた。

 状況は圧倒的に不利だ。手持ちの武器は拳銃一丁のみ。残弾は五発。予備弾倉はなし。

 他にも死体に出くわせば武器の調達はできるかもしれないが、せいぜい拳銃や弾が手に入るくらいだろう。ナイフや特殊警棒くらいはあるかもしれないが、あんな銃弾を弾く相手に近づくこともできないだろう。近接格闘C Q Cは自殺行為だ。

(触手の射程は最低でも一〇メートル。反応速度はコンマ二桁秒レベル…)

 考えれば考えるほど詰んでいる。状況は昨夜の巨大変異体に生き埋めにされたとき以上に悪い。

 

 考えているうちに、進行方向に丁字路が見えた。

「ルートは?」

『左。その先に実験室があるから、そこ通り抜けて』

「左だな」

『そ、左。反対側は最後行き止まりになっちゃうからね』

 丁字路に到着する。

 左を見ると、確かにガラス張りの扉が見える。

 そして、スーツ姿の男も扉の向こうに立っていた。

「なっ」

 男が驚き固まっている。恐らく処理班の一人だろう。腕から出血している。天音の母にやられたのかもしれない。

 負傷したものの、運よく生き残り、そこに鉢合わせしたのだろう。

「お前ら――」

「逃げろ。ヤツが来る」

「—―っ」

 扉越しに危険を知らせ、すぐにこの場を離れる必要があることを伝えると、


 ガシャン、と目前の扉をギロチンのように隔壁が遮った。


「え…?」

 天音が声を失った。

 生き延びていた処理班の男が、恐怖に駆られて隔壁を閉じたのだと、理解が追いつかない。

 二メートル前には、分厚そうな壁が進入を拒んでいる。実験室手前に設置された、有事に対応するための耐火・耐衝撃に優れた厚さ三センチの複層構造板だ。まず人の手で突破は不可能だ。

「ちっ、開くか?」

 刀弥は舌打ちし、インカムの向こうに尋ねる。

「アクセス不可。コンソールを物理的に破壊されたみたい。迂回して制御する必要あるから、二〇秒は必要だけど、そんな時間ある?」

 説明の途中で刀弥は踵を返して逆方向に進む。

 天音の手が引かれる。

 引き返したときに丁字路から天音の母が出てきて目が合った。

 無感情な瞳が獲物を捉え、触手が伸びる。

「ひゃっ」

 袖が裂かれるが、それだけだ。ぎりぎり、なんとかまだ五体満足でいられた。

「なんとかしろ」

『いや、できるのはその先の防火扉を閉めるくらいだよ』

「それでもいい」

『はいはい、ちょい待ち~』

 二人がクランクになっている通路を通過すると、ゆっくりと壁が剥離するように防火扉が閉まる。通路は塞がっているが、人間ならば簡単に出入りできるドアがついているため、障害にもならないはずだ。本当に、ただ数秒を稼ぐだけの時間稼ぎ。

 ここで防火扉ではなく隔壁の実験室に向かってくれればいいが、


 ドンガッシャン!!


 更に奥のクランクを曲がったと同時、すぐ後ろで耳障りな轟音が響き、振動が床越しに伝わった。

(こっちに来たか)

 直接目視はできていないが、まずこちらに来ているはずだ。

 五メートル先はもう行き止まりだ。

 行き止まりの右手にはドアノブ――部屋がある。

 迷うことなく、部屋の中に跳び込んだ。



 心臓の音が聞こえそうなくらいの静寂を迎えて、一瞬時の流れを忘れる。

 中は幅一メートル、奥行き二メートルほどの狭さで、うっすらとオレンジに照らす電球だけが唯一の光源だ。高さ二メートル、奥行き三〇センチほどのスチールラックが両端に並んでいて、段ボールや金属製のケースがまばらに積まれている。恐らく実験器具を収納しておく倉庫だろう。

 刀弥は天音と位置を入れ替え、奥に押し込んだ。

「ここでじっとしていろ」

「え?」

 肩に手を置いて、周囲に聞き耳を立てながら刀弥が告げる。

「このままここにいても二人とも細切れだ。ならば俺が出ていく。うまくすればを無力化できる」

 母とは言わない。そこを濁すのが、今刀弥にできる精一杯の気遣いだ。

「うまく、いかなかったら?」

 天音の問いを無視して、刀弥は棚の中から小さな白い箱を手にする。中には小分けにしたビニールの袋が入っており、それを破くと小さな刃と、不釣り合いな長めの柄のついた刃物――医療用メスが出てきた。

 刀弥はカットシャツのポケットにいくつか袋ごと押し込みながら言う。

「もし俺がうまくいかなくても、が諦めて別のところに行く可能性がある。その時は――」

 刀弥が耳からインカムを外して手渡す。

観生こいつの誘導に従え。危険は消えていないが、うまくすれば蓮山一人くらいなら外に出られる」

「そんな…!」

 刀弥が自分の死を悟るように言うので、思わず言い返そうとして、息が詰まる。

 一人くらいなら。

 つまり、刀弥だけでなく、最悪上の方にいる担任教師たちも見捨てろと、そう告げていることに気づく。

「それと――」

 まだ、刀弥の話は終わっていなかった。

「もしこのドアを開けたのが俺ではなくだったなら――」

 刀弥の手が、天音の右手を握る。

 手を開かせて、強化プラスチックの塊を載せた。

 短機関銃と共に手に入れていた拳銃だった。

「二二口径だ。蓮山でも扱える」

 これで戦えと言うのだろうか。

 そう思ったが、次の言葉は天音の予想の外にあるものだった。

「眉間には当てるな。稀に自決に失敗する。一撃で死ぬなら口に突っ込んで引鉄ひきがねを引け。安全装置はかかっていない。ただ引鉄を引くだけでいい」

 極限状態で告げられたのは、自決の方法だった。

「体が切断されてもすぐには死ねない可能性が高い。生きたまま喰われる可能性もある。だから」

 他にも言われたが、何も頭に入ってこない。

 じけつ?じけつって何?自決?自殺?え?

 天音の理解が追いつかない。

「待って、よくわかんないよ、ねぇ、朝桐く――」

「蓮山、まだ家族がいるだろう。だったら、もう誰もいない俺が行った方がいい。俺が死んだところで、MMMCの、PNDRの経済的損失だけで済む」

「ねぇ、あさぎ――」

「もう黙っていろ。気づかれる」


 刀弥が狭い倉庫から出ていく。

 薄暗い部屋に、天音が一人取り残される。

 その手には、さっきまで刀弥が身に着けていたインカムと、予想外の軽さにオモチャと勘違いしそうな拳銃凶器

 小さなインカムを握り締める。

 観生が何か言っているのだろう。骨伝導式のため、細かく震えている。

「あさぎり……くん……」

 微かな温もりの残るインカムと拳銃を握り締め、天音は丸まることしかできずにいた。

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