第66話 道真と千紗

 ――坂東▪︎小次郎の屋敷 四郎の部屋


 千紗が忠平に宛てた手紙にも書かれていた四郎の師、菅原景行が四郎を訪ね、小次郎の屋敷へと訪れていた。

 彼は週に二回程、四郎に学問を教える為やって来る。そしていつの頃からか、四郎と共に千紗も景行の教え子として学びの場に参加するようになっていた。

 その学びの場で弟子二人を前に静かに語られた景行自身と、父道真の過去。

 千紗は少し躊躇いながらも師と仰ぐ景行に、こんな質問を投げかけた。


「のう、景行殿。そなたの父……道真殿は、私の父の事も恨んでいると思うか?」


 唐突に成された千紗からの質問に、景行は暫し間を置いた後に目を閉じ、静かな口調でこう返した。


「さぁ、私には分かりかねます。父の最後の姿を見送る事の敵わなかった私には」と。


「……景行殿……」


 景行から返された言葉からは、怒っているのか憎んでいるのか、それとも悲しんでいるのか。感情を読み取る事はとても困難に感じられて、何ともはっきりしない答えに千紗はしょんぼりと俯いた。

 俯く千紗達の様子を、秋成はどこか心配そうに、いつもの如く庭から見守っていた。

 そんな秋成の元に風に乗って微かな囁き声が届く。


「おのれ、道真の息子め。千紗姫をあのように悲しませおって!」

「……?? 今の声は……?」


 どこからともなく聞こえて来た憎しみの籠もる囁き声。

 キョロキョロと辺りを見回しながらも声の主の姿を探す秋成。だが、誰の姿も確認はできない。

 首を傾げながらも、四郎の部屋の縁側付近に立っていた秋成は、その場にしゃがみ込み今度は軒下を覗き込んだ。

 すると、いつの間にそこにいたのか、縁側の床下には、地に這いつくばるようにして身を隠す、朱雀帝と貞盛の姿があった。


「……お前等、そんな所で一体何してるんだ?」


 珍妙な二人の格好に呆れ顔の秋成は、冷たい視線を向けながら、面倒臭そうに二人に訪ねた。


「むむ、うるさいぞ。私達の事は気にせず、お前はお前の仕事をしておれ!」


 間抜けな体制に似合わぬ朱雀帝の生意気な態度。秋成はまるで二人を馬鹿にでもするかのような視線を向けながら、「へいへい」と短く返事をしながら、何事もなかったように立ち上がった。

 秋成の態度を朱雀帝は、全く気にしていない様子だったが、彼の隣にいた貞盛は違った。

 秋成の侮蔑にも似た冷たい視線に、急にいたたまれない気持ちになる。良い歳をして、帝とは言え子供と一緒にこんな所で、自分は一体何をしているのだろうかと。

 それまで朱雀帝のどんな我が儘にも大人しく従っていた貞盛だったが、この時ばかりは顔を赤く染めながら、絶望感に頭を抱えていた。


「あの寛明様……失礼ながら私もお尋ねして宜しいでしょうか?私達はここで一体何をしているのでしょう?」

「何だ貞盛まで、急にどうした」

「何故我々はこのような所に隠れて、コソコソと彼らの話を盗み聞かねばならないのでしょうか? そんなにあの景行と言う者の話が気になるのでしたら、帝も千紗様達とご一緒に学びを請えば宜しいのでは?」

「そんな恐ろしい事が出来るか! あの者は我が父を殺した道真の息子ぞ!そんな危ない者に近付いたら私の命が危ない」

「では恐ろしいと言いながらも、ここへ来たがる理由は何ですか? 怖いのならばそもそも近づかなければ宜しいのではないでしょうか。それをこのような暗く狭い場所に隠れて、しかもこのような醜い格好をされてまで、あの者の話に耳を傾ける理由はなんですか?」

「……それは……怖いけど……気になってしまうのだ。あの景行とか言う男の話が……」


 朱雀帝は貞盛からの質問に、自分でも理由が分からないと言った様子で呟きながら、再び上から漏れ聞こえる千紗達の会話へと意識を集中させた。


「のう、景行殿。そなたの父……道真殿は、私の父の事も恨んでいると思うか?」

「さぁ。私には分かりかねます。父の最後の姿を見送る事の敵わなかった私には」

「……景行殿……」

「………………でも、ただ一つ言える事は――」


 その頃、上では――

 先程の千紗の問いに、長い時間をかけて考え込んでいた景行が、自身の中で導き出した問いの答えを語ろうと再び口を開きかけていた所。


「生前父は、忠平様の事を友として信頼していました。それだけは、紛れもない事実です」

「……信頼?」


 景行の口から出たの単語に千紗は、ゆっくりと顔を上げる。上げた先には、穏やかに微笑む景行の顔があった。


「はい。父は忠平様に二つの大事なものを預けました。一つは、この国の行く末を。そしてもう一つは……貴方の母君を」

「……母上を? それは一体……どう言う意味じゃ?」


 景行の言葉の意味がわからず、キョトンとした顔をする千紗。


「おや、千紗様はご存じありませんか? 貴方の母君、順子様は、我が父道真にとって孫にあたるお方だと言う事を。私にとっても腹違いではありますが我が姉が産んだ子供。貴方の母君は私にとっても姪にあたります。……と言っても、幼少の頃に宇多天皇の養女となり皇室に入られましたので、実際に会った事はありませんが」


 初めて訊く話に、千紗は驚いた様子で首を横に振った。


「知らなかった……。母上は皇族の出身だとばかり」

「……そうでしたか、娘の貴方にも知らされていませんでしたか。まぁ……そうですよね。ただの学者である中級家系の菅原から、天皇家の養女を取ったとあっては天皇家の威信にかかわりますからね。世間にはあまり知られたくない事実ことだったのでしょう。ですが、それ程までに宇多天皇は父を気に入り、身分の低かった父に箔をつけようと動いて下さっていました」

「なる程、道真公に向けられたその天皇の信頼が、逆に周囲からは嫉妬や妬みの対象となってしまったわけですね」


 景行が語った話に、不意に四郎が横から口を挟む。

 彼の予想は的を射ていたのか景行は苦々しく笑っていた。

 千紗はと言えば、未だ驚きに目を見開くばかりで、二人の会話もなかなか頭には入って来ていない様子だった。

 そしてもう一人、景行の語った話に千紗と同様驚きを隠せない人物が、床下にも――



__________

宇多天皇うだてんのう

第59代天皇。在位887~897。

宇多天皇は一度臣籍に下ってから皇籍に戻り、即位したというレアな経歴を持つ天皇です。その裏には当時関白だった藤原基経の思惑があっての事。

宇多天皇は藤原氏との折り合いが悪く、後に藤原基経と衝突し、阿衡事件と呼ばれる政治的いざこざを起こします。この事件の仲介に入ったのが菅原道真で、宇多天皇は道真に絶対的信頼を置くようになりました。

事件の背景には当時藤原氏の権力が大きくなりすぎていた事への危機感があり、この事件を機に宇多天皇は藤原氏を遠ざけ、逆に道真のように藤原氏と関係のない氏族を可愛がるようになりました。

道真が出世できた理由には、この宇多天皇の存在が大きく関わっています。

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