第二章 訪問者
「ひおんほほうしゅえあうほ」 -1-
「ご主人様、ギルバートさん、大変です」
午後四時。エヴァンの執務室に、そう言ってネイサンが飛び込んできたのは、エヴァンがロウを伴い外出した日の、翌日だった。
ネイサンは辛うじてノックだけはしていたものの、エヴァンも、そばにいたギルバートも入室の許可はしていない。トントントンガチャと、小休止すらないリズムで行われた、形だけノックだ。
「いったい何事です、ネイサン。ノックは返事を聞いてから入ることで、ようやくやる意味があるのだと、いつも……」
「イライジャ様と、バイオレット様がいらっしゃいました」
扉の方へと振り向いたギルバートは小言を口に出しかけたが、勢い込んで告げられたネイサンの言葉に、ピタリと動きを止めた。
「いらっしゃいました、とはどういう意味です?」
「つい先ほど、正門前にご到着されました。今はとりあえず、エントランスでお待ちいただいています」
「なんですって?」
「今日訪問するなんて連絡は、なかったはずだよな?」
ギルバートは驚愕の声をあげ、同じく驚きの表情を浮かべたエヴァンが、ネイサンとギルバートに確認する。
「はい、『サプライズ訪問』だと仰っていました」
驚きで揃っていたギルバートとエヴァンの表情が、ネイサンの言葉に、またもや揃って苦いものへと変化する。
サプライズとは、あくまで驚きと共に、喜びがやってくるものであるはずだ。この場合では、突然の迷惑でしかなかった。
「エントランスで待たせては無礼になる。とにかく、応接間に通しておいてくれ」
「お会いになられるのですか?」
エヴァンがネイサンへと指示を出すと、ギルバートはそれを聞いてエヴァンに問いかけた。
「もう来てしまったものに、帰れとも言えないだろう」
渋々といった様子ながらも笑いつつ、エヴァンが言う。ギルバートは眉間にさらに深い皺を寄せ、唸り声を一つ。懐中時計を見てから、ネイサンへの指示を重ねる。
「応接間にお通ししたら、ネイサンはすぐにキッチンに来てください。アフタヌーンティーをお出しします。今の時間に狙ってやってくるということは、それが目当てでしょう。あの強欲親娘は」
いつもは穏やかなギルバートが口にするきつい言葉に、エヴァンは思わず声を漏らして笑う。ネイサンは勢いよく返事をすると、小走りにならないギリギリの速度で、部屋を出て行った。
今日訪ねてきたのは、ユレイト領に唯一隣接するリオン領の領主、イライジャ・リオンと、その娘であるバイオレット・リオンの二人だ。
リオン領は東西に長く伸びており、領地の規模も大きく、経済状況も圧倒的にリオン領の方が上である。
ユレイト領の大地はお世辞にも肥沃とは言えず、国の北端に位置するという気候も相まって、収穫できる作物は少ない。今年は例年に比べ春の到来も、雪解けも早かった。だが時の回りにより冬が長引けば、民が餓えに苦しむこともある。そういった時に、ユレイト領はリオン領に、たびたび支援を受けているのだ。
世話になっている事実もあり、ユレイト領主のエヴァンとしては、リオン領との友好な関係を続けたいと思っている。また、もしもの時に限らず、商人などの民の行き来も盛んなため、決して無下にはできない相手だ。だが一個人としてのエヴァンは、イライジャにもバイオレットにも、決して良い感情は抱いていなかった。
その理由が、ギルバートが今しがた口にした、『強欲』というところにある。
イライジャももちろん、リオン領がユレイト領に、ひいてはその領主であるエヴァンに貸しがあることは理解している。その、過去にした支援や、これからするだろう支援を盾にして、彼らはさまざまなことをエヴァンに求めてくるのだ。
いっさいの事前連絡なしの訪問は今回が初めてのことであったが、イライジャがバイオレットを伴ってこの邸宅に訪れるのは、そう珍しいことではない。バイオレットがひどくエヴァンを気に入っており、イライジャもまたバイオレットをエヴァンの妻として嫁入りさせることを望んでいるため、特に理由がなくともやってくる。
加えて、彼らはこの邸宅のことを、別荘かなにかのように思っている節がある。彼らはやってくるたびにわがまま放題なため、この邸宅の使用人たちにも嫌われていた。
エヴァンはため息を一つ漏らすと、握っていたペンを手放し、椅子から立ち上がる。ギルバートも、手にしていた書類を慌ただしくまとめた。
「わたくしはベロニカに軽食の準備を依頼して参ります。おそらく三〇分はかかってしまうかと思います、申し訳ございません」
「ギルバートが謝ることではないだろう、よろしく頼む。俺がいつもはアフタヌーンティーをする習慣がないことは伝えるから、その程度は待つだろう。ディナーを食べたがる可能性が高いから、ディナーの準備も進めておいてくれ」
「かしこまりました」
ギルバートは頭を下げ、ネイサンと同じく足早に部屋を出て行こうとした。と、扉のノブに手をかけたところで振り返り、改めてエヴァンを見る。
「どうした?」
「エヴァン様は、向かわれる前に、襟の詰まったシャツにお召し替えされた方がよろしいかと。迂闊に露出をして、襲われでもしたらたまりません」
真面目な顔をしたギルバートの言葉に、エヴァンは冗談を受け流すように軽く笑う。
「そんな、生娘でもあるまいし」
「わたくしは本気で言っておりますよ」
ギルバートは真面目な表情のまま、そう言い残して部屋を出ていった。
エヴァンは自分の着ている服を見下ろす。彼は今日、ずっと邸宅の中で過ごしていたため、着心地の良い、ゆったりとしたブラウスに、肩からケープをかけていた。ブラウスの形状的に、襟ぐりがV字にあいているが、特段『露出』と言うような格好ではない。
エヴァンはしばし逡巡した後、ギルバートの本気の眼差しを思い出して、執務室の奥の扉から寝室へと入った。エヴァンの部屋は廊下から直接繋がる扉はなく、執務室を通らねば入れないような構造になっている。
ワードローブから服を一式取り出し、喉元まできっちりと詰まったスタンドカラーのシャツに着替える。その上から刺繍の入ったウェストコート、深い青のフロックコートを着て、スカーフを首に巻いた。
ワードローブの横に置かれている鏡で全身を確認してから、エヴァンは急ぎ応接間へと向かう。
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