言わなきゃいけないこと 10-3



 落ち着いた色味の紺のブレザー、赤のラインが入ったプリーツチェックスカート。

 学校の、制服。

 学校の制服というものは、それを着用しているものが“学生”であることを示すものだ。

 大学生にもなれば、制服を着ることはなくなると言ってもいい。


 だからこそ、制服という存在は、中高生の──子どもの象徴的なものとなる。


 だから脱いでしまう。脱いでいた。脱いで、私服に着替えて、彼の部屋に行っていた。

 一番はじめは、なんとなく、私服のほうがラフ感が少なくていいかもしれない──、とあえて、きれいめの私服を選んでいた。気軽に、軽々しく、帰り際に適当に寄るような扱いをしていい場所ではないと思っていたから。

 制服は比較的フォーマルな存在であるからして、真魚のその思考はややズレていたとも言えなくもないが、そこは本人の心情の問題であるからして仕方がないとも言える。


 ともあれ、結局のところ事実としてあるのは、真魚が千夜の前で制服を着たことが一度もないという事実だった。


 しかしだからといって、その事実が直接二人の関係に関与するわけでは当然ない。

 直接は。

 間接的には、どうだろう。

 制服を着ない女子高生は、子どもには、見えない。



 ぴんぽーん、とチャイムを鳴らして、反応がないことを確認。

 その後、ガチャ、と。

 ドアを開ける。



 彼の家、千夜の家。真魚の家ではない場所に、足を踏み入れる。

 

「お邪魔します」


 少女が学校を終え、彼の家に遊びに来る時間と彼が帰宅する時間は、当然ぴったり同じではない。

 来る前に了承はもらっているが、それでもやはり無人の家に足を踏み入れるのはどことなく背徳的な気分になる。

 こればかりは、早々慣れるものではない。

 実のところ、今日は大した用があるわけではなく、その事実も足を踏み入れるのに抵抗を生む一助になっていた。

 より正確にいうと、用がないというよりは、何か用事を済ませるほどの時間がないというほうが正しいのだが。長い時間留まっていられるのなら、やれることは多岐にわたるが、そうではない。


「告白……」



 ──年相応の付き合いをするなら構わないけど、付き合ってもないんだから節度はしっかりと。

 ──あとそれから、ご飯はちゃんと家で食べなさい。



「むぅ……」


 もっともすぎる、母の言葉。

 彼と二人でいるところを母に見られたあの日、家に帰ってからやっぱり絞られて、そのときに言われた言葉だった。


「でもどうせ……」


 告白なんてしても受け入れてなんて、もらえない。

 そんな言葉を呑み込み、代わりにため息を吐く。


 今日学校で告白についての話をしたというのもあり、母の言葉もあり、思考がどうにもそっちに寄ってしまっていた。

 そもそも告白をする理由とはなんだろうか。


 まず一つ、関係の区切り。これまでの関係を終わらせて、次のステップに移るためのイニシエーション。

 内実的には、確認作業というのもあるだろう。好きとか、嫌いとか。言葉にしてみなければ、内に秘めたものは、いつまで経っても曖昧だ。

 実効としては、確認作業を踏まえた、お互いがお互いのものであるという誓約を結ぶこと。もっとも言葉で軽く交わされただけの軽いものにはなるが、この誓約があるからこそ、告白以降は浮気という概念が生じることになる。


 なにはともあれ、その前後で決定的に違ってしまうものがある。

 だから怖いし、勇気が必要になるわけだが。……が。


 逆を言えば、『今がずっと続けばいい』──、そう思えるなら、告白なんてする意味がない。


「……よし」


 とりあえず、ココアを淹れよう。

 いつも通り。彼の好きなものを、私が好きになったもので、この部屋を満たそう。

 そう思って、真魚は、キッチンに向かった。

















「おかえりなさい!」

「……ただいま」


 香り高いココア、花咲くような笑顔、そして他人のいる明るい部屋。

 部屋に満ちる寂寥感というのは、冬に色濃く出やすい。寒く、日が落ちる時刻が早いからだ。

 あとそれから、一人暮らしの部屋で「ただいま」というむずがゆさ。


 別に今日この日がはじめてではないが、やっぱりどうしたって、早々慣れるものではない。


「今日はすぐ帰るんだっけ?」

「はい。お母さんが早めに帰ってきなさいって」

「そ」


 千夜は真魚に背中を向けて部屋の奥へと進む。

 コートを脱いで、ジャケットを脱いで、手を洗ってうがいして。

 そんなことをしていると、真魚が居間のテーブルに、ホットココアを用意してくれていた。


 千夜はいそいそと座り込み、「ありがとう」と一言。

 ココアを一口飲み、ほっと一息。


「来て早々なんだ──って思われるかもなんですが、このココアを飲んだら、私帰りますね」

「あ、すぐ帰るってほんとにすぐなんだ」

「まぁ……鬱陶しいかなとも思ったんですが、まぁその……」


 お話したかったので、と真魚は肩を丸めて、小さくなっていた。


「あぁ、全然いいよそれは。ぼくもやっぱり、帰ってきて電気ついてたり暖房ついてると……なんだろ。安心感があったりして、嬉しいなって思うし」

「なら、よかったです」


 真魚は自分のマグカップに、あちち、と口をつけ、ちみちみと。


「千夜さんには悪いなって思うんですけど、私最近……この家やっぱり落ち着くなって思ってまして。隙あらば足を運びたくなるんですよね」

「──、……それならよかった」

「はい」


 やんわりと、真魚は、はにかむように小さく笑う。

 そして、千夜は内心、ドキッとしていた。

 言うべきか、言うべきでないか。

 そんなのは考えるまでもなく、言うべきことで──、と。理性ではそう思っていても、なかなかどうして、うまく言葉にはできなかった。


「そういえば」


 わずかな沈黙のあと、口を開いたのは真魚だった。


「今日何食べるんですか?」

「ん。コンビニ弁当」

「え~」

「何か言いたそうだ」

「いえ別に。普通に冷凍食品とかレトルトとか、おいしいですよね」

「そう。割と普通においしいんだよな」

「ね」


 一人暮らしで、毎日自炊というのはめんどくさい。

 時は金なり。

 お金で時間にゆとりができるなら、そっちを選びたくなることは、ある。


「まぁ手作りとかしようと思うと、 大変ですもんね。作る量とかも複数人のほうが調整はしやすそうだなって最近思います。私がするときはいつも最低二人前なのであれなんですけど」

「まぁね。ある程度はぼちぼち慣れたけど。……でもまぁ、平日にちゃんとした料理ってのは実際めんどくさいところもあるというのは正直なところかな」

「お仕事お疲れ様です」

「ありがとう」

「肩でも揉みましょうか?」

「……じゃあお願いします?」

「えっ」

「そっちが言い出したんでしょ」

「そう、なんですけど~……」


 どうしましょう、などと言いながら少女はマグカップを机にいったん置き、手をわきわきとさせる。

 比較的、乗り気なような、そうでもないような。微妙な塩梅。


「えっほんとにいいんですか?」

「いやそういうリアクションされるとなんか……うん……」

「えぇ〜……」


 露骨に肩を落とす少女に、彼はなんだか悪いことをしたような気分になっていた。

 別に千夜は悪くはないし、真魚も別に、心底求めていたわけではなかったが。

 そういう文脈で、そういう戯れだったから。


「じゃあ代わりに、じゃんけんでもしませんか?」

「なんで? いやいいけど」

「じゃーんけーん」

「ホイ」



 そうやって、わーきゃー、とたわむれて。

 少し落ち着いた後に、ココアを飲みながら別の話をしてみたり。

 そうしていたら、ココア一杯分の時間なんてあっという間に過ぎてしまった。



「──……」



 空になったマグカップを、真魚はぼんやりと見つめていた。

 千夜もぐい、っと自分のカップの中身を飲み干す。

 

「……バスでいいんだっけ? 送ってくよ」

「はい」


 二人は、コートを羽織って、靴を履いて、外に出た。


 夜。

 どこか滲むような色をした、夜だった。

 風のない、穏やかで寒すぎない、夜だった。

 千夜にとっては滲む空で、真魚にとっては穏やかな空。


 ごくごく当たり前のことなのだが、ものの見え方というものは、人によって異なる。

 受け止め方が異なる、と言ったほうが近いかもしれない。

 ともあれ、結果として、千夜には少し澱んで見えて、真魚にはきれいに見えたという事実だけがそこにはあって。


「──……、──? ──」

「──、────」


 そんな中、いくつかの言葉を投げ合いながら、夜道を歩いていた。

 ほとんどが他愛のないこと。

 ごくごく普通の会話。

 コンビニのプリンは、どこのが一番おいしいとか。そんな程度の、中身のない楽しいだけの会話。


「私、いつか猫を飼うのが夢なんですよね」

「へぇ。いいね。家ではペットとか飼ったりしてないの?」

「お母さんがアレルギーあるんですよ」

「なるほどね」


 そう、こういう、中身のない会話には“ただ楽しい”という意味がある。

 他愛のない話で愛を感じるという、贅沢。


「……ん。次のバスまで、あと5分ってとこでしょうか。もうちょっとのんびり歩いてもよかったかもですね」

「5分かぁ」


 バス停に着いて、時刻表の近くで立ち話。

 周りに人がいないわけではないので、少しだけ声を控えめに、そして少しだけ周りから距離をとって、少しだけパーソナルスペースを縮めて。

 そんな風にして、立って、話していた。


「送ってくださって、ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」

「んー。まぁあと数分くらいだし。最後まで」

「そうですか? まぁそれなら……」


 少女は首を傾けて、「んー」と唇をなぞるように、思案していた。

 そして、「そういえば」と、指をピンと立てて。


「今日学校で、来年の話してたんですよね。三年生になるんですけど」

「うん」

「そこでちょっと話題になったんですが、社会人だとどうなんですかね。なにかイベントとかあるんですか?」

「あー、総決算とかってこと? 普通に新入社員さんがいらっしゃるからチームのパワーバランスが変わったりとか……まぁ会社によって細かいことは変わったりするだろうから、なんとも言えないところはあるけど」


 千夜はそこまで話して、重いため息を吐いた。

 隠しておくことなんてできないし、話さなければならないことを。

 自分の家を居心地がいいと言ってくれた少女には、必ず伝えなければならないこと。

 伝えようと思って、伝えられていなかったこと。

 切り出そうと思って、切り出せていなかったこと。


「仕事のことなんだけど」

「? はい」

「真魚さんに言っておかないといけないことがあって」

「……なんですか?」

 

 空気が、ピリリと張り詰めたような気がした。

 真面目な顔、声のトーン。

 嫌な予感がする、と真魚は思った。





「転勤が決まった。四月までには、あの部屋を出ていく」





 関係の区切り。卒業、転校、転勤、進学──様々な外的要因により、縁というのは自然と切れる。

 それを切らずに続けるには、友情や愛情という名の、強い錨が必要となる。

 そして、千夜と真魚の間に、そのような強い誓約は存在しない。


 だって彼らは、別に特別な関係でもなんでもなくて。

 だからつまり、このまま何もしなければ、縁が切れる。


 そんな現実が、いま目の前にあって──……真魚はただ、口をぱくぱく開閉させることしか、できなかった。


 だけど時間は動く。バスが来る。世間は彼らを、待ってはくれない。


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