名前、呼び方、貴方が好き 07-3
場は、喧噪に包まれていた。
夜、居酒屋。
生まれてはじめて足を踏み入れる場所。そして、詐欺。色々な要素が相まって、真魚は非常に緊張していた。
曖昧な言葉で濁す千夜に代わって、事態を解決しないといけない。そう思っていたからだ。
現れた人物は、井上と名乗った。
スーツを着た、かっちりとした身なりをした男だった。
けれど表情は軽薄で、信用できなさそうな人だ、と真魚は身構えた。
「よ、千夜。元気そうだな」
「元気そうに見える?」
「事前連絡無しに女連れてくるやつが元気じゃなくてなんなんだよ。……えー、桶内さんだっけ? 聞いてるかもしんないけど、俺、コイツとは高校からの付き合いなんよ。で、今も色々仕事とか…………細かい話はいいか。とりあえずよろしく」
「……はぁ」
井上という男と、千夜は、真魚の目から見てとても仲が良さそうに見えた。
騙した側と騙された側。何も知らなければとてもそんな風には見えなかった。
ひとまず生を二杯、ウーロン茶を一杯。
つまみとなる食べ物をいくつか頼み、ごく普通に飲み会がはじまった。
困惑。困惑、である。
真魚は、戸惑っていた。
この状況に、である。
「ところで今日はどうしたんだよ」
「あぁ、それは……──」
もっと、声を荒げるような事態になると思っていた。
どんな会話になるにせよ、どんな人が来るにせよ、もっと声を荒げて……あるいは、彼が何も言えない状況が続くのではないかと、そう、真魚は思っていたのだ。
だけど、そうなってはいない。
千夜は、淡々と、なんでもないような顔と声で、告げる。
──あのときの金って、詐欺かなにか?
そして、対面する男の反応もまた、淡々としていた。
──そうだよ。
そこからの話は早かった。じゃあ返して、に対するOK。
来週には100万耳揃えて返す、という言葉。
騙して金を盗ったということを認めつつも、険悪な空気にはならず、どうでもいい世間話をしているかのような声のトーン。
ははは、と談笑している二人が、真魚には気味が悪くて仕方がなかった。
「……つかぬことをお聞きしますが、もしかして詐欺というのは勘違いで、そういう名称でのただの友人間のお金の貸し借りだったりしたのでしょうか」
おずおず、と手のひらだけで挙手をして、真魚は千夜に問いかける。
千夜は苦笑して、どうなの、と目で井上問いかける。
──返せって言われなければ一生返さないもんを友人間の貸し借りって言うならそうなんじゃねえ?
井上はへらへらと、そう言った。
千夜は、それを耳にして、苦笑していた。
真魚は──、表情を、ストン、と落としていた。
「ふざけないでください」
怒っていた。怒っていた。怒っていた。
真魚は、怒りで燃え上がりそうなほど、怒っていた。
善が悪に虐げられているのは許せない。悪がのうのうと生きて、善が困っていることが、許せなかった。
「なんで人を騙してそんな笑ってられるんですか。お人好しにつけこんで、良い思いをして、それを恥ずかしいと思わないんですか。あなたは──なんで…………」
唇をゆがめて、真魚は声をしぼるように。
それを聞いて、井上は面白そうに笑う。
「ていうか、金は返すって。この話これで終わりじゃいかんのか? というか、赤の他人にあれやこれやと口をはさむ権利ないと思うんだが」
その言い方はあんまりだろう、と千夜は眉をひそめる。
さすがにどうかと思い千夜は口を開こうとして、──それよりも先に、真魚が口を開く。
「私は、千夜さんの恋人です。口をはさむ権利くらい、あります」
真魚は、唇をきゅっと結んで。目には強い力を宿して、言い切っていた。
こんな顔できたんだ──、と千夜は思った。
井上は楽しそうに唇の端をゆがめながら、「へぇ」と声を漏らした。
「じゃあ彼女さん的には、何をどうすれば満足なわけ?」
「謝ってください」
「なるほど。そりゃ最もだ」
怒り心頭──といった様子の真魚を見ても変わらず、やはり井上はへらへらとしている。
「ごめんなさい」
「……」
「謝ったじゃん。まだ怒ってんの?」
チクチク言葉。
他人の神経を逆なでする言葉。
それをあえて選んでいることがわかって、わかってたから、やっぱり千夜は苦笑する。
「なんかあれだよね」
千夜は軽くため息を吐きつつ、口を開く。
空気が重かった。気が重かった。心なしか、このテーブルの空気にあてられて周りのテーブルもピリついていた。
「好きな子いじめる癖、なおってないんだなあ」
この場合の好きな子、というのは彼自身と、その隣にいる真魚を指す。
「まぁとりあえずぼくの恋人いじめられるのもちょっと困るので……ううん……どうしたものかな……」
千夜は、隣にいる真魚を見やった。
ぽかん、と口を開けていて、先ほどと比べるとだいぶ緩んでいるようには見えるが、それでもやっぱり空気は張り詰めているし、表情は家にいたときと比べて固く重い。
これを引き起こしたのは自分の情けなさであるからこそ、千夜は。
「とりあえず今日は帰るよ。また今度会おう」
「ん。おっけー。また連絡するわ」
「はいはい」
ガタ、と千夜は席を立って、なおもぽかんとした表情をしている真魚に、声をかける。
なんと言うべきか少しだけ逡巡して──……。
「おいで、真魚さん」
手を伸ばせば届くような距離であるはずなのに、やけに遠く感じていた。
1メートル。
真魚と千夜の距離感は、おおよそそのくらい。
片手を伸ばして届かない程度の距離感を保ちつつ、真魚は千夜の後ろをついていっていた。
彼が歩幅を縮めると、少女も歩幅を縮めて……二人が横に並ぶ状況には、ならなかった。
真魚の視線は水平よりやや下を向いている。
応答はできるものの、声にも元気がなく、客観的にも気落ちしているように見える。
「……今日は寒いね」
「そう、ですね。ここ最近だと最低気温を記録していたような気はします」
当たり障りのない会話。
とんとん拍子に言葉がつながることはなく、一つの言葉を交わすごとに、少しの沈黙が訪れる。
「……」
「……」
冬の夜は冷たく、少し痛い。
肺の中身が冷えていく感覚。自分の輪郭が鮮鋭になる感覚。
外に出て、歩いて。
真魚は、自分の惨めな心が浮き彫りになるのを感じていた。
だから自然と、距離をとりたくなってしまう。
歩みが、遅くなる。
「ごめんね。今日はなんか。かっこ悪いところを永遠に見せちゃったな。あいつもあいつで人間性終わってるから、気分悪かったろう」
「……いえ、あの。私もなんだか、余計な口はさんじゃってすいません。……たぶん……たぶんというか、絶対私がいないほうが話ややこしくなかったですよね」
「もともと話はややこしくなかったけど……桶内さんがいなかったらそもそも話がはじまらなかったろうし、それはちょっと違う気がするな」
「口では『返す』って言ってましたけど、お金ちゃんと返してくれるんですかね、あの人」
「まぁそこは、嘘をつくような奴ではないし平気だとは思うけど。……まぁなんていうか、人を困らせることが主眼の奴なんだよ。だから一通りからかったらそれで満足……なんだとは思うけど、正直よくわからないな。返してくれないかもしれない」
「そう、なんですか……」
やっぱり警察沙汰の話じゃないのかなぁ、と真魚は思っていた。
だけど彼にとってはそうではなく、その理由はなんなのか。
「騙されてるかも、とか。返してくれないかも、とか。そういうの考えるのがあんまり好きじゃなくてさ」
だからとりあえず信用することにしてる、と千夜は苦笑する。
そんな彼を見て、少女は少し納得をしてしまった。
きっと、この人は誰にでもこうなんだ、と。
こんな人だから、合鍵を自然と渡してきたり、出会って間もないころ真魚を一人部屋に残して外に出たり、そんなことをするのだろう、と。
そしてそれは対象がどんな人間であっても、同じ振る舞いをするのだろう、と。
私は別に、この人にとっての特別枠でもなんでもないんだと、真魚はそう理解した。
「なんだか、小池さんらしい感じですね」
「そうかな」
「そうですよ」
「悪い意味で言われたわけではないと思っておく」
「悪い意味ではないです」
「それは重畳。……それはさておき、らしいらしくないの話とは少しずれるけど、桶内さんが怒ってるとこ初めて見たからちょっとびっくりしたな」
「わ」
わ? と思い、千夜は真魚のほうを振り返る。
真魚は口をまんまるに開けて、ピシ、と固まっていた。頬には少し、赤みがさしている。
「──忘れてください。すでに黒歴史になりつつあります……」
「え、なんで」
「いやだって……普通に……その……」
真魚は吐息をもらしながら、少し上目遣いに、ぼそぼそと話す。
言葉は夜にまぎれて、消えていく。
空気は冷たく、肺は冷え、手も足も、冷え込んでいる。
自然と動きはにぶくなって、少女は足を止める。それにつられて、彼も足を止める。
人気のない冬の夜。住宅街。切り取られた空間で、彼らは向き合っていた。
「……私、普通に迷惑じゃないですか?」
「自分のために怒ってくれるひとに、感謝する理由はあっても、迷惑に思う理由はないかな」
「……そうですか」
「そうなんですよ。というか、普通に、逆に、ぼくが幻滅されたんじゃないかなって。今日のあれはどっちかっていうとそっちだと思うんだけどな。本当に桶内さんには何の落ち度もないし、落ち度があるのはぼくなんだよ。本当に情けなくてさ」
「……そうですか?」
「そうなんですよ」
意味がわからない、とでも言いたげに少女は首をかしげる。
そして、まぁいいか、と二人はまた歩き始める。
歩調を合わせるために、とててっ、と少し駆けた少女。二人の距離は、自然と少し縮まった。片手で届かない距離から、片手を伸ばせば届く距離まで。
「でも、せ──……こほん。名前とか呼んだり、その……こ、恋人とか? 自称しちゃったのはちょっと我ながら痛かったなとですね」
「あぁ……。でもぼくも同じこと言ったしな」
そんなことを気にしてたのか、と千夜は少し思って。
同時に、そりゃ気にするか、と納得をした。
言葉は夜に紛れていて、その本当の姿を目に捉えることはできない。
想いは、口にしなければその本当の真意は伝わらない。
だけどそれでも、迂遠でも、伝わるものというのはあって。
口にすると無粋な想いというのも世の中にあって。
「真魚さん」
「?! な、なんですか……?」
「呼んでみただけ」
「……」
たかが名前、されど名前。
識別だけなら、苗字で事足りることがほとんどだ。名前で呼ぶ行為は少なからず特別なもので、だからこそ、大なり小なり意識する。
識別以外を目的とした名前を呼ぶ行為は、どうしたって、親愛の念がこもるものだ。
「あの。……せ。……せ、背筋が冷えますねっ」
「寒いもんね」
「そうですね。あったかいココアが飲みたいです」
千夜は、真魚の贈ったオニキスブレスレットを身に着けていた。
暗い、夜の色をした石。
真魚もそのことには気づいていた。つけてくれていることを、知っていた。
「せ──。セバスチャン……家にセバスチャンが一人いるといいですよね」
「そうかな……そうかも……」
恋という言葉をどう表現するだろう。
愛という言葉をどう表現するだろう。
手の届かないものに、手を伸ばすことが恋。
手もとにあるものを、大事にすることが愛。
「……千夜さん」
「なに?」
「よ、呼んでみただけです」
「そ」
触れてみたくなる。
手を伸ばせば届くような距離に、彼の手がある。
手を伸ばせば、きっと届く。
だけど触れるなんてとてもできなくて──だからきっと、この想いを恋と呼ぶのでしょう。
「千の夜。私、千夜さんの名前……好きです。綺麗な響きですよね」
「いつだったかもそんなこと言ってくれたね。ぼくも真魚さんの名前好きだよ。語感がいい」
「……ありがとうございます」
好き。好き。
その言葉を反芻しつつ、真魚は視線をあげて、夜に覆われた空を見る。
雲一つない夜。星月が、空に浮かんでいた。
自分が何をどうしたいのか、どう在りたいのか、少女にはまだわからないこともあったけれど。
少しだけ、わかることが増えた気がした。
真魚は、自分の唇に触れる。
名前を呼んで、呼ばれて。そういうやりとりを、この口でしたのだと。
色々な感情が入り交ざって、少女は、小さく息を吐く。
肺の中身は、すっかりと冷え切っていて。
吐息はもう、白くない。
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