第2話
疑ってかかるべきは、やはり行方不明になっていた空白の一週間だった。もし、自分の身に何かがあったのだとすれば、あの時以外考えられない。
行方不明になったのは4年前の8月13日。買い出しに出かけようと自宅から出たのを最後に記憶は途切れ、気が付くと見知らぬバス停にぽつんと座っていた。
最寄りの交番から連絡が通じ、自分に捜索願が出されている事、そして自宅を出た日から一週間近く経っていることを知った。
彼女が居たのはゐ尾市
衣服は失踪時のままで汚れた跡はなく、目立った外傷もない。そしてなにより、失踪中のことを希は全く覚えていなかった。どのようにして隣県まで行ったのか、何の目的があったのか。なにもかも不明だった。
病院精密検査を受けたが結果に異状はなく、心理的な疲弊も見られなかった。
警察は事件の線で捜査を進めたが、失踪の謎を探る手掛かりは何一つ出てこなかった。
数日の間、彼女を見たものもいなければ、彼女がどこかへ立ち寄った痕跡もない。ゐ尾市までの数百キロの道程は女性一人で完歩するにはあまりに険しい。仮に歩いたのだとしても目撃情報が全くないというのはあり得ない。
持っていた財布も使用した形跡がなく、どう飢えや渇きをしのいだのか分からなかった。
まるで忽然とこの世界から消えてしまっていたみたい― 希は夫にそう口走った。恐怖感はなく、むしろこの不可思議な状況は彼女に一種のファンタジックな面白さすら感じていた。そんな彼女に警察はもっと現実的な可能性を示唆した。
「誰も目撃者がいない。自力で移動した痕跡もないとすれば、まず真っ先に考えられるのは誘拐でしょう。誰かに連れさられ、監禁されていたのだとすれば、移動の謎も食事を取っていることも説明がつきます」
“誘拐”
希はその可能性について考えてみる。
身代金等の要求がなかった為、金銭目的の誘拐ではない。となると。考えられるのは強姦目的の誘拐。それによって子供を孕んでしまったという事は充分あり得る。しかし、ならばなぜ突然放任したのか。記憶が消失してしまったのはなぜか。
可能性はどこまでも可能性でしかなく、解決の糸口にはなりえなかった。
失踪後の足取りを追う痕跡はなかったが、事件後残ったものもあった。
ひじの付け根から第二腕に向かって少し下がったところに、事件後小さな痣が出来ているのを希は見つけた。
五百円玉程のその痣は、楕円と十字架を重ねたような奇妙な形をしていた。
内出血特有の指で押したときに感じるような痛みはなく、通常の打撲痕と違って、その奇妙痣はしばらくたっても消えなかった。
稀に内出血した痕が内部で凝固し、小さな斑点として体に残ることはある。希も最初はその一つだと思っていた。
希がその記事を見つけたのは、息子の父を探し始めて数日たった頃だった。連日、思いつく限りのキーワードを検索エンジンに入力し、情報収集に注力していた彼女は、ゐ尾市のローカル情報を扱うとある個人ページの中にその記事を見つけた。
記事は『痣で新興宗教団体を提訴』と見出しが付けられ、ゐ尾市在住の女性が某教団に対して起こした裁判の傍聴記録が簡素に記されてあった。
被告人の名は
楕円と十字架を重ねた痣。
それは事件後、希の左腕に残った痣と全く同じものだった。
記事を見つけた希は異様な興奮に包まれた。見え始めた真実の輪郭に、彼女は喜びと同時に不安を覚え、少しの間画面を前に放心した。
記事は裁判が翌週へ持ち越しになったというところで終わり、続報を探ったがそれ以上の進展は掴めなかった。
裁判がどうなったのか、そして宗教団体の名前。事件の糸口となりえる肝心の情報は、虫食いの如く欠落していた。
彼女の訴えが事実であるなら、これは大きな手掛かりとなる。四宮 喜納子、彼女に話を聞くしかない―― 希はそう思った。
つづく
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