第81話 どうだい、凄かっただろう
「オルタマリアさん、初めまして! 挨拶が遅れましたが、
柚良は
イチャイチャは見せつけるが、しかし礼儀を欠いて不必要に関係を悪化させる必要はない。そう考えてのことである。
しかし案の定オルタマリアがその手を取ることはなく、だが無視をすることもなくふんぞり返りながら言った。
「ギリシァ地区アテナイのエリオンの長、エイルジーク・ニェチェの娘オルタマリア・ニェチェですわ!」
「素敵なお名前ですね!」
「んふふん、そうでしょうそうでしょう――っではなくて! わたくしに黙って婚約者だなんてどういうことですの!?」
そう食って掛かったオルタマリアを真っすぐ見据え、蒼蓉は握手のために身を乗り出した柚良の体を引き寄せる。
抵抗することなくそれに従った柚良はぽふんっと自ら腕に寄りかかった。
再び静止した蒼蓉だったが、ボロが出る前に再起動すると口元に笑みを浮かべる。
「どういうことも何も、ボクは君と婚約していないからね。そしてこちらから望んだこともない」
「あんなにも情熱的にわたくしの手を握り返してくださったのに!?」
「0歳児の手掌把握反射に意味を見出さないでくれ」
蒼蓉くんにも0歳児の頃があったんですねー、と少々失礼な感想を抱きながらしみじみとしていた柚良はハッとすると演技の続きに取り掛かった。
「私、縁があって
「んまっ! つまり蒼蓉様の優しさに付け込んだと!」
「逆だ、こ……柚良さんをボクの優しさに漬け込んだんだよ」
漬物みたいだと笑う柚良を撫でつつ、蒼蓉は思考が別のところへ飛びそうになるのを繋ぎ止める。
なにせ蒼蓉から『柚良さん』と下の名前のみで呼んだのはこれが初めてだ。
表の世界での蒼蓉にとって苗字で柚良を呼ぶことは友人にすらならずに陰から見守る決意を固めるための行為であり、その癖が今なお続いていたのである。
関係が進んでも切り替えるタイミングを見失っていた。
(正式な結婚を機に切り出そうと思っていたが、まさか今日呼ぶことになるとは思わなかったな……)
しかしオルタマリアに演技を悟らせるほど表には出さず、むしろこの状況を楽しむ方向にシフトさせる。撫でていた手を下すと柚良の肩を抱き、寄りかかる体を支えた。
その手を指を絡ませる形で柚良から握ったことにより、再び再起動が必要になったが致し方のないことである。
むむむ、と口先を尖らせていたオルタマリアはビシッと柚良を指差す。
「わかりましたわ! そのボリューミーなお胸で蒼蓉様をかどわかしましたわね!?」
「身体的特徴についてそういう言及をするのはいけないと思います!」
「それは……それはいけませんわね! そこだけ謝りますわ、ごめんなさい!」
「許します!」
「何やってるんだ君たちは。……なにはともあれ、そういうことだ。オルタマリア、大人しく帰って今後一切仕事以外で関わらないでくれないか」
蒼蓉がそうきっぱりと言ったことにより、オルタマリアは何も言い返せなくなったのか口を引き結んだ。
かと思えば眉根に力を込めて表情を引き締めてから立ち上がる。
その勢いは柚良の前髪がふわりと浮くほどだった。
「わたくし、納得していませんわ! 今日は出直しますが、またきちんとお話しさせてくださいまし!」
「懲りないね、今すべての結論を出したはずだが」
「懲りないのがわたくしの強みですもの!」
オルタマリアは立ち上がったのと同じ勢いで柚良を見る。
「いいですか、柚良さん! 婚約者の座はわたくしのものです、ゆめゆめお忘れなきよう!」
「強かですね~!」
「ではごきげんようッ!」
そう言い残してオルタマリアは部屋を出ていった。
出ていってもしばらくは存在感がその場に残るほどのインパクトで、柚良はその溌剌さと勢いの良さに笑う。一方蒼蓉は少しばかり疲れた様子でイスに背を預けた。
「どうだい、凄かっただろう。じつに有害だ」
「いえ、たしかに思い込みは激しそうでしたけど……根は悪い方じゃないですよね?」
「ほう?」
「あそこから私が蒼蓉くんを騙したとか洗脳したとか、そういう話にも持って行けたのに言いませんでしたし」
色仕掛けで落としたと言及はあったが、ベタベタイチャイチャした様子を見せながらだったのだから当たり前といえば当たり前だと柚良は思う。
きっとオルタマリアの思い込みの激しさにも越えてはならない一線があるのだろう。
柚良はそれを好ましく感じていた。
「私、オルタマリアさんのこと結構好きですよ!」
「変わり者だなァ……生まれてからずっと付きまとわれているボクはもうこりごりだよ」
柚良から離れることを名残惜しげにしつつ、蒼蓉は腰を上げる。
演技は終わっているので柚良がそれを追うことはない。
「……心配していたわりに、うん、なかなかの演技力だったじゃないか」
「いやー、でも細部にこだわるならまだまだですよ。口調はボロが出ないように普段通りにしましたけど、もう少し親しくしても良かったかもしれませんね~……」
「ああ、演技力が心配ってそういう……」
要するに下手で困るというよりも、それなりに演技ができるからこその『心配』が色々とあるということだ。
考えてみればずっと素性を隠して学校に通っていたくらいだもんね、と蒼蓉は咳払いをする。
柚良は感情、特に自分に向けられた負の感情に対して鈍いところがあるためチグハグな受け答えをすることがあるが、それでも演技力だけを見るならなかなかのものだ。
「演技力があったからこそ更に名残惜しいな。ボクは普段から君とああして接していたいんだが」
「わりとちょくちょくひっついているような……?」
「君から来てくれるのが良いんじゃないか」
フリーズはしてしまうものの、何回も接していればそれもなくなるだろう。弱点の克服である。
しかし、だからといって毎日演技をされるというのも蒼蓉の望むところではない。
その上でこの名残惜しさを解消するには、と蒼蓉は柚良を横目で見た。
「今後はいつオルタマリアが来るかわからない。そこで、だ。……これからも君のことを柚良さんと呼んでもいいかい?」
演技に付随したものだが、これなら今後も続けられる。
そう考えて蒼蓉がしたお願い事を聞いた柚良は肩を揺らして笑った。
「あははっ、そこに許可を求められるとは思いませんでしたよ~! もちろん大丈夫です、むしろ呼び捨てでもいいですけど――」
「それに慣れるにはもう少し時間が要りそうだ」
「……蒼蓉くんって奥手なのかそうでないのかわかりにくいですね?」
婚約を迫ったり添い寝をしたり、自分からスキンシップをすることは可能だが名前の呼び方ひとつでここまで対応が変わるものなのかと柚良は目を瞬かせる。
しかし蒼蓉としては今まで自分がこだわってきた点なので段階を踏みたいという気持ちがあったのだ。
アルノス辺りが聞いたなら「そういうところは恋愛慣れしてない十七歳なんだな……」と思っただろう。もちろん絶対に口には出さずに。
「さあ、柚良さん。疲れたろ、あとは自由にしていいよ」
「はいっ、それじゃあ……」
柚良は立ち上がるとグッと握りこぶしを作った。
「オルタマリアさんのこと、ちょっと調べてきますね!!」
これからもここへ来るなら調べておいて損はない。柚良は自分の目で見て耳で聞くことで知るのを好むタイプだ。
しかしこれは意外と好ましい人間だったので相手のことを知っておきたい、という理由によるものである。
瞬時にそう察した蒼蓉は止めようと口を開きかけたが――大きな理由でもない限り、そんなことで柚良が止まらないことも同時に察していた。
「……ボクから言うつもりはないが、彼女は万化亭でも有名人だ。新入りは知らないだろうけどね。だから調べるのはウチでも聞き込みだけにしてくれ」
「はい、わかりました!」
「いい返事だな」
蒼蓉は自分の頭を悩ませる案件が増えた気がしたが、先ほどの様子を見るに柚良の真っ直ぐさはオルタマリアに効き目があるようだ。
悪い着地はしないで済むかもしれない。
希望的観測の可能性はあるが、蒼蓉はそう思っておくことにした。
***
「これは絶ッ対に婚約者間でのコミュニケーション不足が原因ですわ。まったく、わたくしが可愛いあまりにお部屋に閉じ込めたお父様のせいですわよ!」
ぷりぷりと怒りながら自宅へと帰ってきたオルタマリアは所狭しとトピアリーが並ぶ庭を突っ切って玄関へと向かう。
ギリシァ地区のアテナイは暗渠街の中でも比較的クリーンな地区だ。
空気も良く、清掃活動も積極的に行われているため路地が汚れていることもない。植物も特別な処置をせずとも長持ちする傾向があった。
これはすべてここ二十年ほどの間に確立したことであり、オルタマリアの父エイルジークが打ち出した方針によるものである。
エイルジークは暗渠街の出身だが、子供の頃に他国からの旅人の助けを借りて故郷を飛び出し、様々なことを見聞きして学んだ経験があった。
そして家族のために暗渠街へと舞い戻り、その経験を活かしたのだ。
蒼蓉の父もエイルジークの聡明さを買っていたが、しかし『娘に弱い』という短所が悪い方向へと転がり、結局万化亭とも疎遠になってしまった――というのが現状である。
その原因になったとは露知らず、オルタマリアは父に物申してやろうと勢いよく玄関の扉を開く。
「お父様! さっき万化亭にお邪魔したらとんでもないことが――あら?」
ぼうっとした目をしたエイルジークが立っているのが見えた。
その手前にも何者かが立っているが、オルタマリアの位置からは背中しか確認できない。
縛られた黒く艶やかな長い髪、露出している肌面積の方が多い肉体、高い身長。
体つきから女性だということはわかるが、オルタマリアはこんな人間は知らなかった。
「お父様のお客様ですの……?」
「あァ? 娘がいるとは聞いてたが、全然見つからねェから出奔でもしたのかと思ってたぞ」
女性は振り返り、オルタマリアの姿を視界に収めるとにいっと笑う。
その目は白目が闇のように真っ黒だった。
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