結実 その二十三
「いやあああああああ!」
どういうことなの?
この数か月ずっと津田だと思っていた人間は、槙島だったということ?
私はずっとこの男に監視され、そして操られていたということなの?
もう、何も信じられなかった。
津田が、いや槙島が口を開く。
「さて、これで君にかけていた暗示はほぼすべて解けた。少し話をしよう」
これ以上何を話すというのだ?
すべてこいつの仕業だったのだ。
クチナシ様を私の中に召喚するためだけに、凛子を殺し、郁人さんを殺し、そして自分が死んだと思い込ませるためにあの写真の男性を殺し、そして姉を誘拐したのだ。
腹の底からマグマのような赤熱した怒りが湧いてくる。その怒りは涙となって目からあふれ出した。
「あんたと話すことなんて何もない! 凛子を、お姉ちゃんを返してよ!」
ありったけの怒りを声に乗せて叫ぶ。あまりの声量に声帯が痛んだのか、喉の奥に鋭い痛みが走った。
私の叫びを聞いた槙島は目を細める。
「そのことまで思い出したのか。あの時も念入りに暗示をかけたんだけどな」
「……あんたがさっき私を気絶させるために殴ったときにね……自業自得よ」
「しかし、頭に衝撃を食らったうけたくらいで普通は思い出さないんだけれどな。その前によっぽど自分の記憶を疑うようなことが起きないとね。なあ、君はこの手帳を読んで真相に辿り着いたんじゃないか?」
槙島は先ほど私が拾った敷島桜の手帳を掲げる。
私を見つめる彼の目がすべてを見透かすかのように怪しく光る。
この目を私は知っていた。私の嘘を看破する目だ。
「……やっぱりな。君は少し賢すぎる。普通人間は客観的事実よりも主観を優先するんだけどな。真相に辿りついてしまう可能性のある資料はすべて、君の手の届かないところに保管していたんだけれど、まさかこの施設で唯一外側から施錠されていたあの扉の向こうにこんなものが落ちていたとはね。迂闊だったよ」
槙島は苦々し気にそう吐き捨てた。
彼の目的はクチナシ様を私の中に召喚し、その姿を幻視させることだろう。つまり、陸軍の忌まわしい人体実験の再現だ。だとすれば姉を誘拐した時点で目的を達成している。
そしてその事実は、この物語の真相よりももっと重要な意味を持つ。
それは姉と私の生存のための一縷の望みなのだ。
すでに何人もの人間を手にかけている彼だが、それはあくまでこの目的達成のためである。合理的に考えれば目的が達成した時点でこれ以上罪を犯す必要はなくなるのだ。
私はこれから、姉と私が助かるためにこの男と対峙しなければならない。
「あなたの目的は過去の実験の再現なんでしょう?」
槙島はそれには答えず、踵を返して祭壇に向かう。祭壇の上に置かれた何本かの蝋燭を乱雑に払いのけるとそこに腰を掛けた。そして顔を右手で撫でてから眼鏡をかけた。
これは槙島が疲労しているときに見せる癖のようなものだ。
彼は深いため息をついてから答えた。
「概ねそのとおりだよ。僕はね、陸軍が失敗したこの島での第二の実験を再現したかったんだよ」
槙島の言いぶりから察するに、村での実験とは違う目的が第二の実験にはあったということか。津田があの音声ファイルにて語った、クチナシ様を制御するためという第一の実験の目的は十中八九、私にクチナシ様という存在を信じさせるためのカバーストーリーだ。真の目的は村人全員にクチナシ様を幻視させること。集団幻覚を見せることにある。そしてそれは成功した。しかし陸軍はそこで研究を終わらせず、実験場をこの島に移し、同様の実験を行おうとしたわけだ。
「第二の実験の目的は、クチナシ様という集団幻覚を見せることだけじゃないわけね?」
槙島は顔を上げる。
「いや、実験の目的自体は同じさ。しかし、手段が違う」
「手段……」
「そうだ。もともと敷島桜という男はね、ユングが提唱した集合的無意識に興味があった。人間の無意識の奥、深層の領域に存在する、個人の経験や人種、時代などを超越した普遍的な無意識のことだ。ユングは、時代や場所が違っても神話にはドラゴンなどの共通した幻獣種が現れるのは、この無意識の投影だと考えた。そして敷島桜は、その集合的無意識を表面化さることで、人間は超自然的な認識を共有できるのではないかと考えたんだよ。簡単に言えば神との交信さ。しかし、古来より神と交信ができるのはその力のある特別な人間だけだった。それを彼は変えたかったのだろうね。おそらく熱心なキリスト教信者であったことも関係しているのだろう」
槙島はもう一度深いため息をついてから、続ける。
「彼の理論に興味を持ったのが当時の陸軍だ。陸軍はこの集団幻覚を人為的に発生させ、そしてコントロールできれば、他国民のみならず自国民の煽動も容易になると考えた。そして敷島は陸軍の全面的なバックアップを受けてこの実験を開始したわけだ。でもね、理論上は可能であっても、人間の心理というのは複雑だ。同時多発的に複数の人間が共通の超常現象を認識させるのは非常に難しい。それこそ同じ神を信じるコミュニティでもない限り認識の共有化は難しい。だから彼は鎌倉時代、平家の落人たちが源氏を呪うために呼び出したとされる化け物を持ち出し、それを信仰心ではなく恐怖心で村人の心に縛り付けた。まあ、この時点で、集合的無意識の表面化という目的からは外れてしまったわけだ」
彼は冷ややかにそう言い放った。
槙島は先ほど、ユングの提唱した集合的無意識とは人間の深層心理に存在する先天的な無意識のことだと説明した。一方、クチナシ様という存在は、あとから信じ込まされた、後天的な意識である。この時点で敷島桜は出発地点を違えている。
「あの村の実験はほぼ成功していたのでしょう? なぜこの島で第二の実験が行われたの?」
「ああ、その話をしていたんだったね。この一連の実験の絶対条件は、全員がクチナシ様の存在を信じること。しかし、これが意外に難しい。だからまず彼は、薬物投与と催眠による洗脳を行ったのさ。これがあの村での第一の実験の手法だ」
先ほど槙島は第一と第二の実験では手法が異なると言っていた。
なるほど、第一の実験内容を聞けば、アップデートすべきところは明白だ。
「第二の実験は、それらの強制的な洗脳を行わないで集団幻覚が発生するか確認したのね?」
槙島は小さく頷いた。
「そうだ。彼は集団ヒステリーの原理を応用することを思いついた。全員が同時に幻覚を見始める必要はない。きっかけとなる人間がいて、その恐怖が伝搬することによって最終的に全員が同じ幻覚を見ればいいと考えたわけだ。そのために作ったのがこの祭壇であり、この空間さ。ここに人を閉じ込め、恐怖心をあおるわけだ。まあ、これだけのものを作っても、結局儀式は失敗。陸軍の実験だったことも島民にばれ、敷島桜はこの島から逃げ出す羽目になったけどな」
彼は振り返り、巨大なクチナシ様の像を見上げる。
この異様な空間に閉じ込められ、一人、また一人とクチナシ様を幻視し、逃げ惑うようになれば、その恐怖はいとも簡単に伝染し、そしてクチナシ様という存在を信じてしまうだろう。そう、私のように。
「じゃあ、あなたの目的は、私自らがクチナシ様の存在を信じるように仕向けたうえで、本当にクチナシ様を幻視するかどうかを確認するためなの?」
「まあ、概ね正解だ。君にはいくつかの暗示をかけたが、クチナシ様の存在を直接信じ込ませるような暗示は一切かけていない。君は、自らクチナシ様の存在を信じ込んだわけだ」
「そして私はあの時、クチナシ様の存在を幻視した……どうせ見てたんでしょ?」
「まあ、ね。君が幻視したクチナシ様は僕だよ」
あの時クチナシ様に見えたのはこの男だったのか。
「だったら、あなたの実験はもう成功している。私と姉を開放して。これ以上罪を重ねる必要はないでしょう?」
槙島はじっと私を見つめる。
私は彼の手の中で握られている雀だ。彼にその命を握られている。
心臓が煩いほど脈打ち、耳の奥に鼓動が響く。
「実験は、概ね成功していたよ。君が言うとおり。でも、もう一つ目的があった」
「……もう一つ、あった?」
「そうだ。それが君のお姉さんを誘拐した理由だ」
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