結実 その十七
結局T市に到着したのは三時前だった。
タクシーを岬の入口にとめてもらう。
「お客さん、本当にここで良いんですか?」
運転手は運転席から振り向き、そう聞いてきた。その顔には不信感、というより不安のようなものが浮かんでいた。
「良いんです。この先に用があるので」
タクシーのヘッドライトが照らす先、雪がちらつく中、緩やかな左カーブを描く未舗装の道が浮かび上がっている。その道の先は、ヘッドライトの明かりすら届かぬ、漆黒の闇が広がる松林につながっている。
「そう、ですか。あの先に……。お客さん、ライトとか持ってます?」
「え? ああ、一応スマートフォンのライトが」
「それだけ?」
それだけである。ほとんど身一つで飛び出してきたわけで、持っているものと言えば、財布とスマートフォンと、そして鳴らない鈴くらいである。
私は、運転手の問に小さく頷き肯定する。
「ちょっと待ってください」と運転手は助手席のダッシュボードを開け、中から懐中電灯を取り出す。
「これ、使ってください」
「え、でも……」
「遭難でもされたら寝覚めが悪いですから。スマートフォンのライトなんかじゃ心もとないでしょ」
そう言って、彼は半ば無理やりにそれを私に押し付けた。
その懐中電灯は金属製で五百ミリリットルのペットボトルほどの大きさはある。それだけに、ずっしりとした重みがあった。
「ありがとうございます」
「いえ。あと、雪が降ってますから、気を付けて。今年は暖冬みたいで、例年に比べてずいぶん遅い初雪です」
彼はそう言いながらハンドルに腕をのせ、フロントガラスごしに空を仰ぎ見る。
「そう、なんですか」
「ええ、例年であればこのへんはもう雪に埋もれてますよ」
「ここ、来た事あるんですか?」
空を見ていた運転手が振り返る。
「ああ、私、この町の出身なんです。だからこの先に何があるのかも良く知っています」
「そうだったんですね」
「お客さん、星見の岬に来たんでしょ?」
「ええ、まあ、そんなところです」
「今夜は星、見られそうにないですけれど……とにかくお気をつけて」
「ありがとうございます」そう言って私はタクシーを降りた。
この町に着いた時にはちらつくといった程度だった雪は、今や牡丹雪に変わっていた。ぼたぼたと音が鳴るほど大きな雪片が次から次へと空から落ちてくる。
暫くするとざりざりと、タイヤが砂利を踏む音が背後で鳴る。次の瞬間にはタクシーはUターンをして走り去っていった。今までヘッドランプに照らされていた岬に続く道に夜の帳が下りる。
私は手渡された懐中電灯のスイッチを入れる。強烈な光がまっすぐに伸び、あたりを照らす。その白くまぶしい灯りは、牡丹雪に当たるとギラギラと乱反射した。光度は十分すぎるほどあるが、雪のせいで視界は悪かった。
私は一歩踏み出す。
ぐじゅりとブーツの底が融けかけたシャーベット状の雪を踏む感触がした。生き物の臓物を踏みつけるような、そんな嫌な感覚だった。
一陣の海風が吹いた。
ざざあと眼前に広がる真っ黒い杉林が鳴く。来るなと威嚇する獣の咆哮のようだった。
しかし、尻込みしている時間はない。こうしている間も、姉はこの寒空のした、私の助けを待っているはずだ。
私は二歩目を踏み出した。やはり、いやな感触がした。
しばらくざわざわと騒ぐ松林を行くと、石造りの大きな鳥居が見えてきた。
凛子と初めて見たとき、あまりにそれらしい雰囲気に恐怖したことを思い出す。
今は、それよりも遥かに重く、深い恐怖に支配されている。それは、姉を失うことだった。
私は鳥居の前で立ち止まり、柱に右手を重ね何度か掌でその表面を強く突いた。ひやりと冷たい石の感覚とジワリと広がる痺れのような痛み。
この鈍い痛みに私は誓う。必ず姉を助け、そしてこの鳥居を二人でくぐるのだと。
不安と恐怖を必死で払い、私は顔を上げて鳥居をくぐる。
さらにしばらく行くと、本殿があったはずの広場に出る。人の気配は全くなかった。ただ、重く息が詰まりそうなほどの闇がそこにはあった。その闇を手に持った懐中電灯で切り裂いていく。懐中電灯の光の先に、それは浮かび上がる。あの摂社だ。
相変わらず地元の人間が手入れをしているのか、しめ縄も、白い陶器に生けられた何かの植物も真新しい。それとは対照的に、木造の社本体は古く、どこもかしこも灰色にくすんでいる。
私の推理が正しければこの辺りにトンネルの入口があるはずである。
社の周りの地面を懐中電灯で照らしながら注意深く観察する。しかし、土と降り始めた雪しか見えない。何度かブーツの底で雪と土を掻いてみたが、特にそれらしいものなどはなかった。というより、はじめからそこに期待していなかった。トンネルの出口を土で埋めるとは考えにくいからだ。
「だとすれば、やっぱりこの中か」
摂社に視線をやり、独り言ちる。
正直気が進まない。
私はそこまで信心深い人間ではない。しかし、お守りの中身を見ない程度には信心と節度を持っている、つもりだ。お社の中を暴くというのはとてつもない罰当たりな気がした。
しかし今はそんなことを言っている場合ではなかった。
社の正面にまわる。
社は一段上がったところに祭壇らしきものが在り、そこに塩やら酒やらを供える陶器の器が並べられている。その祭壇は私の腰辺りの高さだった。その祭壇の奥には観音開きの扉が一つ。当然、ぴったりと閉じられている。その扉の大きさは幅一メートル、高さ八十センチといったところで、大人一人がぎりぎりくぐれるくらいだ。
私はめいっぱい腕を伸ばし、その扉を開けようと試みるが、祭壇の奥行きが思った以上あり、地に足をつけた状態では届きそうになかった。
祭壇に登るしかない。
祭壇に供えられている器などをひとつひとつ慎重に下ろしていく。それらを地面に置くことすら罰当たりな気がするが、今からもっと罰当たりなことをするのだ。
すべての供え物をどかした後、懐中電灯を先に祭壇に乗せてから両手で祭壇を強く押して体を引き上げ、祭壇の角に右足の膝を何とか滑り込ませる。ジーンズの縫い目に角が引っかかり、腐っていたのかぼろりと木が削れる感触がした。そのまま、這いつくばるようにして祭壇に上がる。手をはたいてから懐中電灯をつかみ、祭壇の上にしゃがみ込む形で姿勢を整える。ブーツの分厚いそこが祭壇の木板を踏むたび、ごつごつ、みしみしと音が鳴る。
懐中電灯で扉を照らすが、特に鍵などはついていないようで安心する。
懐中電灯を脇に挟み、かじかむ手に息を吹きかけてから両手で扉の取っ手に手をかける。両腕に力をこめると、ぎ、ぎぎぎ、と扉が嘶きながらゆっくりと開いていった。
自分が通れるくらいの大きさまで扉を開いてから脇に挟んだ懐中電灯を持ち直し、中を照らす。漆黒といってもよい闇のなか、あるものが浮かび上がる。
それは、二つの人間の眼だった。
私は悲鳴すら出せず、その場に尻もちをついた。
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