結実 その十四

 心臓の鼓動が早くなる。それにつれて口の中が乾いていく。


 まさか……。


「姉さん?」


 姉は、視線を逸らすことなく唇をわなわなと震わせている。明らかに恐怖していた。


 私は姉に駆け寄り、右手をつかんで揺する。


「姉さん! 何か聞こえるの⁉」


 姉はようやくそこで私の存在に気が付いたのか、肩をびくつかせ、そしてゆっくり振り返る。そして震える唇がゆっくりと開く。


「……鳴ってる。ひとりでに。鈴が鳴ってる……」


 心臓が一瞬止まる。


 そんな……あいつが来た!


 恐怖が足元からずるり、ずるり這い上ってくる。


 その恐怖は私の喉元まで這いずってくると、ぐるりと喉元に絡みついて、徐々に首を絞めていく。息がどんどん浅くなり、苦しくなる。


 どうしたらいい?


 あいつが来てしまう。


 逃げなきゃ! 


 でもどこに逃げればいいの?


 分からない。

 

 どうしたら……。


「瑠璃……どうしよう」


 顔面蒼白な姉が呟く。


 やめて。聞きたくない。


 嫌だ。嫌、嫌、嫌、いや、いや!


「私、


 その言葉を聞いた瞬間、目の前に星が散った。脳を鷲づかみにされているかのような激しい頭痛に襲われる。吐き気を伴う猛烈な痛みで目を開けていられない。それどころか、立つことすらままならない。姉の手を握ったまま、膝から崩れ落ちる。


 だめ、やめて!


 連れて行かないで!


 渾身の力で姉の腕を握りしめる。


 しかし、必死の抵抗もむなしく、するりと姉の手が抜けていくのを感じる。


 次の瞬間、鼻筋に強烈な衝撃と鈍い痛みを感じる。そして、口いっぱいに血の味が広がった。


 どうやら、うつ伏せになって床へと倒れ込み、顔面を強打したらしい。


 立ち上がって姉を捕まえなければ。


 必死にもがくが、うまく立ち上がれない。


 その時だった。


 耳元であの音が響く。


 ――りん


 あの化け物の姿が瞼の裏側に広がる。

 

 もう、限界だった。


「いやああああああああああああ!」


 逃げなきゃ!


 殺される!


 必死に手足を動かしているのに、まったく進まない。


 なんで? なんで進まないの?


 嫌! 来ないで!


「あ、あああ、あああああ!」


 その時姉の声がした。


「瑠璃。私行ってくるね……」


 その瞬間、私は正気を取り戻す。


 そうだ。止めなきゃ。


 あいつにお姉ちゃんを奪われてなるものか!


 これ以上、大切な人を傷つけさせない!


 それは激しい怒りだった。それが恐怖心を粉々に打ち砕き、私の両手両足に力を与えた。


 うつ伏せの状態から、何とか仰向けの体勢に体を捻る。腹筋に力を入れて、肩ひじを床につけ何とか起き上がる。


 痛みで涙がとめどなく涙が流れる目を無理やりにこじ開ける。


 玄関へと続く扉の前、姉はこちらを向いて立っていた。


「だめ……姉さん……」


 姉の顔はあの日の凛子と同じだった。


 葉をむき出し、三日月型に歪んだ目は恍惚とし、姉は


「だめ、だめだよ。姉さん。行かないで……」


 立ち上がろうと腕に力を入れる。


 その時だった。


 玄関へと続く扉がゆっくりと開く。


 その扉の向こう、暗がりの中に何かが蠢いている。


 凍えるほど冷たい空気が這い出てくる。それと同時にものすごい腐臭が立ち込める。


 その匂いを嗅いだとたん、胃がひっくり返り、私は体をよじって吐いた。


 そして、あの音が聞こえ始める。その無数の歯音は、無数の羽虫の羽音のように重なりあう。


 暗がりの中で何かがゆらりと立ち上がる。


 八本の枯れ木のように細く、長い腕が暗い廊下いっぱいに広がる。


 その腕で廊下の壁をひっかくようにして、それはずるり、ずるりと這い進む。


 その指が壁を掻くたび、がりり、がりりという嫌な音が響いた。


 そして、ついにリビングの開け放たれた扉と戸枠を八本の腕がつかむ。

みしりと、音が鳴った。


 次の瞬間、暗がりの中から顔のようなものがぬっと現れる。


 その顔には口は無い。いつか見たあの木像と同じとおり、無数の目玉が付いている。その一つ一つが、ぎょろぎょろと、不規則に蠢く。


 そいつはリビングに入ってくると立ち上がった。頭が天井に届きそうなほど大きい。


 ゆっくりと、まるで蜘蛛が獲物を捕らえようと足を広げるかのように、八本の腕が伸びていく。


 その掌には、歯がむき出しになった口が付いていた。


 その口が歪んでいく。


 嗤っているのだ。


 その口が一斉開く。その奥に舌がちらりと覗き、歯の間から唾液が垂れる。

 そして、そいつは言葉を発した。


 ――ハハサマ


 私は、そのまま気を失った。

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