開花 その十六

 神社の北東の斜面を、津田を先頭に登っていく。


 どれだけ歩いていただろうか。


 先ほどまでは風はなく、杉林はしんと静まり返っていた。しかし、今は風が出て来たのか木々が騒めいていた。その音はあの日、凛子が目の前で海に飛び込んだ日に聞いた潮騒に似ていた。


 私を呼ぶ誰かの囁き声にも聞こえた。


 私達は一言も発さず、ただ黙々と斜面を登る。


 道らしきものは何処にも見当たらなかった。たぶん、津田の村の裏手という仮説は本当なのだろう。道など作る意味はないのだ。いや、むしろ作らない方が良いのだ。あの恐ろしい怪物が村に来ないように。


 唐突に杉林が終わりを告げる。


 時刻は正午を少し回ったところ、まだ日は高い。秋の透き通った陽光に照らされたそれは、棚田だった。


 目の前には広大な棚田が聳え、その斜面にはぽつり、ぽつりと民家が建っている。そして、棚田の最上段の辺りには火の見櫓だろうか、塔が見えた。


 しかし、人の気配は全くしない。さっきまではっきり聞こえていた木々のざわめきも止んでいた。あぜ道に生い茂る薄茶色の雑草すらピクリとも動かない。


 まるで、時間が止まっているようだった。


 この静止した空間の中で、動く私達だけが異質だった。


「本当にありましたね……」

「そうだな」

「どうします?」


 正直、私はこの村を探すことばかりに意識がいっており、見つかったあと、どうするか考えていなかった。


 それは津田も同じだったようで、彼は放心したような顔で「とりあえず、手当たり次第に家を訪ねてみるか」と言った。


 それにどれほどの意味があるのかは分からない。しかし、今の私達にはそれくらいのことしかできないと思った。


 私達はとりあえず一番近くにに見えている建物へと向かった。


 それは、茅葺の屋根だったが、その屋根はほぼ朽ち、大きく穴が開いている。しかし、一周してみたが壁は剥がれ落ちてはおらず、粗末な引き戸もきちんと閉まっていた。


 津田が慎重にその戸に手をかけ、引くが開かない。彼は両手で力いっぱいに引いてみるが、ぎしと鳴るだけでびくともしなかった。


「だめだ。開かねえ」

「そう、みたいですね」


 私はあたりを見渡す。


 さっきいた場所から少し棚田を登ったところだったので、見える景色が少し違って見えた。


 下からも見えた火の見櫓の近く、生い茂るあぜ道の雑草頭から、瓦屋根がちらりと覗いていた。


「津田さん。あそこ。棚田の頂上付近に瓦屋根が見えます」


 津田は私の指さす方に目を凝らす。


「ああ、あれか。もしかしたらこの村の村長とか、有力者の家かもしれない。だとするとこの村に関する資料なんかもあるかもしれないな」

「そうですね。行きます?」

「そうだな。どうせアテがあるわけでもないからな」


 津田はそう言うと、その屋敷に向かって歩き出した。


 その屋敷までは直線距離でもそれなりに離れていた。しかし、視界の悪い雑草や入り組んだあぜ道のせいで、想像以上に険しい道で、その屋敷に辿りつくまでたっぷり、三十分以上はかかってしまった。


「すげえ屋敷だな」


 津田が目の前の大きな屋敷に目を見張る。


 まず、屋敷の周囲を塀が囲っている。その壁は黒々とした杉材が使われていた。その塀の頭には瓦で屋根が組んであり、屋敷の周囲をぐるりと囲んでいる。そして、屋敷へと繋がる門は、紅葉寺の仁王門ほどではないが、大きめの車が悠々と入るほど大きかった。


 その門の向こうにちらりと見える屋敷本体も同じく杉材の外壁に、瓦屋根という出で立ちである。私は黒鶴荘の外観を思い出した。


 ほとんどが茅葺屋根の建物の中で、この屋敷の瓦屋根は明らかに異質である。


 そして、ほかの建物とはちがい、ほとんど朽ちていなかった。


「綺麗に残ってますね」

「そうだな。これなら中に入っても危険はなさそうだ」


 津田は門の柱を手で押しながらそう言った。


 私達は門をくぐり抜け、屋敷まで敷かれた飛び石を辿り玄関へとたどり着く。


 津田が大きな引き戸に手をかけるとガラリと音を立てて少し戸が開いた。


「お、開いた」


 そう呟く津田を横目に私は今入ってきた庭に目をやる。その瞬間に私は強烈なデジャブに襲われた。


 私は、ここを知っている。


 立ち止まり、門の方を振り返る。


 ああ、ここだ。ここなのだ。あの白昼夢で私はここに立っていた。


 逃げ惑う村人は、正確に言えばこの屋敷の住人と使用人だったのだ。私がどちらの立場だったのかは知る由もない。しかし、なんとなく、あの時の私はこの家の娘だったのだろうという不思議な確信があった。


「どうかしたのか?」


 私が庭をじっと見つめて動かない私を不思議に思ったのか、津田が声をかけて来た。


「いえ、何でもないです」


 私は何となく自分とクチナシ様との不思議な縁を津田には知られたくないと思った。だから、咄嗟に嘘をついた。


 津田は私の真意を探るように見つめてくる。しかし、「体調が悪くなったら、すぐに言ってくれ」とだけ言うと、彼は戸を開けて土間へと入っていった。


 私も彼につられて屋敷の中へ入る。


 土間らしい冷たい空気とそれに混じる埃の匂いがつんと鼻の奥を刺す。


 土間は三畳ほどの広さがあり、一段上がったところに板の間の廊下が左右に伸びている。目の前の襖は開け放たれており、広い畳張りの部屋が見える。その奥にも襖があり、部屋が続いていることが分かる。


 私は靴ひもを解くために土間にしゃがみこんだ。


「まさか、靴脱いで上がるつもりか?」

「え?」

「屋敷の保存状態は一見良いが、ここは廃墟だってこと忘れるなよ。何が落ちているか分からん。靴は履いておいた方がいい」

「そう、ですね」


 人家に、それも畳張りの屋敷に土足で上がるのには少なからず抵抗があったが、津田の言うとおりである。何かを踏んで怪我でもすれば、最悪下山できなくなる可能性がある。


 私達は土足のまま、屋敷へと歩を進める。


 廊下の板の間を踏むと、ぎいと鳴るが、抜けるようなことはなかった。


 それからしばらく、私達は屋敷内を探索した。

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