開花 その十
津田と私は、そのお爺さんが話していたクチナシ様が現れたという村を探すことにした。津田の推論によれば、その村はこのT市の西側にある可能性が高い。そして、彼の話ぶりからすると、その村は山村であるようだ。
雨は上がっていたが、日没が近かった。
日没後の山歩きは危険が伴う。だから私たちは、明日改めて調査を開始することし、早めの夕食を民宿の食堂で取ることにした。
「しかし、本当にそんなことが可能なんでしょうか?」
私は、目の前で甘鯛の身を無心の様子でほじくっている津田に声をかけた。
津田によれば、誰かが、クチナシ様の現れた真の場所から人々の注目を逸らすために、無人島である咬ヶ島を舞台とした怪談に作り替えたのではないかと言う。
もし、その推論が正しいのだとしたら、その工作活動は百パーセント成功している。今では、その村の存在はすっかりと咬ヶ島にすり替わっていた。
津田は、顔を上げると「なにが?」と言う。
「いや、だから別の噂を広めることによって、その村存在を無かったことになんてできるんですかね?」
津田は箸を置くと、小さな湯呑に入った薄い緑茶を煽ってから、私の疑問に答えた。
「出来るだろうな。前にも言ったが、人間は自分の信じたい話しか信じない」
それは、津田と初めて会ったあの喫茶店で彼が私にした話だ。
「確かにそう言ってましたね」と私は相槌を打つ。
「まあ、これは持論なんだが、島ってのはな、怪談やら怪異の舞台としてはうってつけなんだよ。とある村で起きた怪異譚より、よっぽど民衆のウケがいいんだ」
どうやらオカルトライターとしての持論であるらしい。
しかし、ウケがいいという表現は、少し引っかかる言い方である。それはつまり、信憑性が増すということなのだろうか? 私は、そのまま疑問を口に出してみる。
「ウケがいいっていうのはつまり、信憑性が増すってことですか?」
津田は静かに首を横に振った。
「まあ、それも一因だが、ウケる主たる要因はそこじゃない。島の周りにはある種の結界が存在している」
「結界ですか……」
いかにもオカルトライターらしい表現だと思った。
「海で囲まれている島は、独自の文化や生態系が発達しやすいっていうイメージがあるだろう?」
確かに、そんなイメージはある。というか、ほぼ事実なのではないだろうか。島国である日本にも独自の日本文化というものが存在している。
「そうですね。イメージっていうか、事実に近いと思いますけど」
「まあ、ほぼ事実って言ってもいいだろうな。ただ、陸地から十キロと離れていない島の場合、独自の文化が醸成されることはまずないだろうな」
「そうなんですか?」
「ああ。物流があるだろうからな。物流があれば文化的な交流も生まれるはずだ。それでも、人間は『島』というものに隔絶された土地というイメージを抱く。これが島に存在する結界だ。そして、結界の内側はいつだって異界なのさ」
結界。それは、己の生活圏と異世界を断絶する境界。結界の内側は異世界であり、得体の知れないモノが闊歩していても不思議ではない、そう人間は思うのだと津田は言っているのだ。
確かに、そのとおりかもしれない。
「なるほど。でも、だとすれば島が舞台の怪談がウケるのは、やっぱり信憑性が増すからなんじゃないんですか?」
津田は、先ほどそれは主たる要因ではないと言っていた。信憑性が増す以外に何か理由があるらしいが、私には皆目見当がつかなかった。
「結界ってのは、外界からの干渉を阻害するという役割が確かにあるが、それは結界の一面にしか過ぎない」
外界からの干渉とは、つまり文化や生態系などの流入のことを言っているのだろう。これらが結界によって阻害されるからこそ、結界内の島は異界となりえるのだ。
しかし、それが結界の一面にしか過ぎないと津田は言う。
やはり私にはもう一つの面が何を指すのか分からなかった。
そんな私の思考を表情から読み取ったのか、津田が続ける。
「いや、すまない。回りくどい言い方をした。つまりだ、内側からの干渉を封じるというのも結界の役割なんだ」
「封じる……ですか」
「そうだ。ある種の檻だよ。敷島さんだって、動物園に行ったことはあるだろう? 本来恐ろしい肉食動物であるライオンやら虎なんかを安心して、娯楽として観ることができるのは、檻があるからだ。いいか? 怪談ってのも民衆にとっては娯楽なのさ」
私は彼の言葉にはっとする。
なぜだかは分からない。分からないがしかし、海を渡る幽霊というものの姿を想像することができない。つまりそれは、私が怪異は海を渡れないという先入観を抱いているということである。そして、それはおそらく誰しもが持っている先入観なのではないだろうか?
島に蔓延る恐ろしい怪異達は確かに恐ろしい。しかし、我々の住む生活圏を脅かすことは決してない、そう信じているのである。
これは、確かに動物園の猛獣と同じ構図である。
故に――
「ウケがいい……」
「そうだ。人間ってのは、あさましい生き物だよな」
津田はそう言って、自虐的な笑みを浮かべた。
「ところで、明日、どうします? 山の中を探すと言っても、西側の地区に隣接している山に絞ったとしても相当広いですよ」
このT市は山に囲まれた土地である。すぐ背後には山々が連なっている。
その中から今は無い山村を探し出すというのは不可能に近い。
当然、現在の地図上ではそれらしい土地を見つけることはできなかった。
「それなんだがな、とりあえずT市の市役所に行ってみようと思う」
彼が何をしようとしているのか、私にはなんとなく察しがついた。
私も自身の研究のフィールドワークのため、その土地の市役所によることがある。
「古地図ですね?」
「そうだ。爺さんの話によれば、例の村は、約八十年前には実在していた。その頃の地図があれば何か分かるかもしれない」
「そうですね。いい考えだと思います。とりあえず、明日は朝から市役所に行ってみましょう」
私の提案に津田は黙って頷く。
それ以降は私達は黙して、ただ目の前の夕食を食べた。
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