開花 その三
私は中央線に揺られ、東京近郊のとある駅へと向かっていた。
SNSであの投稿を見つけた次の日、私は件の出版社に電話をかけ、事情を説明した。編集長を名乗る飯塚という男は、最初こそ面倒くさそうに対応していたが、私が経験した話をすると、興味を持ったようだった。
その記事を書いたライターを紹介する代わりに、その事件を記事にさせて欲しいということだった。正直、面白おかしく記事にされることに抵抗はあった。しかし、ようやく見つけた糸口だ。これを手放すわけにはいかなかった。結局、公開前に記事を確認させることを条件に、私は飯塚の取引に乗ったのである。
そして、今私は、その記事を書いたライターの津田という男との待ち合わせ場所に向かっている。
駅を降りると想像以上に大きな改札に面食らってしまう。都心からはかなり離れた土地であるため、もっと閑静な街を想像していた。
しかし、駅周辺は発展しているものの、ひとたび駅から離れれば、そこには想像どおりの閑静な住宅街が広がる、静かな町だった。
ライターとの待ち合わせに指定されたのは、駅からほど近い住宅街の中にある小さな喫茶店だった。半地下のようになっており、一応明かり取りの窓はあるものの、私の腰のあたりまでしかなかった。そのせっかくの窓も黄ばんだ文庫本が山のように積まれ、ほとんど隠れて見えない。辛うじて窓の上部、二十センチほどがその本来の役割を担っているようだ。
喫茶店の扉は年期の入った木製の扉で、中をうかがうことはできない。
私は、意を決して扉を開く。ぎぎぎと重い扉が開く。すると、申し訳程度にコロンと私の入店を知らせるカウベルの音が響いた。
喫茶店の中は想像どおり薄暗く、まさにアングラといった感じである。店内は重たく黒い木製の調度品でまとめられている。此処に来る前、少しネットで調べたところどうやらマニアには少し有名な店であるらしく、レビューが多くあった。おおむねどれも好意的であった。そのレビューの一つによれば、この店のテーブルや椅子はアンティークの栗無垢材で仕立てられているらしい。
どうやらこのご時世には珍しく、まだ喫煙ができる店らしく、店内は染みついた煙草の匂いとコーヒーの匂いで満ちていた。店内にいる客はみな煙草を吸っていた。その煙が店の中に霧のように充満し、アングラ感をさらに加速させていた。
「あんたが敷島さん?」
私の名を呼ぶその声は、低音で少し鼻かかるような響きがあり、コントラバスのように柔らかに響く不思議な声色だった。
私は声のする方に目をやる。
奥の窓際の席に一人の男が座っていた。年の頃は四十代前半といったところだろうか。
男は黒い皮のライダースジャケットを着ている。無造作な髪の造形に無精髭。どちらも清潔感の欠片もない要素だったが、その整った顔立ちのおかげか、汚らしいという感じではなくむしろ似合っている、そんな感じだった。
「は、初めまして。敷島です」
私が彼に近づいて、そう自己紹介するが、彼は軽く頷き自分の目の前の席を指し示すのみだった。
おずおずと席に座る。
すると、すぐにこの店の店員がお冷を片手に注文を取りにやってきた。私はメニューも見ずに、ホットコーヒーを注文した。
コーヒーが来るまでの間、私はさっと机の上を確認する。男は例にもれず、煙草を吸っているようで机の上に置かれた灰皿には吸い殻がたまっている。
男は何も言わないまま、ライダースジャケットの内側から何かを取り出すと、私に放ってよこした。
それはくしゃくしゃになった名刺だった。なんの飾り気もなく、ただ彼の肩書であるフリーライターという文字と、津田 竜二郎という名前とが書かれているのみだった。手に取って裏を返すと、そこには彼の連絡先であろうメールアドレスと携帯の電話番号が記載されている。
私は彼に目線を戻してかから口を開く。
「今日はお時間いただきありがとうございます。でも、何で私が敷島だと分かったんですか?」
「ああ、この店にあんたみたいな若い女は来ないからな」
確かに、女性一人で来るような雰囲気の店ではない。
「あの、それで津田さん……」と私が本題を切り出そうとすると、その言葉を遮られる。
「最初に言っておくけどな、俺はオカルトの類を信じてない。だから、あんたが欲しいと思っているだろう真実は期待しないでくれ」
オカルト雑誌に寄稿しているライターが、オカルトの類を信じていないということにまず驚いた。それと同時に、彼の「欲しいと思っている真実」という言葉が妙に引っかかった。
「私が欲しいと思っている真実ってなんのことですか?」
「あんたは友人の死の真相を知りたいんだろう?」
凛子はまだ失踪中で死んだとは決まっていない。彼の決めつけたような物言いが癪に障り、思わず反論してしまう。
「まだ、死んだとは決まってません」
津田は「ふん」と鼻を鳴らす。
「死んでるに決まってるだろう」
「なんでそんなこと言うんですか!」
私は我慢ならず大声を出してしまった。
ほかの客たちが私達の方に注目する視線を背中で感じる。
「だから、それだよ」
彼の言っているそれとは何のことだか分からず、思わず「は?」と聞き返していた。その声は自分でも驚くほど冷たい響きだった。
「あんたの欲しがっている真実ってやつだよ」
「じゃあ、あなたは凛子の死が真実だって言うんですか!」
凛子の生存の可能性など、ゼロに近い。それは彼女が目の前で飛び降りるところを見た私が一番よく知っている。しかし、まだ遺体は見つかっていない。見つかるまでは生存の可能性だってゼロではないはずだ。
私に怒りを向けられている津田だが、少しも怯むことなく涼しい顔をして言う。
「そうは言ってない。言い方は悪いが、あんたのその友達がどうなっていようと俺には関係ない。だから、俺にとっての真実なんて無いんだよ」
「さっきから言ってる、私にとっての真実とか、あなたにとっての真実とかっていったい何なんですか? 真実というのはたった一つでしょう?」
踏ん反りかえって座っていた津田は上体を起こして机の上に肘をつく。そして両手を組むとその上に顎を乗せた。
「違う。たった一つの真実なんてこの世に存在しない。人間はそれぞれ自分の信じたい事しか信じない。それを人間は愚かなことに『真実』なんていう大層な名前を付けて呼んでるに過ぎない。それがどんなに馬鹿げた虚構にまみれていても、それを信じる人間からすれば真実になる」
「言いたいことは何となく分かりますけど、それでも客観的に見た真実ってものはあるでしょう?」
「ないよ。あるのは客観的な事実だけだ」
「確かに言葉は違いますけど、その両者には大きな違いはないですよね?」
「いや、あるよ」
「どんな違いがあるっていうんですか」
「あんたはもうすでに事実を知ってる。飯塚さんから事前に聞いた話によれば、あんたの前でその友達は身投げしたんだろ? それは紛れもない事実だ。でも、あんたはそれじゃ満足していない。どうして身投げしたのかそれを知りたがっている。そうだろう? たとえばそれが、あんたが調べているクチナシ様とかいう得体の知れないモノの呪いだとして、それが本当にそうだってどうやって確かめるんだよ。本人に聞くか?」
そう言われてはっとする。
そのとおりだ。
いくら私が納得できる真実に至ったところで、それが凛子にとっての真実なのか、さらに言えば凛子の両親にとっても真実になるのか、それは分からない。
ならば、私はどうしたら……。
津田は何かバツが悪そうな表情になって、頭を掻く。
「あー……つまり、まあなんだ。俺が言いたいのは真実なんてものはそれを享受する人間次第だってことで、あんたが信じたいであろうクチナシ様の呪いだなんていうオカルト的な真実について、そういったものを信じていない俺には提供できない。そう言ってるだけだ」
どうやら津田は私がそういった類の話をもろ手で信じ込む人種に見えているらしい。
「私は別にクチナシ様の存在を信じているわけではありません」と私が言うと、津田は一瞬驚いたような顔をする。
「そうなのか? 俺はてっきり……」
「私だって、そんな非科学的なことを本気で信じるほど馬鹿じゃないですよ。ただ、事実として、あの夜、私の友人は『クチナシ様に呼ばれている』とそう言ったんです。だから、それが何なのか知りたいんです。その先に何か真実めいたものがあるのか、それは分かりませんし、それを私自身が信じられるかは分かりませんけど」
でも、もしその先に私の信じる真実があったとして、それを追い求めることに何の意味もないのかもしれない。
「まあ、それを追い求めることに何の意味もないのかもしれませんけどね」
そう私が乾いた声を出すと、津田は意外なことを言った。
「いや、真実を追い求めることは無駄じゃあない、と俺は思う」
「え? でもさっき……」
「たった今世界中で起きている宗教戦争について、あんたは馬鹿げてる、狂っているとそう思うかい?」
「それは、思いませんけど……」
確かに戦争という行為は愚かかもしれない。しかし、彼らが信じる神の存在自体を否定する気にはなれない。
「真実はたった一つじゃない。何を信じるかによって変わるものだ。でも、その人間にとってはたった一つの真実なんだ。それは誰にも侵すことのできない聖域みたいなもんだ。もし、あんたがこの件について、あんたなりの真実ってものにたどり着いて、そして納得できたのなら、あんたは前を向けるんじゃないか?」
そう、かもしれない。
「だったら、あんたにとって真実を追い求めるって姿勢は意味のあることだろう?」
津田はそう言うとふうと長いため息を着いた。それから、机の上に置いてある煙草に手を伸ばす。一瞬ためらい、私に視線をよこす。私は小さく頷いた。
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