発芽 その十
かつ、こつ、かつ、こつ、かつ、こつ……。
私は、重たい秒針の音で目を覚ます。
瞼をこじ開け、片目を薄目に開けて、壁の掛け時計を睨みつける。夜中の二時を回ったところだった。
障子には月光に照らされた木の枝と葉の影が秋風に揺れている。
溜息をつき、うつぶせのまま首を反対方向へと向ける――と、視界の端に青白い何かが見えた。思わずそちらに視線を向ける。
それは人間の足だった。凛子が寝ているはずの布団の上に、ほっそりとした足首が二つ在った。心臓が早鐘のように鳴る。私は両手で口を押さえて、悲鳴を必死に押し殺す。
足首から徐々に目線を上げていく。それは浴衣を着ていた。あの写真の中、浴衣姿の朋絵ちゃんの姿が脳裏に浮かぶ。恐怖が胃の中から喉元へと込み上がってくる。
目を閉じたい。もう、見たくない。そう思うのに、金縛りにでもあったかのように瞼を閉じることはできなかった。一方で視線の方は私の意志に反していつまでも上がり続けている。もう、胸元くらいまでが見えている。女だ。
このまま視線を上げれば、顔が見えてしまう。嫌だ。怖い!
しかし、私の眼球はいうことを聞かず、じりじりとその正体に迫ろうとする。そして、ついにその顔面を私の視線がとらえた。
私は今度こそ小さく悲鳴を上げた。
そこに立っていたのは、凛子だった。
凛子は布団の上に立ったまま、前方の虚空をただ見つめていた。その表情は朋絵ちゃんと同じだった。
「凛子?」
私は人形のように固まっている凛子に声をささやきかける。しかし、凛子は無表情のまま、ただ立ち尽くしている。
「ねえ、凛子?」
私は上半身を起こし、彼女の手に自分の手を重ねながら、今度は少しだけ声帯を震わせて問いかける。
触れた彼女の左腕は氷のように冷たかった。
凛子は何も言わぬまま、私の掴んだ手を振りほどくとおもむろに左腕を上げる。そして前方を指し示してぴたりとその動きを止めた。
彼女がさす方向はちょうど、あの心霊写真が撮られた洗面所の方向をさしている。そこは窓から差し込む月光のちょうど影になっており、たっぷりと闇が詰まっている。
「呼んでる」
凛子がそう呟く。その声は本当に彼女のものなのか不安になるほど抑揚がなく、何の感情も読み取れなかった。
私はもう一度彼女の指さす方向に目線を送る。しかし、やはりそこには暗闇があるだけで、何も見ることはできなかった。
「ちょっと、何言って……」
凛子に視線を戻すと、彼女はゆっくりと左腕を下ろした。そして、くるりと踵を返すと、歩き出す。
私は慌てて立ち上がる。強烈に嫌な予感がした。いや、確信があった。
凛子は死ぬ気だ。
「ちょっと、待って!」
そう、叫んで凛子を後ろから羽交い絞めにする。しかし、彼女はものすごい力で私を振りほどく。その力に押されて私は後ろ手に倒れた。このままでは頭を強打する、そう思った瞬間、肩甲骨のあたりに柔らかい枕の感触を感じ、私は布団の上に倒れたことを理解する。一瞬安堵するがしかし、首と頭は確かな慣性を持っていたようで、私の首は後ろ側に大きくしなり、そのまま後頭部を畳に強打した。
痛みというより、脳を揺さぶる振動に目が眩み、立ち上がって凛子を追いかけたいのに、四肢には力が入らなかった。
何とか立ち上がった時には、凛子の姿は部屋の中にはなかった。
「凛子……!」
ほぼ、転がるように部屋から出る。廊下にも彼女の姿はなかった。もしかしたら、数分間気を失っていたのかもしれない。
彼女の名前を叫びながら全力疾走で彼女の後を追う。ロビーにも凛子の姿はない。玄関の扉が少しだけ開いており、隙間風が泣いている。玄関には私の脱いだブーツしかなく、彼女の靴はなかった。どうやら外に出ていったらしい。どこに向かっているのか、それはもう分かっている。
受付の上の上に置いてある懐中電灯を一つつかむと、私はブーツを履き、靴紐も結ばずに夜へと飛び出した。
あれほど不気味だった松林も、神社も、あの岬へと降りる階段も、まったく怖いとは思わなかった。心は別の恐怖に支配されていた。私はもしかしたらこの世で最も恐れているものかもしれない。
凛子の死だ。
確実にそれが近づいている。私には分かる。彼女は呼ばれていると言った。彼女を呼んでいるものが朋絵ちゃんなのか、それともあの小さな社に祀られる荒魂なのか。それは分からない。
でも、一つだけはっきりしていることがある。
彼女をここに連れてきたのは私だ。私なのだ。
私はあの岬へと繋がる階段をほとんど転がるように駆け下り、凛子の姿を目視する前にそう叫ぶ。
「凛子!」
冷たい外気で串刺しにされた肺の痛みを必死で耐えながら、前方に視線を向ける。
そこには、やはり凛子がいた。凛子は海を臨む断崖の端に、ただ静かに立っていた。
「凛子! そこから離れて!」
必死に叫ぶが彼女には私の声は一切届いていない、そんな気がした。
彼女に駆け寄ろうとしたときだった。背を向けたまま彼女が口を開く。
「瑠璃。そこから見てて」
彼女の言葉には魔力が宿っているのか、私はそこから一歩も動けなくなる。
「私さ、瑠璃のこと好きだったんだよね」
「なによ。急に……」
そんなの、私も同じだ。
「でも、だめ。呼ばれちゃった」
何に呼ばれたというのだ。
「クチナシ様が呼んでる」
クチナシ様。知らない言葉。知らないはずなのに、その言葉を聞いた途端、全身に鳥肌が立つ。
「ねえ、凛子。クチナシ様って……」
「クチナシ様がね。呼んでるの」
凛子は再びそう呟くとゆっくりとこちら振り向く。
西側にだいぶ傾いた満月に青白く照らされた凛子の顔。
その顔は破顔していた。
歯をむき出し、三日月型に歪んだ目は恍惚とし、彼女は嗤っている。
もはやそこに理性はない。
ああ、そうか。彼女も、もう死んでいるのか。
ゆっくりと彼女の体が後ろ側に倒れていく。そして、崖の向こう側へと彼女の死体は消えていった。
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