発芽 その六
「ちょっと、瑠璃ってば。ねえ、大丈夫?」
気が付くと凛子が私の顔を覗き込んでいた。
「だ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ」そう言って、私は頭を少し振ってみる。まだ鈍い痛みが少しだけ残っていたが、だいぶ引いていた。
しかし、今見た映像は何なのだろうか。もちろん知らない場所だった。白昼夢の類なのだろうか。
最後に私の後ろに在った気配を思い出す。それは、明らかに人間のものではなかった。とてつもなく恐ろしい何か。夢の中の私は畏敬の念すら覚えていた。あれは、何だったのか。
ふと、肩甲骨の間あたりから頭の頂点にかけてざわざわと悪寒が走った。私は思わず後ろを振り向く。
そこには窓があった。窓の向こうは深い夜の闇が広がっている。しかし、それだけである。
「大丈夫? 汗すごいよ?」
凛子が心配そうに声をかけてくる。
私は、夜の闇を見つめたまま「大丈夫だよ」と答えた。
凛子の方を振り返ると、その顔には心配の二文字がくっきりと浮かんでいる。
「本当に大丈夫だから。何でもない」
「でも……」
その時、後ろの方で鈴の音が響いた。私の心臓は止まりかけ、思わず肩がすくむ。恐る恐る振り返ると、そこにはお盆を持った茜ちゃんが立っていた。
「お待たせしました」
茜ちゃんはそう私達に声をかけると、自分の座布団に座る。お盆を脇に置いてから私達の方を見て小首をかしげる。
「どうかしましたか?」
「ううん。何でもないよ」とまだ何か言いたげな凛子の視線を感じながら私は答えた。
「そう、ですか。では、コーヒーを淹れますね」
茜ちゃんは持ってきたお盆から細長い袋を手に取ると、巻かれた紐をくるくるとほどいていく。袋を床においてほどくと中から火箸が出てきた。
「もしかして、囲炉裏で?」
「あ、はい。そうです。本当は豆も焙煎するのですが、時間がかかってしまうので今日は焙煎済みのものを使わせてもらいますね」
「本格的だね。ね、凛子?」
私は努めて明るい声を出す。凛子はしばらく私の顔を見つめていたが「そうだね」と一言呟いて、茜ちゃんの方に振り向いた。どうやらあきらめたようだ。
茜ちゃんは、大きめの巾着袋の中から五徳を取り出す。それは珍しい意匠で、三匹のウサギが金属の輪を持ち上げていた。
「うわあ、可愛いね。それ」
「ありがとうございます。つい衝動買いしてしまいました」
「じゃあ、道具も自分で?」と凛子が驚いたような声を出す。
ちらりとお盆に並べられた道具を見ると、コーヒーミルまであった。どうやらこの場で豆を挽いてくれるらしい。
「そうです。あの、恥ずかしいんですけど、私カフェとかに憧れてて、それで……」と茜ちゃんはにかみながら目を伏る。そして、慣れた手つきで囲炉裏の灰の上に五徳を静かに置いた。
「すっごい素敵じゃん!」
「本当ですか?」
茜ちゃんは顔を上げて凛子を見つめる。その目はきらきらと輝いていた。
「ほんと、ほんと。私なんて、朝はインスタントコーヒーだもん。ずぼらだから」
茜ちゃんは「ふふふ」と笑うと、今度は火箸を伸ばして囲炉裏の中心で熾きている炭を一つずつ丁寧に掴み、目の前に置いた五徳の中心へと積んでいく。火箸を伸ばす右の二の腕に左手を添える仕草が何ともそれらしく、美しかった。おそらく、着物の裾が灰に触れないように纏めるための仕草が染みついているのだろう。
五徳の上にそっと鉄瓶を置いてから茜ちゃんは私達の方に視線を向けた。
「あの、お好みってありますか?」
「お好み?」
「お砂糖やミルク、焙煎の度合いとかです」
「ああ、私はブラックで……焙煎とかは分からないのでお任せします」
「私は、ミルクとお砂糖たっぷりで!」
凛子のオーダーを聞いた茜ちゃんは少し意外そうな顔をする。
「意外でしょ? こんな顔しているのにブラックコーヒーが飲めないんだよ」
「あ、いえ。あの……まあ、少しだけ」
「ま、私はこんな見た目しているからねえ。私がブラックで、この子がカフェラテって顔してるでしょ? いや、瑠璃はオレンジジュースって顔か」
まあ、凛子の言わんとしていることは分かる。私は丸顔童顔であり、今でも居酒屋では必ずと言っていいほど年齢を確認されるのだ。
「まあ、そうかもね。大抵凛子とご飯食べに行くと注文取り違えられるしね」
「そうなんですか?」
「そうそう、この間も二人でケーキ食べに行ったんだけれどね、瑠璃は甘いものなんてほとんど食べないからコーヒーだけ注文してさ。私は、和栗のモンブランを注文したわけ。まあ、あとは想像のとおり。私がモンブランを注文しているのを店員は聞いているはずなのに、私の前にブラックコーヒーが置かれるわけ。まあ、もう慣れっこだからね。別にいいのだけれど」
「それはちょっとひどいですね」
「でしょう?」
茜ちゃんはこくりと頷く。そして、漆盆の上にのせられた平たいアルミ製の缶を見つめながら顎に手を当てて何かを考え始めた。
コーヒー豆が入っていると思われるそのアルミ缶は三つあった。蓋にはマスキングテープが張られており、茜ちゃんの字なのだろう、可愛らしい丸文字で産地と日付が記されている。
「瑠璃さん。少し濃いめの味でもいいですか?」
「うん。特にこだわりはないよ?」
「じゃあ、これにします」と言って、茜ちゃんは左に置かれた缶を手に取り、ふたを開ける。
微かな香ばしさがあたりに漂った。茜ちゃんは缶の中身を慣れた手つきでコーヒーミルの中に入れていく。そのコーヒーミルは、ステンレス製で細長い筒状で、下部に付いている挽いたコーヒーを溜めるための容器はガラス製である。都会的でスタイリッシュなデザインだった。大きめのハンドルを回すと小気味のよい音が響き、ガラス製の容器の中に挽かれた豆が降りそそぐ。コーヒー豆が十分溜まると、茜ちゃんはガラス瓶を捻って取り外す。その瞬間、コーヒー特有の香ばしさが周囲の空間に満ちていく。
「うわあ、良い香り」
「私もこの瞬間が好きです」
茜ちゃんは黒色の円錐形をしたドリッパーにフィルターを敷かずにそのままコーヒー豆を乗せる。私は不思議に思って「フィルターはいらないの?」と聞くと、茜ちゃんは嬉しそうに笑う。
「これフィルターレスのドリッパーなんですよ。陶器でできていて、目に見えないほどの目が開いているんです」
「へーおしゃれだね」と凛子が関心したような声を出す。
茜ちゃんは嬉しそうに、丁度沸いた鉄瓶を持ち上げると、ドリッパーの上から少量のお湯をかけ回す。すると、コーヒー豆が湯を吸って、まるで生き物が呼吸するかのようにふっくらと膨らんでくる。途端に、コーヒーの香りとともに、腐葉土を思わせるコクのある少し湿っぽい香りが充満した。
十分に豆を蒸らされると、茜ちゃんはゆっくりと湯を足していく。するとドリッパーの底から、コーヒーの雫がじわじわと垂れてきた。確かに、目が開いているようである。
「なんだか不思議だね」と凛子に問いかける。凛子は、座ったまま屈んで、ドリッパーの底から染み出るコーヒーをまじまじと見つめながら、頷いた。
「さあ、どうぞ」
茜ちゃんがソーサーに置かれたコーヒーカップを渡してくれた。そのカップは陶器製で複雑な土の色がマーブル状に交じりあい、どこか男性的で無骨な印象であった。この囲炉裏の雰囲気にはとてもマッチする。しかし、茜ちゃんの都会的でスタイリッシュな道具の数々とは違った趣である。おそらく、この宿のものなのだろう。
手渡されたカップを胸元まで引き寄せ、注がれたコーヒーを覗きこむ。カップの内側は外側の無骨で自然的な印象とは全く異なり、鮮やかな水色をしていた。コーヒーの艶のある黒とのコントラストがとても美しかった。
一口すすると、コクのある苦みと深い焙煎の香りが口いっぱいに広がる。そして後からは、ほんのり控えめな酸味が追ってきた。
私と凛子は同時に深いため息をついた。
「おいし……」
「ちゃんと甘くて飲みやすいのに、コーヒーの香ばしい香りって言うのかな、それがちゃんとするね」
「そうですか? 良かったです。ミルクやお砂糖に負けないような、ボディが少し厚めな豆を選んだんです」
ボディが厚め……。高校生の発言とは到底思えぬ表現に私はすっかり舌を巻いてしまった。
それからしばらくの時間、私達は他愛のない話をした。
凛子はずっと本題に移るタイミングをうかがっているようだったが、中々切り出せないでいた。
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