知床
能取湖と網走湖の間を抜けると網走市だ。網走刑務所ってどこにあるのかな。
「あの辺のはずや」
あら、市街地に近いのね。
「今のはな。昔のやつもついでやから見とこか」
網走刑務所は明治二十三年に出来て、昭和五十九年に移転したんだそう。だからわたしやコトリが映画とかでイメージする網走刑務所は移転前のものになる。これが保存されて残ってるんだよ。
正門はなんか見覚えがあるな。いかにも監獄って厳めしさが漂うもの。ここがムショとシャバの境界線だったのよね。正門を潜ると庁舎があるけど立派だよ。その庁舎の後ろにあるのが五翼放射状舎房になってるのか。
「さすがにムショの経験はあらへんけど、そもそも網走に連れて来られた時点で絶望しそうや」
ここもまた最北の刑務所だものね。ムショ生活は誰かがおもしろおかしく書いた本がヒットした事あるけど、網走になると格が違う気がする。そう言えばかつての押し売りの定番脅し文句に、
『網走から帰って来た』
こんなのもあったぐらい。今だって収容対象者は収容分類級Bと言って、再犯者や暴力団構成員だものね。かなりの重罪者用の刑務所だよ。
「その辺は網走番外地で日本中に名を轟かせたらな」
全十作のシリーズものだったんだ。あの頃はヤクザ映画が全盛だったものね。う~ん、う~ん、
「どないしたん。ウンコか」
誰に向かって言ってるんだよ。わたしは毎朝快便よ。そうじゃなくて、稚内と網走とどっちの方が左遷かなって。
「イメージは網走やけど、実際に暮らすんやったら稚内かな。そや、礼文島にでも営業所作ろか」
そんなことのために要らないけど、辞令を受けたショックはやっぱり網走だよね。だって左遷されるのは内地の人だし。
「行くで、だいぶ時間も押してきた」
「らじゃ」
斜里を過ぎたらいよいよ知床半島に。オシンコシン滝を横目に見てウトロに。
「知床五湖の方に行くで」
「らじゃ」
ウトロに泊まらないんだ。
「岩屋別温泉や」
「らじゃ」
らじゃだけど、すっごい宿の名前じゃない。だってだよ、
『地の涯』
それもここから三・八キロもあるよ。つうか本当にあるのかな。
「あるわい。あるから看板あるんやろが」
想像を絶する物凄い宿の気がしてきた。断崖絶壁に建つ一軒家で、そこには無免許の顔に縫い目だらけの外科医が住んでいて、法外の報酬で今日も奇跡の腕を揮っている。
「それはブラックジャックや」
じゃあ、じゃあ、鄙びた一軒家に老婆が住んでいて、夜になると大きな包丁を研いで・・・
「それは安達ケ原の山姥じゃ」
だったら、だったら、
「しょうもないこと言うてる間に着いたで」
ありゃ、こんなところにと言ったら失礼になるかもしれないけど、三階建ての立派なリゾートホテルだ。期待して損した。
「あのな」
怒らない、怒らない。でも間違いなく一軒宿の秘湯だよ。それも知床の山の奥じゃない。こんなに気候の厳しいところだから、これぐらい立派じゃないと冬に耐えられないのじゃないかな。部屋に案内されて温泉だ。入るのはもちろん混浴露天風呂。
露天風呂も色々あって、単に屋根のないものを露天風呂としてるところも多いのよね。これも仕方がないところがあって、とくに女風呂の場合は覗き魔対策がどうしても必要になる。
風呂からの眺望が良いと言うのは、そこから見られるになるから、どうしても風呂場の回りを囲むことになり、空いてるのは上だけの構造になってしまうのよね。でも、ここの露天風呂はなかなか。
一軒家だからホテル側からだけの視界を遮ればOKなんだよね。後は知床の森から覗きに来るようなものはいない。つまり森の中の露天風呂って趣向がおもしろい。お湯は透明だけど、
「微妙に色が付いとるな」
光の加減でターコイズブルーからエメラルドに変わるらしい。今はターコイズブルーかな。今日も良く走ったから気持ちがイイ。
夕食はお食事処か。ここの食事も豪勢だな。ウトロ産自家製イクラ醤油漬け、ウトロ産鮭白子、オホーツク産秋刀魚、斜里産カラス鱧、ウトロ産かすべ、知床産エゾ鹿肉、ウトロ産サメガレイ、斜里産北寄、ウトロ産タラバ蟹、ウトロ産メンメ、羅臼産帆立稚貝、ウトロ産もずく・・・これぞ知床の味の全員集合みたいなものじゃない。
「知床産羆肉焼きと羅臼産桜鱒ルイベ下さい」
「ウトロ産茹で毛蟹も」
これ、これこそが北海道の味のオンパレード。お酒はオホーツクビールに網走ビール。お酒は純米吟醸北の旅人に暑寒美人・・・良い宿だよ。こんなもの言い出せばキリがないけど、コトリの選ぶ宿にまずハズレはない。
「当たり前や」
だね。わたしの好みを知り尽くしてるもの。そんなことはともかく知床まで来るとさすがに観光客は多いね。
「やっぱり憧れやろ」
北海道で一番メジャーなのは札幌から小樽ぐらいだと思う。次が旭川とか函館かな。交通の便は悪くないし、観光地としての整備も十分で誰でも満足できると思うよ。だけど知床は遠い。遠いけど有名なのが知床。
「東京からのツーリングやったら絶対に目指すとこや」
東京からのフェリーとなると苫小牧だもんね。苫小牧から北上してオロロンラインを目指すのもいるけど、
「初めてやったら東に向かう知床やろ」
宗谷岬を目指すとなると北海道一周みたいな大ツーリングになっちゃうものね。そうする人ももちろんいるけど、
「北海道ツーリングの夢みたいなもんやろうけど、そこまで休みを取るのが簡単やない」
学生なら夏休みがあるけど、今度はカネがないになるのよね。それでも二週間とか三週間かけてのロングラン・ツーリングをするのもいる。それぐらい魅力のあるのが北海道だと思うよ。
「北海道はデッカイどぅ」
いつの時代のフレーズなのよ。知床は良いとこだと思うけど、ここまで人を惹きつけるのはやっぱり世界遺産だから、
「世界遺産やからと言うより、世界遺産に選ばれるほどのとこやからやろ。それとなにより知名度が群を抜いて高い」
やっぱりあの歌か。作られたのは一九六〇年に作られた映画の『地の涯に生きるもの』で、森繁久彌が羅臼町に長期ロケで滞在した時に作られてる。
「あれも数奇な歌やな」
そうなのよね。こういうシチュエーションなら映画の主題歌なり挿入歌としてヒットのパターンが多いけど、主題歌にも挿入歌にもなっていない。
「映画かって誰も覚えとらんで」
森繁久彌はロケでお世話になった羅臼の人に歌を贈りたいと言い出して、障子紙に歌詞を書き、サラバ羅臼と題して、ロケ隊が去る時のパーティか何かで歌ったとされてるんだよね。
「それが巡り巡って大ヒット」
何度も何度も数えきれないぐらいカバーされる名曲になり、知床の名前が歌詞の旅情あふれるイメージと共に広まり定着し、誰もが一度は訪れてみたい憧れの地になったのよね。
「そやからコトリらもあれだけ無理を重ねて来とる」
明日が楽しみだ。
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