第17話
十一月九日、水曜日。
私は夏目さんの作った資料を持って、朝から工場へと行ってきた。
製造部ならびに生産管理課に頭を下げるも、非難轟々でボロクソに怒られた。いやいや、二言目には出来ないって……あんたら、ちょっとは会社の利益を考えろよ。
部長か役員を連れて行けばよかったかもしれないが、泣きつけば今度はそっちから怒られる。中間管理職なんてもう嫌だ!
完膚なきまでに心が折れて、このまま遠くに失踪することを考えた。でも、直帰できる時間ではないから律儀にオフィスへと戻った私は、根っからの社畜だった。
結局のところ、午後四時過ぎに帰社した。
「とりあえず、製造とは話まとめてきました。年明けから大丈夫です」
私は無理して、仕事用の愛想笑いを浮かべた。夏目さんに報告すると、課長席に座った。
はー、しんどい。早く帰って、お酒飲んで寝たい。
「お疲れさまでした。感謝してますよ」
夏目さんは給湯室に向かい、上機嫌にホットコーヒーを淹れてきた。
私はそれを受け取るが、正直たかがコーヒー一杯で全然割に合わない。それでも、こうやって労ってくれるだけで、めっちゃ嬉しい。ちょっとは報われたような気がする。あっ、やば……泣きそうだ。
「あ、ありがとうございます」
インスタントの不味いコーヒーなのに、なんか美味しい。大嫌いな人間なのに、聖人みたいに見えてきた。
軽く感動していると――一番遠くの席からシラけた視線を感じて、私は我に返った。
小林さんが、めっちゃ不機嫌な表情でこっちを見ていた。ふたりきりの時に見る表情だが、オフィスでは初めてだ。というか、ここでそれはマズいだろ!? いつもの弱々しい演技はどうした!?
私は焦ってコーヒーを飲み干すと、強引に気持ちを切り替えた。
「留守中、何かありませんでしたか?」
「いえ、特には……」
夏目さんは私の様子に驚きながら返事をした。
係長との会話ぐらいは許して欲しい。というか、最低限の意思疎通が無ければ仕事にならない。
相変わらず不機嫌そうな様子の小林さんを、私はちらりと見て――訴えかけた。
*
午後七時過ぎ、私は会社を出て帰路を歩いた。
長い一日が、ようやく終わった。気分はもう金曜日のようだった。一週間やりきった感があるが、今週あと二日も残っていることに絶望した。
『今夜は私が作るので、まっすぐ帰ってきてください』
スマホを見ると、メッセージアプリに小林さんからその一文だけが届いていた。いつものように絵文字や変なスタンプが無いから、まだ不機嫌なんだと察した。
いやいや……それよりも、小林さんが料理するのか? ようやく念願が叶ったというのに、いざそうなると不安しかないのはどうしてだろう……。
二重の絶望を味わいながら、私は帰宅した。
「た、ただいま」
アミが尻尾をピンと立てながら、出迎えてくれた。
少しだけ癒やされるも、何か香ばしいような……変な匂いが玄関まで漂っていた。いったい何を料理したのか、全く想像できない。
私は恐る恐る、リビングに繋がる扉を開けた。
「……なにこれ?」
ダイニングテーブルに置かれた皿を見て、率直な感想を漏らした。
「ハンバーグです」
小林さんのボソッとした声で、なんとなく理解できた。なるほど……それを作ろうとしたのか。
でも、実際皿にある黒いのは『団子状にした挽肉を焼いただけのもの』だった。
……どこからツッコんでいいのか、わからない。
見た感じ、ハンバーグに必要な材料が、挽肉以外に不足している。というか、ふっくら感ゼロだから蒸し焼きにもしていないだろう。絶対に中まで火が通ってない。
どれだけ気遣っても、私はこれを口にするわけにはいかなかった……生命の危機的に。
「えっと……」
「ハンバーグです」
もう一度言われるが、いくらゴリ押してもそう定義することは不可能だ。
ネタでやってるなら……食べ物で遊ぶなとは言いたいが、まだ許そう。ガチで料理してこれなのか、それとも私への恨みでこれを作ったのか、どっちなんだろう。
「わ、私がアレンジするよ」
失礼だとは思いつつも、私は皿を一旦下げた。
冷蔵庫にナスがあったから、潰した挽肉の塊と一緒に炒めて、砂糖と醤油とみりんで甘辛く味付けた。これでなんとか、最低限は食べられるものになった。
「どう? 美味しい?」
「はい……」
一緒に夕飯にするも、小林さんの不貞腐れた様子は一向に変わらなかった。
な、なんだこの空気……。どうして私が加害者みたいに罪悪感持ってるんだ? どう考えても被害者じゃないか。人んちに勝手に住み着いておいて逆ギレする精神が理解できない。
夏目さんとのことで怒っているのは違いない。とはいえ、仕事での付き合いがある以上、小林さんと変な約束を交わせないため、私は何も言えなかった。
というか、どのように切り込んで何を話せばいいのか、わからなかった。
頭をフル回転させて複雑に考えていたから、ストロングなチューハイを飲んでも全然酔えなかった。
私は食後しばらくしてから風呂に入り、リビングに適当に過ごし、午後十一時頃――一足先にベッドに向かった。
相変わらず、ギクシャクした空気のままだった。だが、いつまでも小林さんを腫れ物のように扱っても、埒が明かない。
「なあ……。どうしてそんなに怒ってるんだ?」
ベッドに横になり――開いた扉から見えるリビングのソファーに話しかけた。
理由なんて、わかってる。ただ、確かめたかっただけ……。それでも、夏目さんの名前を敢えて出さなかった。卑怯だな、私。
小林さんはソファーから立ち上がると、リビングの灯りを消して寝室に入ってきた。アミが行き来できるだけの隙間を残して扉を締めた。
そして、ベッドに入ってきた。幼い子供のように頬を膨らませて、ベッド内で私と向き合った。
「沙緒里さんがわたしと付き合い始めたの、いつだったか覚えてます?」
「は?」
予想もしないことを訊かれて、私はポカンとなった。
「えっと……一ヶ月ぐらい前だろ?」
「そうですよ。四日でちょうど一ヶ月でしたよ。なのに沙緒里さん、一ヶ月記念日忘れてたじゃないですか……」
え? 一ヶ月記念日? なんだそれ?
面倒くさいことを言い出したなと思う。そもそも、本当に先月の四日がそうだったのか疑問だ。でも、確かめる術が無いため、信じるしかなかった。
というか、小林さんも絶対に忘れてたよね? どうして今さら、そういうこと言い出すの?
私は口を開いてつい訊ねそうになるが――小林さんの意図を察した。
そうか。これはきっと、拗ねるための口実なんだ。小林さんも、夏目さんの名前を出したくないんだ。
「ごめんな……。二ヶ月記念は、覚えておく」
私は苦笑して謝った。忘れるかもしれないが、なるべく覚えておこう。
「いいですか? 次は忘れちゃダメですからね?」
小林さんは、おかしそうに笑った。
ああ、このウザい感じ……ようやくいつもの調子に戻ったことを、実感した。
安心していると、小林さんから頬を触れられた。
「沙緒里さんは……わたしに何か自分の痕跡みたいなのを残したいって、考えたことないですか?」
「よくわからないんだが……たとえば?」
「見えるところのキスマークとか」
なるほど。この現状から、嫉妬の延長なのだと納得した。だが――
「私は、別に……」
仕事への支障を第一に考えた。いや、それを除いても、キスマークをつけたい願望は無かった。
それが本心にしろ、無関心な回答になってしまったと、後になって思った。小林さんが面倒くさい感じになってる今、やらかしたかもしれない。嘘でも合わせるべきだったか?
「わたしは沙緒里さんに、何かカタチを残したいです」
内心で焦っていると、小林さんの手が頬から耳たぶへと移った。
「わたしがピアス穴開けたらダメですか?」
目が笑ってない……。冗談じゃなくて、マジで言ってる。
ニュアンスとしては、ピアスを着けるためというより、地域猫のさくら耳のように感じた。見て識別できる、みたいな。私は少し怖くなるが、まだ冷静だった。
「一応は営業の仕事だから、ダーメ」
もし仮に開けたとしても、会社側から注意はされないだろう。でも、営業職としても課長という立場としても、個人的にNGだった。やっぱり、ビジネスで客と接する機会がある以上、きちんとした印象は大切だ。……古い価値観なのかもしれないが。
私は小林さんの耳を見ると、意外と開いてなかった。就活の時に閉じたのかもな。
「それじゃあ……周りから見えなくてもいいんで、おヘソはどうですか?」
小林さんの手が、次は下の方に伸びた。衣服越しだがお腹を撫でられて、ゾクゾクと悪寒が走った。
ヘソピアスって……ただの偏見だが、ビッチじゃないか。それならまだ、耳の方がマシだ。いや、そもそも――
「どこだろうと、痛いのはダメだ。親から貰った身体を、粗末にしたくない」
もっともな理由を付け足すが、単純に痛い思いをしたくなかった。私だけじゃなくて、小林さんにもさせたくない。
「へー。それじゃあ、痛くなかったらいいんですね?」
小林さんは私の下半身を撫でながら、小悪魔じみた笑みを浮かべた。
どうして、そうまでして痕跡を残したい? ここまで駆り立てる執念のようなものが――そういえば、あるんだったな。
「度を過ぎたやつじゃなかったらな……」
それで気が済むなら、今後悪化させないためにも、受け止めてあげよう。
「まあ、考えておきます」
つい了承してしまったが、嫌な予感しかしない……。
昼は仕事でボコボコにされて、夜は小林さんから身体に穴を開けられそうになって――あれ? 私、どうしてこうなってる?
どっちも夏目さんが悪いんじゃないか! なんか、泣きたくなってきた。
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