32_盤上のステラ

 僕(ユウ)は戦場を傍観することしかできなかった。

…なんでみんな躊躇もなくいけるんだ

 膝を折ったまま、そんな言葉が脳裏を駆ける。足は完全にすくんでしまって、立ち上げることもままならなかった。眼前の戦場を見やると、ヨスガが既に負傷、直人は光り輝く一点を目指し、疾走している。

 千鶴はのたうち回る蛇の鼻に正確に火の杭で攻撃をしていた。蛇の動きには「身体能力強化」で対応している。しかし、その行動が僕の知っている彼女より硬かった。

 彼女もきっと怖いのだ。しかし、付和雷同とでもいうのだろうか。千鶴は昔から多数意見に流されてしまう人だった。きっと今回もみんながやっているからやるという感じだ。


 けれど、今の僕よりはマシだろう。


 僕はこの場から一歩も動くことさえ叶わないのだ。

 仲間なのに、その筈なのに。どれだけ信号を送っても反応しない足に歯噛みする。信じられない力が込められ、奥歯がギリリと鳴った。そして意識に反してひとりでに膝から崩れ落ちた。

 …どうして動いてくれないんだ!

「たのむよ…動いてくれよ」

 言葉が嗚咽と共に漏れ出た。これでは命を賭して戦う仲間に申し訳がない。僕は戦場から目を背けるように下を向いた。

 破砕、振動、倒木、弓音、爆裂、摩擦…様々な音が聴覚を支配する。戦場の緊迫感が鼓動を加速させる。息が早くなるのがわかった。

 その音の海から脱すために顔を上げたその時。

 蛇はヨスガの攻撃から復帰し、正気を取り戻していた。

 そして、最も近くにいる千鶴を見据えていた。

 能力者じゃなくても分かる。次の攻撃対象は確実に彼女だ。蛇に睨まれた千鶴はカチリと静物のように止まってしまった。

 ヨスガは負傷、アオバは彼の治療中。直人と黒栄は遥か後方だ。

  ——もう動けるのは僕だけだ

 まるで嘲笑うかのように大蛇の顎門が開き始める。毒牙が禍々しく煌めいた。一つ一つの事象が緩やかに感じられる。

 そして彼女にそれが迫った刹那。


 動けぇぇぇぇぇぇぇ‼︎


 激情に駆られて僕は走り出していた。「彼女を守る」それだけを考えて。

 魔術によって、敵との距離を一気に詰め、蛇と千鶴の間に割り込む。そして、形成した盾でその頭骨を砕くつもりで力の限り振り抜いた。大蛇の攻撃が僅かに横へと逸れ、勢いそのままに盾を削る破砕音を撒き散らしながら、眼前をその巨体がすり抜けていく。

「ユウ、どうして……」

 表情からは驚きが見え隠れする。ペタンと座る千鶴の口から漏れた。

「今も怖いのは変わらない、できれば戦いたくない。…けれど、友達を見捨てるほど落ちぶれてもいないみたいだ。…僕も戦うよ」

 僕は自然と体が動いた原因をそう断定した。

 そして、頭に浮かんだ単純な作戦を告げる。少しでも彼女の恐怖心を軽減できれば、とそんなことを考えながら。

「僕が君を守る。だから、攻撃を頼む」

「わかった。じゃあ、任せるね」

 彼女は目端の涙を拭うと、口角を上げてそういった。

「次来るよ!」

「わかってる」

 僕は魔術の元たる水の魔弾を顕現させた。そして、敵に目を据え決意を新たにする。その時、直人が剣を引き抜くのが見えた。

 

*  *  *


 俺は蛇がヨスガに攻撃した時に背中に飛び乗り、剣のところまで駆けてきた。蛇は体表で音を感知する。走り回っていたら、気づかれないわけがなかった。ここに来るまで何度体を捻られ、落とされそうになったか。

「ったく、あいつら碌なことしねえな」

 剣を見据えた俺はそう呟いた。あいつらとはあの二人組のことだ。地上から見た時はわからなかったがその剣は「兄」が持っていたものだった。

 黒栄の視覚が役に立たなくなった時、なぜかは分からないがあいつがこの蛇に剣を突き刺して、怒りを買ったのだろう。魔獣に喧嘩売って生きているのだからあの二人組は悪運が人一倍強いのかもしれない。

「選り好みのできる状況じゃないしな」

 俺は剣の柄を握り、灼熱を付与する。剣の刺さる根本から煙が上がり、肉が焦げる匂いが鼻を突いた。

「ペトラ、これからこいつの肉削ぎまくってやろうぜ」

 当然、相方からの返事はない。体内の自然力を暴走させないように格闘しているからだ。

 肉自体を切り離し、さらに焼けばこの蛇にかなり再生時間を要させることができる。それに肉が薄くなれば、黒栄が核を特定しやすくなるはずだ。

「そんじゃ、行きますか」

 剣をさらに深く食い込ませて横に裂くようにして振り抜いた。しかし、俺はこいつの動きを鈍らせることはできても、殺すことができない。正確にはできないわけではないのだが、蛇が持つ魔獣としての膨大な自然力を枯らすまでには俺の持つ自然力の消費と回復に多大な時間を要する。だから、これからやるのは時間稼ぎだ。

 全ては黒栄の持つ必殺の一撃にかかっている。


*  *  *


…ああ、もう!ここもダメじゃない。

 私は地団駄を踏んだ。それに合わせて足場にしている木が揺れる。相変わらず視界は白くなっていて、本戦場を離れても白く風景の輪郭が捉えられるだけだった。とてもではないが、核を特定できる状態ではない。

 ヨスガと違ってこの目は天性のもので私の意思で使用、不使用を選べるわけではない。もう目がおかしくなりそうだった。


…けれど、いつまでも彼らが持つわけもないわ。

 四人と一匹の自然力の枯渇と黒蛇の持つ自然力の枯渇はどちらが早いかは、一目瞭然だった。しかし、今から生き延びるために敗走したとしても既に匂いは覚えられている。追撃は必死だった。つまり、背中を向けることイコール『死』だ。立ち向かう以外の選択肢はとうに消えている。いや、始めからなかったか。


 自分の運の悪さに嫌気がさすが、現実から目を逸らすわけにもいかない。魔術で生成したいくつかの球を、押し潰すようなイメージで足場を作りながら蛇を取り囲む木の上を移動する。

 その時、一瞬だが視界の中でごく小さい赤い玉が蠢いたような気がした。

 その場で止まり、眼球を発端とする痛みから閉じそうになる目を無理やり見開く。水晶体を中心にさらに痛みが波紋し、本能が苦痛を訴えてくる。

…今、閉じるわけにはいかない。手繰り寄せられそうなのだ。勝利につながる糸を。

 私は目を目まぐるしく動かす。

 すると、平面で大蛇の下顎の近く、奥行きで体表から左毒牙の真ん中の位置にそれはあった。ところが、核を特定するのと同時に左目から血が頬を伝う。それは私に視覚の限界が近いことを知らせた。

 私はその身体から警告を無視して手に握る弩級の弓を頭の頂点に持っていき、ありったけの自然力を用いて生成した三つの水球を形状変化させ、矢を番える。 

 そして、肩甲骨を閉じるようにして弓矢を構えた。

…核が動いている?いや、位置は変わってないわ。蛇自体が激しく動いているみたいね。

 しかし、それが大きく影響を及ぼした。標準が定まらないのだ。

 …誰か、お願い。一瞬でいい。あいつの動きを止めて。

 私は願うことしかできなかった。もう魔術を発動してしまった以上、場所を変えることもできない。勝負はこの一射。次はない。できることは仲間を信じることだけ。

 瞬間、黒蛇の頭が地面に縫い付けられた。激しい抵抗に遭っているようだが、ぼやけた視界ではもうどういう状況なのかは分からない。朧げに映る煌々とした赤い核に私は渾身の一撃を放つ。

 「水」最上級魔術〈黒栄式弓術千里

 矢が放たれるのと同時に、魂が抜けたかのようなふらつきを覚える。木の幹に体を預けてずるずると座り込み、蛇を直視しないように顔をうつむけた。

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