命の選択-1
結婚したといっても、定住するまでは事実婚のようなものである。特に何が変わることもなく、以前と同じように、たんぽぽ海賊団は旅を続けていた。
しいて言うならば、奏澄の指輪が変わった。以前のシルバーリングは首から下げ、指には青の結婚指輪のみをつけている。コンパスは、もう下げてはいない。メイズは以前のシルバーリングと青の結婚指輪の両方を首から下げている。
最初の頃は意外に悪祖が軽いのでは、と楽観視していた奏澄だったが、それは徐々に酷くなった。というより、思っていた悪祖とは、やや異なる。吐き気がある。食べ物の匂いが気になる。それも全く無いわけではないが、それよりも。体の内側から刺されるような痛みや、ひどい頭痛が襲ったりした。それは、誰かといる時には無く、奏澄が一人の時にだけ、訴えるように起こるのだった。
「……生まれてきたく、ないの……?」
この子には。――フランツには。
確証は無い。ただの希望なのかもしれない。それでも、マリアと同調していた奏澄は、ほんの微かにフランツの気配というものを感じ取っていた。
あの時、奏澄が逃すまいとしたものは。飲み込んで、腹に収めたものは。フランツの、魂と呼ばれるものだったのではないだろうか。あるいは、その欠片。
「大丈夫。大丈夫だよ……」
生まれておいで。怖くないよ。あなたは、誰からも祝福されている。
今度こそ。愛の中で、生きて。
奏澄の願いも虚しく、体調は悪化の一途を辿った。時期的には安定期を迎えたというのに、四六時中顔色が悪く、遂に倒れてしまった。
さすがに航海は中断せざるを得ず、コバルト号は緑の海域にあるバハジャマ島に船を寄せた。
妊娠が原因であるならば、回復がいつになるかわからない。奏澄は仲間たちに、一時解散しても構わないと告げたが、ここまで来たらいっそ生まれるのを見届けると、仲間たちも島への滞在を望んだ。
長期滞在用の宿屋にて。奏澄の体調を見てきたハリソンは、厳しい顔をしていた。途中から航海は厳しいのでは、と忠告を受けていたのに、別れを惜しんで大丈夫だと強がったのは奏澄だ。体調不良の原因がフランツであるならば、それを追求されたくもなかった。申し訳なさから俯いてしまう。
「カスミさん。メイズさんを呼んでも良いですか。お話があります」
「え、メイズも……ですか?」
「はい。お二人、一緒に」
不安を覚えながらも、頷くしかない。ハリソンがメイズを連れて戻るまで、奏澄はずっと落ちつかない気持ちだった。
ノックの後、部屋に入ってきたメイズは、やはり不安そうな顔をしていた。奏澄はベッドに身を起こして、メイズは椅子に腰かけて、ハリソンの話を聞く。
「カスミさん、メイズさん。非常に残念なことですが……このまま子どもを産むのは、難しいと思います」
告げられた言葉が、すぐには脳に届かなかった。二人で黙ってしまい、ややあって、奏澄が震える声で問う。
「難しい……というのは、具体的に」
「今のカスミさんは、そうですね……体の中に、毒を抱えているような状態です。このままだと、母体の方が危険です。ですから、もし子どもを諦めるなら……今が、時期的にぎりぎりです」
それは、つまり。
「子どもを……堕ろす、という、ことですか?」
「母体の安全を優先するなら、そうなります」
真面目な顔で頷くハリソンに、奏澄は縋るようにして言葉を吐く。
「子どもを優先すれば、生むことはできますか」
「カスミ!」
「だって!」
これにはメイズが声を荒げた。けれど、譲れない。ハリソンは、母体の安全を優先するなら、と言った。安全のために子どもを失うなどごめんだ。生み落とせずに死産、という話でもない。自分のために、大事を取って、今子どもを殺してしまう、という話だ。
「諦めません、ぎりぎりまで。子どもを優先してください」
「ふざけるな!」
「ふざけてるのはどっち!?」
「落ちついてください」
珍しく声を張ったハリソンに、二人が視線を向ける。
「カスミさんの言う通り、子どもを優先するなら。出産まで、何が起こるかわかりません。既にカスミさんの体には悪影響が出ています。このまま命に関わる事態になるかもしれないし、そうなった時、それでも子どもを優先するなら、取れる対処法が限られてきます。ですから、決めていただきたいのです。母体を優先するか、子どもを優先するか」
「そんなの子どもに決まって」
「落ちついて。今、あなたは動揺して、感情的になっています。大切なことですから、お二人でよく話し合って決めてください。いいですね」
奏澄は黙りこんだ。ハリソンは厳しい顔のままで、メイズにも言い含めた。
「メイズさんも。威圧して、怒鳴ったりしないように。従わせるのではなく、きちんと納得する形になるように努めてください。……それで、納得できなかったとしても。後で、させられた、と思わなくていいように」
メイズは返事をせずに、固く拳を握りしめた。
ハリソンが部屋を出ていくと、部屋には思い沈黙が流れた。
メイズは背を丸め組んだ手で頭を支え、なんとか奏澄が納得できそうな言葉を探しているように見えた。
「私、生むから」
「……カスミ」
駄々をこねる子どもを嗜めるように言われ、涙が滲んでくる。感情的になっている自覚はある。けれど、どれだけ落ちついたところで、この決意は変わらない。それだけは、あり得ない。
「子どもなら、また作ればいいだろ」
息が、止まった。
「……また、って、なに。次があれば、この子は、殺してもいいの?」
「まだ生まれてもいないんだ、それはまだ人間じゃない。殺したことにはならないだろ。お前の方が、よっぽど大事だ」
「命、だよ」
声が、震える。
「もう、ここにある、命だよ。私と、メイズを、繋ぐ子だよ。父親なんだよ! 愛するって、言ったじゃない! 守ってよ!」
一人でも勝手に生む、とは言えない。だって奏澄が死んだら、この子の肉親はメイズだけだ。父親に憎まれて、健やかに育つわけがない。
ちゃんと愛してほしい。その確信をもって、生みたい。
私が死んでも、この子を愛してよ。
「それはお前が生きてる前提の話だ! お前が一緒なら、できるかもしれないと思った。お前がいないなら、なんの意味も無い。お前を失うくらいなら、子どもなんか要らない!」
目の前が真っ暗になった。
要らない。メイズにとっては、必要無い。あんなに、望んでいたのに。でもそれは、奏澄だけで。
わかっていた。メイズは、一度だって、子どもが欲しいなんて言ったことは無い。
最初から、奏澄の一人相撲だ。子どもが欲しいと思っていたのは、奏澄だけ。子どもができれば。家族が持てれば。きっと全てが、うまくいく。メイズのためにも。
今は、違う。メイズのためだけではない。だって、もう母親なのだ。ここに、いるのに。どうしてそれを無視することができるのだろう。
望まれて、生まれてくると思った。この子は、多くの祝福を受けて、この世に生まれ落ちるのだと。
でも、もう。父親にすら、望まれていないのなら。
絶句して涙を流す奏澄を見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、メイズが気まずそうに視線を逸らした。それでも、撤回する気は無いらしい。
「……頭冷やしてくる」
それだけ言って、メイズは部屋を出ていった。
残された奏澄は、ひたすらに泣きじゃくった。
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