第3話
蜂須賀さんが病院へ運ばれてから、僕はその場でしばらく呆然としていた。職員に帰宅を促され、ようやく動くことができた。半ば自動的な動きで駐輪場へ向かい、ボーッとした頭のまま自転車に跨る。キャンパスのある坂の上から、重力に任せてどんどん下っていく。その時の様子を思えば、よく事故に遭わず帰宅することができたものだと、我ながら驚いている。
家に帰ってからも茫然自失とした様子で食卓につき、入浴を済ませてベッドへ入った。本当は手をつけなければいけない課題もあったが、何かをやる気は起こらなかった。床に就いたところで寝付けるかどうか分からなかったが、そんな心配は無用だったらしく、目を閉じれば意外とすぐに寝入ってしまった。
次の日も、朝から何となく気もそぞろで、家でも大学でも集中力を欠いた状態で過ごしていた。家族の小言も、教授の話も、上の空。竹内や押川も僕の様子を気にかけ、心配してくれたが、それすら頭に入って来なかった。
午前の講義も午後の講義も、気が抜けた様子で受講し、機械的に日々の出来事をこなしていった。気が付くと、最後の授業も終わっており、カバンを背負った竹内、押川に肩を叩かれ、ようやく気がついた。
上級生がこの教室を使うらしく、すぐに席を立って部屋を出ねばならないらしい。僕は竹内、押川に促されるまま、机に広げていた文具をカバンに押し込み、教室を後にした。
「で、この後どうする?」
竹内は、廊下に出たタイミングで僕に声をかけてきた。僕が答えに窮していると、押川が「昨日みたいに、どこか覗いてみるか?」と横から補足する。
僕がなおも答えに迷っていると、竹内は「とりあえず、ヤマブキのチームを覗いてみるか?」と言った。押川は、「あそこは確か、三階だっけ」とエレベーターを呼びながら言う。
彼らは降りてきたエレベーターに乗り込み、ドアが閉まらないように抑えながら、僕を手招きした。
「ほら、行くぞ」
竹内の呼びかけに、僕は「あ、ああ」と気のない返事をした。促されるままにエレベーターへ乗り込み、校舎の三階まで上がる。エレベーターを降りて右手に曲がれば、ヤマブキの運営チームがある。
そのドアには、デカデカと「本日不在」の文字が書かれた紙が張り出されていた。再利用の裏紙らしいA4用紙いっぱいに文字が踊っていて、四隅を可愛らしいマスキングテープで留められていた。
ドア横の掲示板には、細かい字がびっしり書かれたA4用紙が張り出されている。先に近づいた竹内は、その紙を眺め、声に出して要点を読み上げた。
「プレイヤー入院のお知らせ?」
竹内の声に、僕の心臓がギュッと苦しくなった。彼は文書を掻い摘みながら、詳細を読み上げる。
「昨日の競技外戦闘により、ヤマブキのプレイヤー担当である蜂須賀秀昭が重傷を負い、命輝大学附属病院へ搬送されました。蜂須賀の容体、ヤマブキの今後につきましては、詳細が分かり次第追ってご連絡いたします、だってさ」
「おい、どうした富永。大丈夫か?」
竹内の説明を聞いて、胸を押さえていた僕を、押川が気遣ってくれた。僕はうずくまっていた状態を起こし、「大丈夫。ありがとう」と押川に答えた。僕は介抱の手を押しのけ、掲示されたお知らせを自分の目で確かめる。微妙にふらつく足に力を込めながら、半ば壁に体重を預ける形で、体制を整えた。
「本当に大丈夫か、お前」
「大丈夫、大丈夫。急に立ち上がって、ちょっとクラッと来ただけさ」
僕は荒くなっていた呼吸を整えながら、竹内、押川に笑ってみせた。彼らは僕の言葉を額面通りに受け取ってくれず、神妙な面持ちでこちらを見ている。僕は彼らの視線を振り払い、目の前の文面に集中した。
命輝大学付属病院の場所は、ラフな地図でもよく分かった。ここなら、僕の自転車でも十分立ち寄れる。お知らせによれば、運営チームのメンバーも何人かそちらに出向いていて、今のところは期限を特に定めずお休みという形をとっているようだ。
ここへ行ってみれば、その後の様子が少しくらい分かるかもしれない。僕は病院の住所と地図を、必死に目に焼き付けた。
「お前もう、まっすぐ帰った方がいいんじゃないか?」
後ろから竹内が、心配そうな表情で僕に言った。横にいた押川も似た様な表情で、「俺もそう思う」と頷いた。
「言われなくても帰るよ。授業は全部終わったんだし」
「いや、そうじゃなくてさ」
「うるさいな、何が言いたいんだよ」
僕が強めの口調で言うと、竹内は「心配してやってんのに、その言い方は何だよ」と語気を強めて返してきた。押川は竹内に気持ちを鎮めるように言い聞かせながら、「今のは、お前も良くない」と僕にも諭すように言った。
押川は授業開始のチャイムを聴きながら、チラリと腕時計に視線を落とした。時刻を確かめた彼は、竹内にも文字盤を見せる。
「オレたちはもう行くけど、頭を冷やせよ」
押川は僕にそう言いながら、下へ向かうエレベーターを呼びに行った。竹内は彼の後ろを追いながら、「明日もその態度なら、友達止めるからな」と吐き捨てるように言った。僕は彼らに何も言えないまま、二人は呼び出したエレベーターに乗って下へ降りていった。
その場に一人で残っていると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。自分のバカさ加減もジワジワと分かってくる。流石にアレはマズかったな。
人通りの少ない廊下で一人反省していると、今までどこにいたのかも分からない高岩が、スッと後ろから近付いてきて、張り出されている通知に目を通した。
「命輝大付属病院か」
彼はケータイを取り出して、病院の名前をマップアプリに打ち込んだ。彼は流れるような動きでスッと歩き出した。僕が一連の動きをジッと見ていると、彼は二、三歩進んだところで立ち止まり、こちらへ振り返った。
「お前は行かないのか?」
「えっ? ああ、僕も行くよ」
僕がそう答えて彼の方へ歩を進めると、彼はこちらのことなど微塵も気にかけず、スタスタと奥の階段へ向かって歩き始めた。昨日もそうだったが、彼は早歩きかと思うぐらいの速度でどんどん前に進んでいく。僕は軽く走るような形で、その後を追いかけた。僕は息を弾ませ、うっすら汗を滲ませているのに、高岩は呼吸一つ乱さず、涼しそうな顔で階段も一気に降りていく。
そんなに筋肉がついているような身体にも思えない。どちらかと言えば、むしろ細身に見えるレベル。引き締まった身体は無駄のない自然な動きを見せている。力感のない挙動は、逆にスポーツマンという印象を抱かせない。
背丈も標準よりやや高い程度で、特別な印象を抱かせるような風貌はしていない。動きも見た目も不自然さは微塵もなく、その自然さは個人の印象を極端に薄くする。嫌味のない、ナチュラルな没個性。高岩という人間は今までどこで何をしていたのか、影の薄さがかえって興味を抱かせる。
彼の先導に従って、昨日と同様に駐輪場までやってきた。高岩は、ここから歩きで病院へ向かうと言う。
「じゃあ、僕も自転車を押しながら歩くよ」
僕は自転車の鍵を外しながら、高岩に言った。彼は明後日の方を見ながら、僕の言葉を聞いていなかったかのように、「じゃ、お先に」と通用門の方へ歩き始めた。僕は自転車のスタンドを跳ね上げ、彼の後を追いかける。
「一緒に行くって言っただろ?」
僕は、高岩が歩いて行った方へ自転車を押しながら歩を進めたが、そこに見えるはずの高岩の姿はどこにもなかった。彼のことをずっと見ていた訳ではないが、それでもほんの数秒。いくら彼の歩きが早いとは言え、見えなくなるほどの速度でもあるまい。
周囲に目ぼしい曲がり角も特にない。高岩の姿を探しながら通用門まで向かっても、結局見つけられなかった。僕は、周囲の草むらがガサガサと音を立てたので、ダメ元で彼の名前を読んでみる。
「お〜い、高岩〜」
ちょっと待ってみたところで、返事が返ってくることはない。それも当然なんだけど、何となく釈然としない。さっきのガサガサも、きっとネコとか鳥の仕業だろう。
僕は首を捻りながら、歩行者の邪魔にならないところで自転車に跨った。長い長い坂を下って、目的地である大学付属病院を目指した。
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