第54話 彼女の信念

 彼女は珈琲を飲みながら余裕綽々として、例の氷の微笑を復活させた。だが波多野にしてみれば此処は室町筋の会社の受付ではない。面接に来ているのでなく、彼女本人の気持ちの確認だ。そのために作戦を変えよう。

「近江八幡は京阪神のベッドタウンとして拓けた町でしょう」

 今度は彼女が飲みかけの珈琲を、ウッとして詰まらせた。そして何なの此の人はと思うと、あの微笑が困惑に変わるのにそう時間が掛からなかった。

「だからこの町から室町辺りに通勤している人もいるでしょう。何年も受付をやって居れば知った顔ぶれに会うこともあるでしょう。そんな時でもあの微笑は崩さないんですか」

「ええ、仕事ですから、プライベートは分けていなければ受付は務まりませんもの」

 と出来るだけお高く止まってみても先程の余裕は感じられない。

「それで昔の牧野と偶然会っても表情ひとつ変えなかったそうですね」

「まあそうですけれど」

「でもいつも来られる小西さんとか云う人には悟られたようですね」

「あの人はほぼ毎日顔を出されていますもの、僅かな変化も気付くでしょう。それがどうかしましたか」

「それを牧野は嘆いていましたよ、もう他人なのかと」

「呆れるわね、今更ながらあの男には。あたしにはとうの昔に縁を切った人なのに」

「その縁ですが、両親がお腹の子を引き留めて繋いでいたんでしょう」

「でもあたしとは切れてます」

「でもその子供とは繋がっています。これは永遠に切れることはないんです」

「上手に振り出しに戻すんですね。それで何が聞きたいんです」

「牧野は今は引き取れないけれど認知はしてくれるでしょう」

「娘が大きくなればあの男の面倒を見させたくないですからお断りします」

「かなりの毛嫌いですね。でも鈍感なようでも機敏に相手の心を読める男ですよ」

「それがどうだって云うんですか」

「俺は牧野と普通の人との違いを言ってるんですよ」

「幾ら言ってもどう見ているか、言わなけりゃあ分からないでしょう。だから何を考えてるのか解らない処があるからそこが気色悪いけれど、それでも物も見ようであの頃は受験という共通の目的があるから気にしてられないからどんなものでも好ましく見えたけど、一旦努力目標がなくなると平気で無視する、それがウザいのよ」

「ホウー、やっと牧野の違いを聴いてくれて有り難い、彼奴あいつは世間のしがらみに囚われない、そこが強味でも有りうとく扱われる要素でもあるけれど」

「もうそんな牧野の話はどうでもいい、でも聴いて居るのはあなたの短所も物の見方で長所にもなる発想が面白いから伺うけれど」

「ハア? 何ですかそれは」

「あの女は何者なの?」

「なんですかそれは」

「だからあたしが受付嬢の時は保険の外交員でやって来て、預けた託児所では保母さんに早変わりして待ち受けていたあの女よ」

「アー、あの女性は私の彼女ですよ」

「彼女はフィアンセ?」

「いえ一緒に住んでますが、まだそこまで行ってませんが……」

「煮え切らん男ねサッサとそうだと白状したら」

「いえ、その、まだ始めたばかりでこれから二人の愛を確かめる段階なんですけれど」

「だからフィアンセでしょう、昔風に云うなら許嫁いいなづけでしょう。亡くなったおばあちゃんが良く云ってたわ、で、何でそのフィアンセがあたしの素行調査をするの? あなたがさせてるの」

「いや、それは彼女の忖度そんたくで勝手にやっていると言うより、その時に一緒に居た女友達の為にやっている。その友達が今の牧野の彼女だから」

「ハハーン、じゃあフィアンセもあなたも牧野とその彼女のために頑張ってあたしの素行調査をしているのか」 

「あのー、そのフィアンセは何とかなりませんか、彼女はみぎわと云うんですが」

「汀、波打ち際ね、渚と云う名前が多いのに訳ありなのねその人の両親はその名前にしたのは」

「漢字でなくひらがなですけれど、ウ〜ンそこまで考えなかった」 

「親は名前を付けるときは色々と考えるのよ。例えば偽りの愛を語るより心の真実、事実に目覚めろ。真実は偶然の重なりに導かれる」

「何ですかそのお題目は」

 お題目と聞いて彼女は吹き出しそうに笑った。

「女性を口説く場合は好きより愛しているよ、の方がインパクトが強いから憶えておけと言われたの」

「誰に」

うちの親にあたしが子供を堕ろす時に」

 丁度牧野と別れてホッとして実家で寛いでる時に、母親に身体からだが変じゃないと言われた。それで身体の調子が悪いのに気付いて病院で診て貰った。すると妊娠していると言われて飛んで帰った。母は産みなさいと言われたけれど。あたしにすれば冗談じゃない、これでサッパリしたのに、その永遠の証しなんか残せるもんかと母親に喰って掛かった。

「そう思うのはあなたの間違いだと言われたけれど、そこにいっとき真実の愛があったのは確かだからあなたが偽りだと思ってはいけないと言われてから……」

「それであのお題目を聴かされたのか」

「そうよッ」

 と彼女は何か文句有るの! と母親の説得に観念したように低く地を這うように言った。半分やけくそのような言い方だが、これは恐らくあのナチの収容所の死から生還した唯一の指揮者アンチェルを聴いた影響が大きく関わっていると波多野は捉えた。

 だから血の繋がりよりも、いっときのたわむれよりも、ひとつの真実が普遍の愛に繋がるものだ。だから牧野個人が拘るものではないから、心配することは何もないと彼女は言った。



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