第4話 侯爵の願い、王太子の願い(フレデリクside)

 その頃、エナトス王国王宮の一室。美しい調度の数々は国内外の一流の職人達が仕上げた、正真正銘の最高級品だ。我こそがと皆それぞれに輝いているのに、それらが調和のとれた空間を築いている様子は、まさに圧巻の一言。


 しかしながら、そこでは次期国王が黒髪の男に向かって悪態をついているという、豪華絢爛な部屋には全く似つかわしくない光景が繰り広げられていた。


 いや、容姿だけであればピッタリなのだが。部屋にいるのは、母から受け継いだプラチナブロンドが調度の反射する光で輝く、このエナトス王国の王太子のフレデリクだ。

 彼は黒髪の部下フランツをその濃紺の瞳で不服そうに見つめている。


「王太子殿下、年貢の納め時です。そろそろ、婚約を断り続けるのも限界に来ています」

「わかっている。だが、フランツが心配することではないだろう?」

僭越せんえつながら殿下。殿下は妃をめとり、世継ぎを……」

「お前に説明されずとも、わかっていると言っているだろう? 全く、フランツ。その心配性はどうにかならないのか」

「いいですか、殿下。殿下があの村娘に恋焦がれていることは、私も重々承知しております。しかしです、どこの王族が平民と結婚するというのでしょうか。いや、ないでしょう」


 フレデリクは優秀な右腕の主張が、正しいものであると頭では理解している。そう、頭では。心では、あの少女のことが忘れられない。


 ────私が王子でなければ、貴女の側にいることができたのに。


 もちろん声には出さない。そのようなことをした日には、フランツの叱責が飛び、父にも呼び出されてしまう。大切なイェニーの肖像を眺める時間がなくなってしまう。


「『あの物語』では村娘と結婚した王子がいただろう?」

「ああ、あの物語ですか。しかしあれは作り話。それに結婚したら最後、生まれた双子は死んでしまったではありませんか。貴族のご令嬢と婚約し、王国を存続させる。貴方様の責務です」


 繰り返すようだが、フランツの言うことは正しい。しかし正しければ「はいそうですか」と納得できるかといえば、それはまた別の話だ。

 どう返そうかと思案していると、控えめに扉が叩かれる。フレデリクは入室を促した。入ってきたのは文官で、彼はフレデリクの前に一通の手紙を差し出した。


「失礼いたします、殿下。こちらに目を通しておいていただけないでしょうか?」

「……リチェット侯爵家か。何事だ?」


 父が外遊中のため、政務の中でも王の確認が必要なものは、次期国王たる王太子であるフレデリクも確認するように言われている。だからこのように時折重要な書類がやって来るのだ。


 リチェット侯爵家といえば、その領土は国内でも比較的安全で豊かだと評される。

 現当主のヨゼフは、宮廷内で権力欲こそ見せないものの、自領の不利にならないよう、上手に立ち回っているとの噂だ。

 ちなみに、フレデリクがイェニーと出会った孤児院もリチェット侯爵領にある。


 唯一気に入らない点といえば──非常に個人的な問題なので他の誰にも話したことはないが──リチェット家にいるふたりの娘の存在だ。


 ひとりはシェリー・リチェット、彼女は顔がフレデリクの愛するイェニーに瓜二つなのだ。美しい金の髪、柔らかな桃色の瞳。それに、年もおそらくほとんど変わらない。

 せいぜい違いといえば、肌とか髪の手入れの有無の差ぐらいだ。


 それにもかかわらず、中身はだいぶ違う。イェニーには一度しか会ったことがないし、シェリーは貴族令嬢としての仮面をかぶってだけなのかもしれないが……しかし、フレデリクの印象としてはそうだ。


 イェニーと同じ見た目なのに、彼女がその口から紡ぐ言葉は、イェニーのものではない。他の貴族のそれと同様に、フレデリクにとって唾棄だきすべきものだ。

 取り入ろうとする言葉ほど心のこもっていないものはない。とはいえ、それでも他の一般的な高位貴族の令嬢よりはマシな存在といえよう。


 もうひとりは、彼女の姉フアナ・リチェットだ。彼女はシェリー以上に迷惑な存在である。


 望まない人から向けられる好意ほど恐ろしいものはない。もちろん、彼女に限った話ではないのだが、フアナもまた積極的にフレデリクの婚約者の座を狙っている令嬢のひとりと見て間違いない。妹とは違う。あの目は本気だ。


 だが、彼女がいるからこそイェニーにそっくりのシェリーが王太子妃の座を狙わなかったのかもしれない。感謝するとすればその一点に尽きる。


 一方のイェニーはフレデリクの身分を知らなかったとはいえ、決して媚びる目を向けなかった。年頃の娘といえば、彼の身分を知らない町娘であっても、誰もが彼に魅了されたような視線を向ける。

 しかし、イェニーだけは違った。媚びる女性しか見てこなかったフレデリクにとってそれは新鮮な出来事であった。


 そんな感情はひとまず抜きにして、目の前にあるのはそのリチェット侯爵家の当主から王家に宛てられた手紙だ。

 父王宛ての私信ではなく、王家宛ての手紙であれば開けてもよいと許可も下りている。というわけで、フレデリクはペーパーナイフを手に取った。


「ふむ──何? 娘を認知したので迎え入れる。名前はイェニー、か……フランツ、彼女に婚姻を申し入れようと思う」

「殿下。彼女が仮に、いえ十中八九そうでしょうが。あの孤児院の娘だとして、何を血迷っておられるのですか? 彼女は唯一殿下になびかなかった娘です。貴方様を愛していたとはとても思えなかったのですが……彼女の感情を置き去りにするつもりで?」

「何だ、フランツ? 先程まであれほど婚約者を選べ、探せとうるさかったではないか。彼女に何の問題がある?」

「貴方様もご令嬢なら誰でもよい、というわけではないのでしょう? でしたら、彼女もまた同様ではありませんか?」


 フランツの言う通りだ。しかし、フレデリクはイェニーと出会うことがなければ、恋という感情の何たるかを知ることができなかった人間だ。


 どうしても彼女と共に生きていきたい。そう思ってしまう。まだ、彼女のこともほとんど何も知らないというのに。それにフランツの言う通り、彼女がフレデリクと結婚することを望んでいるかもわからないというのに、である。


「婚約の打診すらも駄目なのか? 正式に申し込めばイェニーの意志を無視することになるだろうが、尋ねるだけなら……」

「フレデリク殿下」


 フランツがフレデリクをいさめる。

 なぜフランツが注意するかといえば理由は明白で、フレデリクが次期王位継承者であることがほぼ確実な人間であるからだ。


 であれば、彼が婚約を申し込んだならば、誰も断らないだろう、と。しかし、それは表面上だ。


 母が言うには、相手がフレデリクとの婚姻を望んでいなかったとしても、政治的な理由で「断れない」のだそうだ。

 つまり、王太子たるフレデリクに望まれた女性には事実上、拒否権がないのだ。


 もちろん、ほとんどの女性はフレデリクに、あるいは王太子妃という地位に興味があり、結婚したがっているのだから、問題にはならない。

 しかし、イェニーはフレデリクの周囲で唯一なびかなかった女性だ。


 こうした事情を理解しているから、フレデリクも強く出ることはできない。

 彼女が媚びてくるのならこのようなことなど考えなくともよかったのかもしれないが、それならばきっと彼女のことを相手にすることすらなかっただろう。


「少し頭を冷やしてくる……」

「その前にリチェット卿の手紙に判を押してはどうです? 婚約を申し込むかはさておき、この手紙の件については認可するのでしょう?」


 フランツに言われて王太子としての仕事を思い出したフレデリクは、すぐに必要な書類にチェックを入れる。それが終わるとすぐさま執務室を後にした。


 もちろん、フランツは自身の主がこの後に出る行動など、お見通しであった。

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