第3話 フランス地区
アンティークショップでレコードを購入した。
レコードは、CDでは削られてしまう高ヘルツ音が入っているためリラックスが出来るのだと耳にした。
雨が降ってきたため足早に帰り、コーヒーを淹れ、早速ジャケットからレコード盤を取り出す。
これ自体は大分古いもののようだが、傷も無く新古品のようだ。
ラベルは『擦弦楽器曲集~ヴィオールの響き』となっていた。
細かな曲目はない。
ヴィオラ・ダモーレのバロックなどは好みなので、ヴィヴァルディやバッハの曲を期待しつつ、プレイヤーに置いたレコード盤に針を乗せ、私はソファに腰を下ろした。
すると音符と曲調は煙のように揺らめき立ち上り、ぐるりと巻き付いてきた。
美しく荘厳な調べは、いつしか私を幻惑の中へと誘った。
この世のものとは思えぬ美しい旋律。
ヴィオラ・ダモーレの7弦が豊かな音階で曲をかき鳴らし、音色を紡ぎ、馥郁たる調べを謳い上げる。
窓の外が怪しく黒く輝いた―気がした。
ヴィオールの調べは時に地底を思わせるように重々しく、時にバンシーの悲鳴のように高く私の心を沁みていく。
ぞっとするような風が吹いて、髪の毛を舞い上げた。
そうしてA面が終わる頃には、すっかりこのヴィオールのレコードの虜になっていた。
今まで聴いたこともない曲ばかりなので、演奏者の即興曲なのかもしれない。
しかしこの不気味なほどの魅了する力はどうだろう。
私は今や冷や汗をかき、動悸が激しくなっている旨を押さえて、脳内を巡る幻想と闘っていた。
既に夜の帳は降りている。
私はB面を聴くことを諦め、重い身体を急き立てて、鎧戸を下ろし、早々に休むことにした。
翌日、このレコードの出元が気になり、アンティークショップへと出かけた。
レコードは自費出版なのか。
演奏者は存命か…店主が知っているとは限らないが、些細な情報でも聴いてみたくなったのだ。
しかし今日は店休日らしく、シャッターが下りたままであった。
仕方ないのでまたの機会に訪ねることにし、食料品を買い家路へと向かう。
木々の影が落ちた我が家を見て、ふと違和感を覚えたが、どこがどう変わった ということもないため、家の中へと踏み入れた。
レコード盤のB面を表にして針を乗せる。
やはりこちらも聞いたことも無い曲だった。
音の粒は輝き、1人で弾いているとは思えないほど多彩な和声を生み出している。
豪奢な音の洪水は荒れ狂う奔流となって私を飲み込んだ。
やがて煌めく旋律は燃え上がり、草原を舐めるように私の身体をも包んだ。
窓ガラスには、痩せた老人が鬼気迫る様子でヴィオールを狂おしく弾いている姿が映し出されていた。
老人の背後には、闇が、そしてその闇に溶け込んでいる黒い風が渦巻いていた。
老人の姿はヴィオールを弾き鳴らすごとに崩れていく。
老人と、老人の曲を風が舞い上げ、闇が吸い込んでいく最中、ヴィオールだけが残って天上の音楽を混沌めいた狂気とを奏でていた。
二日後にまたアンティークショップを訪れてみたが、今日もシャッターが下りたままであった。
たまたま通りかかった老紳士に、この店の主人について伺ったところ、半年前に首を括って自殺してしまい、それから閉めたままということだった。
私は狐につままれたような表情をしていただろう。
数日前には店は開いていて、確かにレコードを買ったはずだ。
店の中だって覚えている…古い陶器や家具が置いてあった―と思う。
店主は―店主はどんな顔をしていただろう。
私は愕然とした。
記憶がひどく曖昧なのだ。
店主の姿もやり取りもまるで覚えていない。
私は数日前本当にアンティークショップへ行ったのだろうか?
レコードを渡してきたのはヴィオール弾きの老人その人ではなかったか?
私は衝撃を抱えたままふらつく足取りで帰路につく。
そして―ああ。
風でさざめく木々の影が、屋敷の外壁に、ヴィオール弾きの老人のようなシミを作って蠢いているのだ。
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