幕間 トラジディーキッチン

 傲慢は天才だけに許された特権だ。

 だから、その特権を使わないやつはバカだと思う。


ーい? アンタがやることは、あたしの後ろに隠れておくこと。前に出ちゃだめ。理解できる?」


 平日の夕方、どこにでもあるようなマンションの駐車場。

 車から降りて、あたし達の監督役が外れてから開口一番そう言ったら、眼の前にいる女の子がこくこくと頷いた。


「魔法を使うのもダメ。前に出すぎるのもダメ。死んだらダメ。ここまで大丈夫?」

「はい! 私、センパイの邪魔しません!」


 そう言って馬鹿の1つ覚えみたいに頷く女の子に、車の中で歳を聞いたら小学6年生とか言ってた。なのに中2のあたしと身長がそんな変わらない。ムカつく。


「なら良いけど」


 ため息をついて、あたしはスマホを見る。

 あたしが祓魔師になるための最終試験は歳下の女の子とともに、『第二階位』の“魔”を祓うことだった。


 あたしと同じで両親を“魔”に殺された女の子。

 あたしと同じで女なのに祓魔師を目指す変わった子。

 そして、あたしと違って魔法の才能に恵まれなかった子。


 祓魔師が“仕事”を受けるためには、試験をこなす必要がある。

 ただでさえ多い殉職率じゅんしょくりつを抑えるためには、強くて、才能があって、そして魔法使いであることが求められるのだ。


 だから私の最後の試験は足手まといデバフを受けて魔を祓うこと。


 けれど、それくらいのハンデがあって当然だと思う。

 だって、あたしは『第三階位』だし、4歳で『廻術カイジュツ』が使えるようになったし、6歳で“魔”を祓ったこともある。普通なら中学卒業に合わせて行われる試験が、跳び級14歳で受けられるのは、あたしが天才だから。


 だから、あたしのやりたいようにできる。


 駐車場から、事件が起きた部屋に向かう。305号室。

 駐車乗を後にしてタイミングで、ふと思った。


 祓除ばつじょの時に吐かれても困る。

 一応、覚悟を聞いておこう。


「アンタ……。名前、なんだっけ?」

「つむぎです」

「ああ、そう。で、アンタ。血ィ見たことある?」


 マンションの下まで来たらエレベーターが無かった。3階まで歩いて登らないといけないのだ。思わず舌打ちしたら、つむぎの肩が震えた。うざ。


『施設』を出て1人暮らしを始めるとしても、絶対こんな安いマンションなんかに住まないと誓って階段に足をかける。


「血、ですか?」

「そ。自分のじゃなくて、他人の。ドバドバのやつ」

「お母さんのなら……」

「じゃあ良いわ。泣かないでよ」

「大丈夫です! わ、私も、祓魔師目指してますから!」

「……そ」


 無理よ、とは言わない。

『第二階位』の祓魔師だって警察に入ったり、学校お抱えの祓魔師になって“魔”を祓うことはできる。それがこいつの理想の祓魔師かどうかは、置いておくけど。


 でもまぁ、祓魔師になりたいっていうのなら、もしかしたら使かも知れないと思って、聞いてみる。


「アンタ、使える魔法は?」

「つ、つむぎです! 『基礎属性変化』は使えます。ちょっとだけ……」

「『複合属性』とか『形質変化』は?」

「……練習中です」

「じゃあ、本当に魔法を使わないで。あたしの邪魔だから」


 属性変化は祓魔師の基礎だ。でも、それだけだと“魔”に遅れを取る。殺されてしまう。下手に魔法を使われて“魔”に勘づかれるくらいなら、邪魔されない方が良い。


 つむぎに釘を刺し直してから、三階で足を止める。

 新宿の高層ビルの間から夕日が差し込んできて、マンションの外廊下に長い影を作る。静寂。


 があってから、同じ階の一般人はみんな逃げたらしい。

 気持ちは分からないでもない。住んでいた家族三人、みんな殺されたのだから。なんでも生きたまま、ちょっとずつちょっとずつ肉をがれて、ピザの具材にされたらしい。


 で、何を考えているかは知らないけど、“魔”がそのピザを普通の宅配サービスに紛れ込ませる形で売ってたらしい。だから、ピザを食べちゃった人もいるとか。そんな事件がすぐ隣の部屋で起きちゃったら逃げたくなる気持ちも分かる。


 隣でそんな事件が起きた人も、ピザを気づかずに食べちゃった人も、何より巻き込まれた家族も、まぁ気の毒だなとは思う。


 ま、あたしの方が可哀想だけど。


 305号室の前まで来て、管理人から貰った鍵を挿して、回す。

 がちゃり、と古いマンション特有の重い感触。


 鍵が開いたのを確認してから隣に突っ立っているつむぎに聞いた。


「アンタ。準備良い?」

「……はい!」

「行くわよ」


 扉を引いたら、ぎぃ、と音が鳴った。


「……ひっ」

「…………」


 扉を開けるや否や、つむぎが悲鳴を漏らす。


 玄関には上半身だけの男の死体があった。多分、40歳くらい。下半身はなくて、這った血の跡があるから多分ここまで逃げてきたんだろうけど、逃げ切れなかったみたい。上半身だけの身体には、いくつか穴があいていて肉が削られているのが分かった。


 あたしはそれを一瞥いちべつして、靴を履いたまま中に上がる。

 上がったのに、つむぎがついてこなかったから、わざわざ戻ってお尻を叩いた。


「何やってんの」

「せ、センパイ! こ、これ……!」


 あたしより、ほんの数ミリだけ高い背を震わせてつむぎが怯える。

 他の祓魔師も同じような試験を受けているはずだが、お荷物こんなのを連れて祓ったのかと思うと、少しばかり尊敬の念がわかないこともない。

 

 だけど、相手にするのも面倒だから踵を返した。


「上がりたくないなら、別にそこにいて良いわよ」

「あ、お、置いて行かないで……!」

「ついてくるなら、黙って」

「……はい!」


 つむぎを黙らせてから、足を進める。

 廊下を抜けると脱衣所が見えた。お風呂の扉は閉まっていたが、曇りガラスの向こうが真っ黒に染まっているのが見えて、何があったのかくらいは想像がついた。


 そして、その血が黒いことを見れば“魔”が、その身体に興味を失っていることも。


 だとすれば“魔”がいる場所は、ある程度想像がつく。

 つくものだから『導糸シルベイト』を編んで、これから出てくるであろう敵に備えた。


 廊下を抜けてリビングに入ると、全てが血に染まった部屋が待っていた。


 なのに“魔”はいない。

 だとすれば、残りの居場所は推測できる……と思っていると、キッチンの方から音が聞こえてきた。


 とん、とん、という規則的な音。まるでまな板の上で包丁を振るっているかのような音。

 その音を聞いていると一学期の家庭科の成績が『2』だったことを思い出して、ちょっと嫌な気持ちになる。


 でも、向こうから音を鳴らしてくれているなら分かりやすくて良い。

 『第二階位』にありがちな、後先を考えない利己的な行動だ。


 あたしは声を潜めて、とても小さな声でつむぎに伝えた。


「祓ってくるから」


 彼女が頷くよりも先に、キッチンに突入。

 音のする方に向かって魔法を使った。撃ったのは小さなつぶて。これを音の速さで“魔”に放つ。あたしの得意な属性変化。


 敵の姿を見るより先に撃ったそれは、音のしていた方に真っ直ぐ飛んで包丁を弾き飛ばした。


「……え?」


 からん、と包丁が地面に転がる。

 しかし、そこには何もいない。


 あたしの魔法を避けた“魔”も、死んだ“魔”が残す黒い霧も何も見えない。

 勝手に動いていた包丁が、今はもう動かなくなっているだけだ。


「なんで……?」


 もしかして、他の場所に“魔”が潜んでいるのだろうか。

 いや、そんなはずはない。だって廊下にも、リビングにも、何かが動いた形跡はなかった。いるとしたら、キッチンだけのはずで……。


 分からない。とっさに『導糸シルベイト』を手元に備える。

 

 ちん、と音が鳴る。

 びっくりして反射的に音のした方を撃つ。

 さっきまで動いていなかったはずの電子レンジが壊れた。


 その破壊音に合わせるように、動いていなかったタイマーが急に鳴り始めた。


 ぴぴぴッ! ぴぴぴッ!!

 と、連続して鳴るタイマーに向かって礫を放ったら、タイマーは壊れて止まったけど一緒に冷蔵庫も壊れた。


 見えないのに物が動く。もしかして、透明の“魔”……?

 と、そこまで考えたら、あたしの考えを邪魔するようにつむぎが叫んだ。


「せ、センパイ! 廊下が!」

「何!? あたしの邪魔しないで!」

「で、でも廊下が! 外が!!」


 ぶるぶると全身を震わせて叫ぶつむぎをぶん殴りたくなるのを抑えて、廊下を見る。


「……うっ」


 そこには、。果て無く広がる廊下には、子供の落書きみたいな扉がいくつも付いている。


 幻覚を見せられているのかと思って、『導糸シルベイト』でレンズを作る。でも、見ている景色は変わらない。ならこれは幻覚じゃない。空間の形質変化。


 ぞわりと全身に冷たくて熱いものが走る。

 そんなことが出来る“魔”は、第二階位なんかじゃない。

 第四階位、もしかしたら第五階位かも……。


 そう思った矢先、声が聞こえた。


『ようこそ、あたしのキッチンに』


 部屋全体に響くような、あたしの身体に直接声を響かせているような、そういう異音。

 ぶるりと、身体が勝手に震える。


『大事な大事なお客様よ。みんな、しっかりおもてなししましょうね』


 “魔”を生み出せるのは『第五階位』以上だ。

 そう思った瞬間、ぎゅうっと胃を手で掴まれたような感覚に襲われた。

 内側から今日食べたものがせりあがってくるのを感じて、ぐっと抑えたのに、鼻の奥から伝わってきた臭いに耐えられなくて、結局吐いてしまった。


『粗相は厳禁。片付けて』


 無限に広がる廊下についている、1つの扉が開くと中から頭を雑巾みたいにねじられた人間が出てきた。


『ま、まっすぐ。まっすぐ歩くの。パスタみたいに、まっすぐ』


 右に、左に、全身を揺らしながら“魔”があたしたちのところにやってくる。


「……っ! 来るんじゃないわよ!」


 魔法を使う。狙い通りつぶてが“魔”の頭に当たる。

 破れたトマトみたいに血が、ばっと飛び散る。


 散った瞬間、急に複数の扉が開いた。

 そこから、あたしの身体よりも大きな人の顔が出ててきて、ごろごろ転がる。血だまりまで転がっていくと、大きな舌で廊下に付いている血を舐めはじめた。べろり、べろり、と。


「……うぇっ」


 その光景を見ていたつむぎが、あたしと同じようにえづいた。

 だけど、あたしと違って何も出さなかった。


 試験どころじゃない。

 勝てるわけがない。第五階位の“魔”に、あたしが。あたしたちが……。


「にっ、逃げるわよ! つむぎ」

「どこから……?」

「キッチン!」


 あの部屋には窓があった。

 あそこからだったら外に出られる。三階くらいだったら『身体強化』すれば、飛び降りても怪我はしない。逃げないと、逃げないと、殺される前に逃げないと!


 そう思って踵を返した瞬間、あたしは絶句した。

 

「……う、そ」


 振り返った先にも、同じようにどこまでも続く廊下が広がっていたから。


「センパイ! 後ろ! 頭がっ」


 足を止めていたあたしをとがめるようにつむぎが叫ぶ。

 後ろを振り向く。そしたら血を舐め終わった頭たちが、ごろごろとあたしたちの方に向かって転がってきていた。


「……ッ! つむぎ、走って。あたしの前!」

「は、はい!」


 つむぎの魔法には頼れない。

 あたしがなんとかするしかない。


 だって、あたしは


 いまや一直線になってしまった廊下の中で、あたしは“魔”を食い止めるように岩の壁を生み出す。長く持つように『属性変化:土』に重ねて『形質変化』。ごそり、と魔力を持っていかれる感覚。


 遅れて後ろから、どぉん! と、頭だけの“魔”が壁にぶつかる音が響いた。

 ぱらぱらと天井からホコリなのか破片なのかよく分からないものが降り注いだ。


 これが時間稼ぎにしかならないことは分かっている。

 分かっているから前を向きなおすと、前方の扉が開いてそこから“魔”が雪崩のように飛び出してきた。


「つむぎ! こっち!!」


 絶句しているつむぎの首根っこを掴むと、あたしは一番近くにあった扉を開いて、二人で中に飛び込んだ。そして、扉を『導糸シルベイト』で固めるとなけなしの魔力を使って『形質変化』で完全に岩にする。


 振り返ると、そこには見覚えのあるキッチンがあった。

 戻ってきた……と一瞬思ったけど部屋の中に窓が無いところを見ると“魔”が作った場所だと思った。


 幸いなことに部屋の中に“魔”はいないみたいだった。


「……私たち、助かりますか?」

「知らないわよ」


 バカみたいな質問に真面目に返したくもなくて、そう吐き捨てる。


 相手はきっと『第五階位』。けど、こっちは『第三階位』と『第二階位』。

 普通に考えて、助かるわけがない。


 そう思ってため息をついた瞬間、ドン、と岩になった扉を叩く音が響いた。

 それはすぐに、ドドン! と、複数人が叩く音になった。

 

「どっ……どうにかして、ここから出る方法を探すわよ! あんたスマホ持ってないの!? 監督役と話すための」

「あ、ある。あります! 持ってます!」


 つむぎはそう言って鞄の中を探す。

 そこからは真っ白のiPhoneが出てきて画面を起動した瞬間に、『圏外』と表示されていた。


「か、回線が……。ど、どうしよう。どうしましょう!?」

「うるさい! 使えないんだったら別の方法を考えるしかないでしょ! この部屋、Wi-Fiとかないの!?」

「何も無いです。ほら!」


 つむぎがスマホを触る。部屋の中には、何の電波も通っていない。


「こ、固定電話は!?」

「なんですかそれ……」

「なんであんた知らないのよ!」


 無知なつむぎのお尻を蹴って、部屋の中を探す。

 子機くらいあるかと思ったのに、キッチンの中には電話の姿はない。


 そうしている内に、扉を叩く音がだんだんと大きくなっていく。“魔”が集まってきているんだ。あたしの生み出した岩に亀裂が入っているのが見える。


 どうすれば良いの、どうすれば……。

 


「やだ……。やだ、死にたくない……。死にたくないよぉ……」


 他のことを考えていたら、ついに役立たずつむぎが泣き始めた。

 もうダメだ。あたしがどうにかするしかない。


 何か、何か助かる方法があるはずなのだ。

 だって、あたしはここで死んで良い人間じゃないんだから。

 びっくりするくらい低い確率でしか生まれない『第三階位』で、魔法の練習だって一生懸命やってきた。ここで死ぬはずがない。死んで良いはずがない。


 考えろ、考えろ、考え続けろ!

 だって、あたしは天才なんだから……!


 その瞬間、タイマーが鳴った。


「……っ!」


 ぴぴぴぴッ! ぴぴぴッ!! と、狂ったように、誰も設定してないはずのタイマーが。

 それを止める魔力も無くて、あたしは神経がすり減っていくのを感じながら、思考を続けた。


 ドンドンと扉を叩く音が響く。

 つむぎがすすり泣く声が聞こえる。

 タイマーの鳴る音が聞こえる。


 うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさい!!


 こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて考えたこともなかった。『第二階位』の“魔”を祓って終わりだったはずだ。終わった後に施設に戻れば、みんながあたしを天才って褒めてくれたはずだ。


 そのはず、なのに……。


「…………なんで、こんなことに」


 そう呟いた声が他の音にかき消された瞬間、チャイムが鳴った。


 ぴん、ぽーん。


 一瞬、扉を叩く音が消えた。つむぎが驚いて泣き止んだ。

 タイマーだけが、バカみたいに鳴っていた。


 けれど、静寂は一瞬だけで途切れると、再び騒音が襲ってきた。

 音、音、音。すべてが混ざりあって、鼓膜が破けそうになる。苛立ってしょうがないのに、苛立ちをぶつける相手もいない。


 なのにあたしたちの命は今にももう消えかかっていて、それをどうにかする方法を考えないといけなくて。そう思っているのに、音が邪魔をする。全部が不協和音として聞こえる。

 

「こんなはず……ない……」


 あたしがこんな目にあって良いはずがない。

 夢だ。そう、きっと全部悪い夢だ。祓魔師になるための最終試験だから緊張して変な夢を見ているんだ。だから、覚めろ。夢から覚めろ。


 痛みで目が覚めるようにガンガンと太ももを殴る。

 骨まで響く衝撃が、そのまま伝わってきて思わずもだえる。悶えたら胃液の臭いが口の中に広がった。

 

「夢じゃ、ない……」


 眼の前に広がっている、耳を壊そうとしてくる、この光景のすべてが現実。

 

「……いや、だ」


 見たくない。見たくない。

 こんなものは、あたしが成りたい祓魔師の姿じゃない。

 試験すら突破することなく、死んでしまうような祓魔師になりたかったわけじゃない。


「いやだ……っ!」

 

 耐え難い現実に発狂しそうになって、それをぐっと飲み込んだら反動で涙がこぼれた。涙がこぼれたら、止まらなかった。


「おかしいでしょ! なんで、あたしだけがこんな目にあわないといけないのよ。パパもママも殺されて、女だからってバカにされて、祓魔師になるなって言われてッ! それで、どうしてこんな目にあわないといけないのよぉぉおお!!!」


 キッチンの机を殴る。

 身体を強化する魔力も残って無くて、殴った拳が痛かった。


「もういやだっ! 全部、全部全部嫌だっ! みんな死ねッ! 死んじまえ!」


 叫ぶ。もうなりふり構っていられなかった。

 叫ぶ。叫べばこの状況がどうにかなると思った。


 思ったのに、あたしの叫びを止めるように、もう一度インターホンが鳴った。


 ぴん、ぽーん。

 しかも、それだけで終わらない。


 ぴんぽーん、ぴんぽーん。ぴん、ぽーん。

 何度も何度も、何度も連続して鳴らされる音に耐えきれなくなって、思わずあたしは泣きながら叫んだ。


「うるさあいッ! 鍵は開いてるわよ!!」

「えっ? あ、ほんとだ」


 その瞬間、チャイムの音が消えて、ぎぃ、と扉が開く音が聞こえた。

 そして遠く、くぐもったの声が。


 遅れて、轟音。

 マンション全体が揺れたんじゃないかと思うほどの衝撃音が鳴り響いた。その衝撃で、ついにキッチンを閉じていた岩が壊れて廊下と繋がった。繋がった先を、小学1、2年生くらいの男の子が歩いていくのが見えた。


 ……人? “魔”?


 どっちなのか分からない。

 だけどその子は、あたしたちなんて見ずに廊下の奥に歩いていく。


 思わずあたしは涙をぬぐうとつむぎを置いて廊下に出た。


 無限に続いていた廊下は、酷い有様だった。

 何か大きな隕石でも通過したみたいに、大きく歪んで、至る所がひび割れている。

 そして、“魔”の消失反応である黒い霧が視界を奪うほどに溢れかえっていた。


『……お店での乱暴は禁止とさせていただいています』

「ここはマンションだよ」


 またあの声が聞こえてきた瞬間、その子が“魔”に向かって言い返した。

 ありえない。“魔”と会話するなんて、そんな人……見たことがない。


 見たことがないと思った瞬間、その子が手を伸ばす。伸ばして、何かをすくうような動きをする。動いた瞬間、その子の前に縛り上げられた人が現れた。首から上の頭がなく、お腹には大きな口がある、化け物が。


 見た瞬間に、理解した。

 あの化け物が、あたしたちをここに閉じ込めた“魔”なんだと。


 そして、見た瞬間に理解した。

 この子は、味方なんだと。


「ここに二人、祓魔師がいるはずなんだけど」

『お客様のプライバシーはお答えできません』

「なら自分で探すよ」


 その子が手をぎゅっと絞ると、“魔”が黒い霧になった。


「ち、ちょっと……」

「あっ、いた!」


 声をかけると、その子の肩がびくっと震えて後ろを振り向いた。

 その子は私のところに駆け寄ると、すぐに口を開いた。


「もう一人、女の子がいるって聞いたんだけど……」

「い、いるけど……。あの部屋に」

「早く出た方が良いよ。この『閉じた世界』はもう消えるから」

「閉じた、世界……?」


 分からない。何を言っているのかが。

 だけどその子は困っているあたしを置いて自分よりも大きなつむぎを抱えて部屋から出てきた。


「こっちだよ」


 男の子はそう言って、近くにあった扉から外に出た。

 あたしもそれを追いかける。扉をくぐった瞬間、ふっと冷たい空気が撫でた。


 真っ暗な空、光り続ける新宿の高層ビル、後ろを振り返ると古臭いマンションの扉。


「でれ、た……」


 その子に抱えられたまま、ぽつりとつむぎが呟く。


 あたしも思わず、腰が抜けそうになった。

 さっきまでのどうしようもない現実が、すべて嘘だったみたいに消え去った。


 生きて外に出られたことの安堵、本当に終わったのかという疑念、あたしよりも優れた魔法を使う年下の男の子。色んな感情がぐちゃぐちゃになって、それでも聞いておかないといけないことがあると思って、あたしは口を開いた。


「どうやって、ここに……?」

「僕の任務がこの近くだったの。それで『隠し』を使ってるモンスター……じゃなくて、“魔”がいないかどうかを探してたら、ここが引っかかって」

「『隠し』……」


 それを打ち破るには、あまりに多くの魔力が必要なはずで。


「それでアカネさんに連絡したら、試験として使われてるみたいだって。女の子が2人で入っているって聞いたから」


 その子はそこまで言うと、どこまでも安心したように息を吐いた。


 天才。その言葉があたしの中で揺らいだ。

 ぐらぐらと、さっきの廊下みたいにふらついた。


 どこか、遠い噂で聞いたことがある。

 五歳で『第六階位』を祓った神童がいるのだと。数百年ぶりに生まれた『第七階位』がいるのだと。


 聞いた時は、噂に尾ひれがつきすぎでしょと一笑した。

 そんな祓魔師がいるはずがないと、そう願おうとした。


 だけど、目の前にいるのは。


「すぐに後処理の人たちが来ると思う。もし怪我とかしてたら僕が治せるけど、怪我……してる?」


 つむぎが目を丸くすると、ぶんぶんと首を横に振った。

 その驚きは良く分かる。自分より年下の子が『治癒魔法』を覚えているんだから。


「お姉さんは?」

「……してない」

「良かった」


 ほう、とどこまでも安心したように男の子が息を吐き出す。


 そんな姿を見ると、まるで年相応な子にも見える。

 けれど、彼は第五階位を片手で祓った。


 あたしは、眼の前にいる祓魔師の名前を知っている。


「……如月イツキ、でしょ」

「そうだけど……。なんで、僕の名前」


 男の子……いや、イツキが、つむぎをゆっくりと地面に下ろす。

 

「知らないわけ無いでしょ。有名人なんだから」

「……有名人」


 イツキの顔が、嫌そうに歪む。

 なんで嫌なのよ、と思いながらあたしは息を吐き出した。


 すぐに後処理の人が来る。話が出来る時間もそう多くない。

 あたしには、聞かないといけないことがある。


「助けてくれて、ありがとう。……1つ聞きたいことがあるの」

「なに?」

「どうして、そんなに強いの?」


 あたしの質問に、その子は意外そうに目を丸くして少し考え込んだ。

 そして、最初から決まっていたかのように答えた。


「死にたくないから、かな」

「……っ! そう、ありがとう」

「どういたしまして」


 傲慢は、天才に与えられた特権だ。その考えは変わらない。

 だって、そうあってくれないと釣り合いが取れないから。

 人を踏みにじる天才には、心の中で折り合いを付けられるものだから。


 だけど、そうじゃない天才がいたら。

 ただ自分自身と向き合う人間がいたら。


 あたしはどう折り合いをつければ良いんだ。


 知ってしまった。見てしまった。思い知らされてしまった。


 この世界には、本物が存在している。


 あたしは、天才じゃない。


 外廊下の中に月の光が差し込んだ。

 差し込む月の光の下で、やけに自分が小さく見えた。

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