第六章【再会】3

 ――暇だ。その一言に尽きる。私が此処に来たのが昼の少し前、今は夕刻に近い。玄関戸を微かに透かして見える外の景色は、ほんのりと薄暗くなっている。だが、本日の客は誰一人としていない。朽葉の言葉通り、この貸し本屋を訪れる人間はほとんどいないようだ。勤めの初日とあって少なからず緊張し気合いを入れて臨んだ今日という日は、暇に食い潰され、そして主に掃除で終わろうとしていた。


 朽葉に頼まれて探していた本は見付かってはいない。最初にその本を探し始めたのだが見当たらなかったので、書棚の掃除をしつつ端からじっくりと見て行こうと思い実行したのだが、こうして日暮れ近くになってもそれは目に入らぬままだった。本当に、此処にあるのだろうか。


 あれから一度も朽葉は此方へ姿を見せることはせず、私としても特別に困ったことがあったり用事があったりしたわけでは無かったので、声を掛けることはしなかった。しかし物音一つしないので、少々不安を覚えてはいる。眠ってでもいるのだろうか。そういえば、この店の閉店時間を聞いていない。いつ頃に店仕舞いをすれば良いのだろう。もう一度、頼まれていた本を探してから尋ねてみることにしようか。


 そこまで考えて私が椅子から立ち上がった時、控えめな音と共に表戸が少しだけ開かれた。だが、待ってみても、それ以上に戸が開かれる気配は無い。客だろうか。私は不審に思いつつも近付き、細く開かれた戸の前に立った。誰もいない。


「あの」


 丁度、死角になっている右隣の方から不意に声がし、私はいささか驚きながらそちらを見る。逆光の中、長い黒髪を後ろで束ねた一人の少女がひっそりと佇むようにして其処にいた。その表情は俯いている為に良く分からない。


「あの、まだお店、開いてますか」


 年の頃は十六か十七か、その辺りだろう。少女は此方の反応を窺うように、一言ずつを区切りながらゆっくりと言った。


「ああ、どうぞ。いらっしゃいませ」


 私がそう言って中へと招き入れると、俯いたまま少女は先程の言葉のようにゆっくりとその足を店内へ進める。


 そして、入り口から一番近い左端の書棚の前に立ち、そこでようやく少女はその顔を上げた。だが、薄暗くなりつつあるこの時間では、はっきりとは見えない。


 私は戸を閉め、行灯あんどんに火を灯す。途端、ぼわりと屋内が明るくなる。そのまま少女の背へ視線を向けると、明かりを受けて射干玉ぬばたまのように輝く黒い髪がいやに美しく見えた。


 少女は左端の書棚から徐々に右へと移動して行く。目当ての本を探しているのか、ごく微かに首が上下左右を彷徨うように動いて行く。私は元の通りに椅子に腰掛け、特にすることも無い中、何となく少女の後ろ姿を見ていた。少女は、沼の底の碧と紺が暗く入り混じったような色合いの着物を着ていた。


 ――どれくらい経っただろうか。ふと玄関戸の方へと視線を遣れば、先程よりも外は大分暗くなっているようだ。行灯の明かりが色濃く家屋内を照らし出している。


 少女へと視線を戻せば、一番右端の書棚の前で、じっとしていた。その手には一冊の本があるようだ。ぺらりぺらりとページをる音が静寂の中にひっそりと囁きのように響く。私は、その後ろ姿を眺めながら、何処か遠い昔日せきじつを見つめているような心持ちになった。


 あまりにも静かなせいだろうか。其処には、私と少女の二人きりしかいなく――奥の間には朽葉がいるのだが――まるで世界から切り離されたかのような感覚を私はいつしか味わっていた。耳を漂う静謐せいひつと、何処か幻想的にも目に映る行灯のほの明るさが、より一層のこと、この時間を浮き彫りにする。


 そして、其処に存在している、ほとんど一定の間隔で生じているであろうページをめくる音が、だんだんと心地好く、愛おしくすらなって来る。込み上げる、この感情は一体何であるのか。私には良く分からなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る