不思議な薬(Bパート)


「はあ……。帰りたくない」


 飛び込みで入った場末のBarで、結木ゆうき秀一しゅういちはこの夜13回目の深いため息をついた。


 どうしてこんなことになってしまったのか。

 いや、理由はわかっている。


 秀一の人生、最初にして最大の過ち。

 それが3年前の結婚だ。


 正確には婚約破棄からの電撃結婚。

 いま思い返しても気の迷い、いや頭がどうにかしていたとしか思えない。


「婚約を破棄したい」


 そう伝えたときの華世はなよの顔を今でも夢にみる。


 華世とは3年付き合っていた。

 社内恋愛がバレないように慎重に慎重を重ねて、こっそりとふたりで愛を育ててきた。


 海が見える公園でプロポーズして、両家の挨拶も済ませて、満を持して会社に結婚の報告。ここまでは順調だったんだ。


 秀一のライフプランが狂ったのはそれからすぐ後のこと。


 会社の先輩だった須山すやま千尋ちひろ

 今は秀一の妻、結木千尋。


 入社してから何度か飲みに誘われた。


 はじめは面倒見の良い先輩だと思っていたのだけど――彼女が秀一のことを男としてしか、もっと直接的にいうならば性的対象としてしか見ていないことに気付いてしまった。


 それからはなるべく避けるようにしていた面倒な先輩。


 そのはずだったのに。


 会社に結婚を報告してから数日後、彼女に会ったその瞬間から秀一は心を奪われてしまった。

 結婚をするなら千尋しかいない、そう思ってしまったのだ。


 そこから先は思い返したくもない怨嗟と嘲笑を背負う日々。

 婚約破棄によって、華世にはただただ泣かれ、華世の親族には蛇蝎のごとく罵られた。実の親にも「しばらく顔を見せるな」と叱責を受けた。


 結婚報告をしていた会社の上司も唖然としていた。

 面と向かって言われることはないが、同僚はみな秀一のことを最低の人間だと陰口をたたいている。

 どれも当然のことだ。『婚約者を捨てて他の女に乗り換えた男』なんて裏切り者で、信頼できないヤツだと思って当然。


「思えばアレが地獄の一丁目、か」


 グラスに入った氷を指先でいじりながらつぶやくと、急に隣の席から声を掛けられた。


「おやおや、お悩みのようですね」


 横を向くと、絵に描いたように見事なエビス顔の男が座っていた。


「この薬を飲めば、あなたが望む現実を手に入れることができますよ」


 そう言って男が差し出してきたのは小さな袋に入った錠剤。

 どうせ合成麻薬かなにかだろう。

 秀一は再び大きくため息をついた。


「そんなものに頼ったって、現実は変わらないでしょう。……いや、変わるかもしれませんね。もっと悪い方に」


 そう口にして、秀一はわずかに苦笑を漏らした。


 なんだ『もっと悪い方』って。

 こんなに最悪な気分なのに、本当に『もっと悪い方』があるのだろうか。

 最悪のベクトルが変わるだけなんじゃないのか。


 もう……どうでもいい。


「いえいえ。そんなことはありません。3年ほど前にもこちらの薬を飲んで、見事に意中の男性を射止めた女性がいましたよ。ねぇ、マスター?」


 エビス顔の男が話を振ると、マスターと呼ばれた男が静かに頷いた。


「3年前……」


 イヤな一致だ。

 秀一の頭の中で「もしかして」と「そんなバカな」がぶつかり合う。


「その女性の名前は?」

「それはお客様の個人情報ですので」

「そうですか……。じゃあ、個人情報にならない範囲であれば教えてもらえるんですね」


 秀一の問いに、エビス顔の男はイエスともノーとも答えない。

 まあいい。聞いてみるだけタダだ。


 試しに秀一は千尋の特徴をあげてみる。

 年齢、目つき、3年前の髪型、酒癖の悪さ、どれもこれもが千尋の特徴と一致した。


「そんなマンガみたいなことが……。いや、しかし」


 偶然と切り捨てるには全てが一致しすぎている。

 もし、彼女がこの薬を使って秀一の人生を狂わせたのだとしたら……。


 なんと身勝手な話だろうか。

 こんな薬さえなければ、あの女が自分勝手な未来を望まなければ、秀一は今ごろ華世と幸せな家庭を築いていたかもしれない。


 そこまで考えて、ふと気づいた。


「この薬は過去をやり直すこともできるんですか?」


 エビス顔の男は鷹揚に頷く。


「もちろんですとも。ただし過去に戻れるわけではありません。あなたの望むとおりに過去を改変した、結果としての現実を手に入れることができます」


 本当ならば凄いことだ。

 普通なら「そんなうまい話があるものか」と一笑に付すところだが、自分の身に起こった不可思議な出来事が秀一に決断をうながした。


「その薬、貰ってもいいですか?」

「かしこまりました」

「あ、お代は……」

「結構です。2錠目からはお代を頂きますから」

「そうですか。……ちなみにこの薬、副作用は――いや、いいです」


 聞いたところでどうしようというのか。

 例え寿命を10年、20年失おうとも、残りの時間を華世と共に過ごすことができるのなら――秀一にはこの薬を飲む以外の選択肢など存在しないのだから。


 秀一は薬を見つめ、理想の現実を描く。

 3年前、千尋に惑わされることなく華世と結婚する未来。


 薬を口に放り込んだところで、ふと気づいた。

 さきほどエビス顔の男は『2錠目からはお代を頂きます』と言った。

 もしも千尋が再びこの薬を手に入れて、現実を変えようとしたら……そこから先はイタチごっこになってしまう――ならば。


 秀一は意を決して薬を飲む。


 ――この世界に『須山すやま千尋』が存在していなかった現実を願って。




          【Bパート 了】

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