第26話 疑心に惑う

「改めて戻ってくると……カビ臭いですね。それに少し、腐臭もする気がします」

「あ、それは食糧な。全部を片付けていたらおかしいだろ? 何食ってんだ? ってなる」

「確かに」


 今まで通りの演出が必要なのは、何も聖女ユリアだけではない、ということだ。


「星占師たちの気持ちが分かりますね。外からこの牢の中に入ってきたら、すぐに出たくて堪りません」

「そこで生活してきたわけだけどな」

「人の適応能力の素晴らしさに感動します。同時に、もの凄く生卵をぶつけてやりたいです。やむを得ず腐ってしまったものが望ましい」


 食用卵とは、鳥の命を削って生み出されているものである。粗末にはしたくないので、もう食べられはしないものを使いたい。


「姫さん、元気になったなあ……」

「やはり貴方もそう思いますか。わたくしもです」


 適度な睡眠と食事。そしてこちらはまだ足りていないが、体を動かして筋力を鍛え、疲労を得る。

 アネリナの体も心持ちも、すべてが足りていなかったときとは比べ物にならない。


「部屋の光源が乏しいのは力になってくれるでしょうが、若干、不安ですね」

「ほんの一週間ちょい前の話だ。思い出して頑張れ、姫さん」

「頑張ります」

「――っと」


 ピク、と耳を震わせ、アッシュはアネリナに窓の近くの椅子を示す。かつてのアネリナの定位置だ。

 椅子に腰かけ、姿勢を正し過ぎないように意識する。


 僅か一週間強。されど一週間強。熱心な教師と生徒が揃えば、学習にも格段の成果が現れる。

 綺麗に矯正され始めたアネリナの立ち居振る舞いは、これまでよりも美しく、優雅に成長していた。


「違いが判らねえのに違って見える……。精通した本物の指導はすげーな……」

「ほんの僅かな角度が、与える印象には大きく関わります」

「そんなもんか……」


 理屈には一応納得したのか、アッシュは感嘆の声でうなずいた。

 そこでお喋りを一旦切る。

 表情を消し、アネリナは窓の外を眺めた。視界の先で鳥が飛び立ち、ややあって、木の影から馬車が姿を見せる。

 馬車はそのまま敷地内へと入り、星占師の一団が下りてきた。

 大股で荒々しく歩くその姿は、遠目からでも苛立っていることがよく分かる。身勝手極まりないが。

 塔を上ってくる足音が近くなり、手前で止まる。そして、扉が叩かれた。


(アッシュが扉を開けて迎え入れたことなどないのに。なぜ、無駄な行いを繰り返すのでしょうね?)


 そしていつも通り、焦れると外から鍵が開けられる。その感覚の短さも、アネリナにとっては失笑ものだ。

 開かれた扉から、星占師たちが中に入ってくる。顔を嫌そうにしかめながら。

 顔をしかめたいのはアネリナたちの方だし、呼んでもいないのだから来なければよいのに――と、ずっと思って来たものだが。この異臭に顔をしかめる気持ちだけは分かった。

 そこから続く感想は変わらないが。


「さて、アネリナ姫。星告が下りましたぞ」

「左様にございますか」


 冷え冷えとした声音。

 いつもならば、そこには何の感情も映らない。いや、映すことなどできなかった。己の身を、ニンスターを護るために。

 しかし今のアネリナは、保身よりも怒りの感情が勝ってしまっている。

 美しく、冷ややかで無関心な――それでいて突き刺さる、鋭い怒り。

 それを正確に受け取ったかは分からない。だが星占師は間違いなく、アネリナが発した一言に怯んだ。

 抱いた怯えは、すぐに屈辱と憤りに返還される。


「アネリナ姫、貴女様のその態度は」


 ニンスターの名前を出し、脅しをかけようとして。

 しかし振り返ったアネリナが湛えた微笑に射抜かれ、息を詰める。

 くだらない虚栄心が傷付けられ、どす黒い顔色になっている星占師の姿は滑稽で――腹立たしい。


(こんな男が。こんな小物が。わたくしとわたくしの国を傷付けている)

「何か」

「――……」


 先を促しても、星占師の口は動かない。


「どうしました。星告を告げにいらしたのでしょう。畏れ多くも、星から賜った導きを、どうぞ口になさるがよろしい」


 己が娘をいたぶるために理由にしている『それ』が、星とも厄災とも関係のないことは、星占師自身がよく分かっている。

 だからこそ想像してしまった。騙られた星が、怒りを持って己を天から見下ろしている様を。

 彼らが今日星告の塔を訪れたのは、これまで音沙汰のなかった聖女が唐突に表れ、人々に歓迎されていることへの不満を解消するためだ。

 長く沈黙してきた聖女のせいで、彼らは忘れかけていた。

 世の中に、本物があることを。星は事実、見通しているのだということを。

 アネリナの一言は、己の偽りを自覚させ、畏れさせるのに充分だった。


「……っ」


 絶句する星占師たちから不意に視線を外し、アネリナは外を、空を見上げる。


「……ああ。今日は、月が明るいですね」

「は……?」

「まだ太陽のあるうちから、月が見えます。きっと、星も隣で輝いていることでしょう。善きことです」


 その輝きが最も人に知覚される夜でなくとも、関係などない。

 星はいつでも、天から人を見ている。


「どうなさいました。どうぞ、星の言葉を告げてください」

「い、いや――今日は、姫の様子を見に来ただけで……」

「ほう。星がわたくしの様子を伺えと示されましたか。ありがたきことです」

「う、うむ。健勝なようで何より。――失礼する」

「道中、お気を付けください。ああ、心配はいりませんね。星の加護は、いつであろうと、どこにいようと関係ない。貴き御身であれば御守りくださるでしょう」


 誠心誠意、疚しい所のない人間であれば、アネリナの言葉はただの無事を祈る言葉である。

 しかしむしろ、星に唾を吐きかけるような行いをしていることを自覚した星占師たちだ。

 上位の存在に己の悪行を見透かされている。そんな怖れに体を震わせ、冷ややかにかけられたアネリナの言葉を振り払うように、せわしなく外へと出て行った。


 そそくさと去って行く彼らは、きっと心の内で互いを罵り合うことだろう。

 憂さを晴らすために少女をいたぶりに来たのに、無駄骨を折ったどころか、心に沁み付く怯えを植えられてしまったのだから。

 馬車が走り出すのを見届けてから、やるかたない怒りを込めて、アネリナは塔の壁を蹴りつける。


「卑劣で、嗜虐嗜好の変態で、おまけに小心。あんな連中が威張りくさって歩いているのだから、本当、最低ですね」

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